三島由紀夫を模倣し「太宰治」を題材にした小説『懺悔記』第三章・第四章

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第三章 亡霊としての太宰

 太宰が死んでから、世界は静かになった。

 いや、より正確に言うならば、私の世界が静まり返ったのだ。新聞は数日のあいだ彼の死を騒ぎ立てたが、東京の街はすぐにいつものざわめきを取り戻し、銀座には香水の香りが戻り、神田の書店には新たな純文学の旗手たちの書名が並んだ。けれど、私の精神だけが、時間の流れに逆らって沈殿し、あの水死体の横で腐敗し始めていた。

 あれほど軽蔑していたはずの男――あれほど否定したはずの男の死が、なぜ私にこれほどまで長い影を落としたのか。私はその問いの答えを探すふりをしながら、実は探すこと自体を楽しんでいた。彼の亡霊が夜ごと私の部屋の壁を這い、彼の声が書きかけの原稿の行間に滲んでくるのを、私は密かに待っていた。私は、呪われたかったのである。


 戦後の文壇には奇妙な空白が生じていた。優れた作家は幾人もいた。知性を研ぎ澄ました批評家たちも、言語の解体を試みる若い詩人たちも、飢えた読者を魅了していた。だが誰一人として、太宰のように「罪」を抱いてはいなかった。

 彼らの文学は清潔すぎた。どこか病院の壁のように白く、正確で、消毒されていた。それに比べて太宰の作品は、まるで破れた軍服のように汚れ、臭く、だが不思議な温もりがあった。人は、寒いときにこそ、あのような布を身にまといたくなるのだ。屈辱にまみれた、柔らかい布を。

 私は、あの布を探していた。だがもう売っているところはなかった。


 ある日、出版社の男が私を訪ねてきた。小太りの、眼鏡の奥に無数の売上表を貼り付けたような視線を持つ男だった。彼は、私の短篇が某文芸誌に載ったのを見てやってきた。曰く、「いま、戦後文学が模索しているのは太宰の次だ。太宰の模倣ではなく、太宰を超える視点だ」と。

 私は黙って彼を見ていた。その男の額に浮かんだ汗の粒が、妙に下品だった。彼は畳に手をつき、さらに続けた。

「つまり、太宰的なるものを斬る作家。そういう役割が、今、文壇には求められているんですよ。あなたの文章には、それがある」

 私は、軽く笑った。

「太宰を殺す? 遅すぎる」

「え?」

「彼はもう死んでいる。誰よりも先に、自分で自分を殺した。自死とは、批評に先んじた最後の断言だ」

 男は口を開けたまま、しばらく動かなかった。

 その表情を見て、私はようやく、太宰という存在がまだ生きていることを知った。彼は死んではいなかった。ただ、別の形で生きていたのだ。誰の中に? 私の中にだ。


 夜、机に向かいながら私はこう思う。私の中には、二つの声がある。一つは理性の声。構造を愛し、論理に耽り、完璧な形を求める声。もう一つは、あの男の声。濡れたような声。幼く、媚びるようでいて、唐突に鋭くなる声。

 「ねえ、あなた。生きているだけで恥ずかしくないんですか?」

 その声が耳元に忍び寄るたび、私は鉛筆を折る。用意していた語彙のすべてが、急に陳腐な芝居の台詞に見えてくる。美を目指した文章が、ただの虚飾に思える。私は太宰に敗北する。

 だが、私はその敗北を記録しなければならぬ。なぜなら、それこそが私の文学だからである。


 かつて、太宰が「人間失格」と書いたとき、彼は自分が人間であることを、誰よりも深く理解していたのではないか。人間というのは、そもそも「資格」を持たぬ生き物である。その前提を明言すること、それがあの作品の本質であった。

 だからこそ、読者は彼にすがる。自分の堕落を、あらかじめ代弁してくれた者にすがるのだ。太宰は、読者の罪の代弁者だった。

 では、私は何者か。

 私は、罪の代弁を拒否する者である。人々に、罪を突き返す者である。あらゆる懺悔に「いや、それは許されぬ」と言う者である。だが、それは冷たい。あまりに冷たい。まるで鉄の板のように。

 だから私は、読み継がれぬ。人は冷たいものより、濡れたものを愛する。


 文壇の宴席に呼ばれたある夜、私は酔いに紛れて、無遠慮な編集者に太宰の話をした。彼は鼻白んだ様子で言った。

「もう太宰の時代じゃないでしょう。彼は終わった。新しい読者は、もっと希望を欲しがってる」

 私は笑いながら言った。

「終わっていない。彼はまだ、我々の足首に縛りついている。新しい文学が生まれるたび、彼の死体が揺れるのさ」

 それを聞いていた若い詩人が、ひどく怯えた顔をした。

 その顔を見て、私は満足した。


 春の夜明け、私は街を歩いた。薄明の東京には、かつて焦土と呼ばれた面影はなかったが、そこには太宰の気配が確かにあった。路地の濡れたアスファルトの匂い、牛乳配達の足音、早朝の新聞売りの怒鳴り声――そうしたすべてに、太宰の文学の断片がこびりついていた。

 私は思った。太宰治とは、もはや一人の人間ではない。彼は日本という国が戦後に産んだ亡霊である。敗北、罪、虚無、そして儚い美。それらの総体として、彼は生きている。

 ならば、私の文学は何か。

 私は、亡霊を狩る者である。死者の声を文字に封じ、影を紙の上に引きずり出す者である。

 だが、幽霊を殺すには、まず自分が死なねばならぬ。

 私はそれを理解していた。だが、まだ死ねない。まだ、書かなければならない。

 太宰の死が私に与えた使命は、そういうものだった。


第四章 夢の解剖台

 夢は、常に私の意志を嘲弄して現れる。現実の私が理性と様式の鎧を着込んでいればいるほど、夢はそれを剥ぎ取る術に長けていた。

 それは、ある冬の夜に見た夢であった。

 夢の中で、私は暗い館の廊下を歩いていた。壁にかかった油絵がみな顔を背けており、廊下には一本の蝋燭の火しか灯っていなかった。床は冷たく、遠くで滴る水音が、不快な緊張を誘っていた。

 私は進んだ。進むしかなかった。なぜなら、背後には何かがいたからだ。それは見えなかったが、確かに“読む”という気配があった。背後で誰かが、私の過去の文章を一字一句なぞって読んでいた。嗤いながら、舌なめずりしながら。

 扉が見えた。古い、木製の、ひどく重たそうな扉。

 私はそれを押し開けた。

 すると、そこには太宰治がいた。


 彼は、裸だった。いや、正確には白い浴衣のようなものをまとっていたが、それはまるで皮膚のように彼に貼りついていた。顔には笑みがあった。あの、かつて写真で見た、あの奇妙な、斜め上を睨むような視線とともに。

「やあ、やっと来たね」

 声は柔らかかった。しかし、私の背筋を刺したのはその言葉ではない。その背後にあった沈黙、つまり、“私が来るのをずっと待っていた”という前提だった。

 部屋の中央には手術台があった。古い黒革張りの台で、金属の留め具が鈍く光っていた。その上に、誰かが寝かされていた。

 私自身だった。

 私は混乱した。夢の中とはいえ、自らの身体が二つ存在するという事実は、理性に小さな裂け目を生じさせる。そして、その裂け目を太宰が舌でなぞるように近づいてきた。

「これはね、君が殺した“言葉”の骸なんだよ。見覚えがあるだろう?」

 私は黙っていた。

「君はね、完璧であろうとしすぎた。綺麗な言葉で、綺麗な思想で、綺麗な死体を作ろうとした。でも、文学はそういうものじゃない。文学はね、汚い臓物を晒すことなんだよ」

 そう言うと彼は、私の“もう一人の私”の胸を裂いた。小説の原稿用紙を引き裂くような音がした。


 私は叫んだ。いや、叫ぼうとしたが、声が出なかった。

 彼は中から、腸のようなものを引き出した。それは確かに、かつて私が書いた比喩だった。あるいは、愛に似た嫌悪だった。苦悩を誇るように書いた散文だった。全部、ばらばらに引き出された。

「これが、君の文学の正体さ」

 彼はそれを、まるで煙草でも巻くように手で弄び、私に見せつけた。私は膝をついた。

「君が殺した“本物”を、私は拾ってきた。君は見た目を飾ることで、“生”を偽装したんだよ。私は違う。私は、偽らなかった。だから、読まれるんだ」

 私は震えていた。

「君は僕を殺そうとした。でも、殺し切れなかった。君の文章は、僕の屍の上に築かれている」

 彼は笑った。

「だから、君が死ぬまで、僕は君の中に生きる」


 私は目を覚ました。

 汗で濡れた布団。真冬だというのに、全身が蒸し風呂に入った後のようだった。時計は午前四時を示していた。隣室の時計の音が、やけに鋭く耳に刺さった。

 夢だった。だが、それは単なる夢ではなかった。あれは“真実の言葉が変装して現れる形式”としての夢だった。

 私は机に向かった。ペンを持った。だが、筆が進まなかった。いつもなら支配していたはずの文体が、今夜ばかりは、太宰の声に侵蝕されていた。

 「お前はまだ、本当のことを書いていない」

 そう言われた気がした。


 私は自分の原稿を読み返した。過去に発表された作品。いずれも、洗練されていた。比喩は練られ、構成は完璧で、批評家からも好意的に迎えられた。

 だが、そこに“血”はなかった。

 太宰の作品には、血があった。生ぬるく、時に腐った血が、読者の指先にまで滲んでくるようだった。私は血を恐れた。文学が“祭壇”ではなく“解剖台”であるという事実を、私はどこかで否定していた。

 私は自分を恥じた。

 そして、誓った。

 これから書く作品には、体温を。血を。痛みを。私の中の“解体されたもの”を晒そう。それが太宰への報復であり、赦しでもある。


 それから数日、私は誰にも会わず、ただ文章を書き続けた。

 太宰の真似ではない。太宰を貫く、という行為だった。彼の亡霊をただ恐れるのではなく、その亡霊の懐に飛び込んで、奥歯で喉を噛み切るような覚悟で向き合うこと。私にはそれが必要だった。

 私は書いた。自分が抱えた恥、破綻、愛の失敗、文学への不信、そして、それでも書いてしまうという呪い。すべてを、書いた。

 原稿が血で濡れるような気がした。


 夜明け、私は再び夢を見た。

 今度の夢には、太宰は出てこなかった。

 代わりに、真白な部屋に“文字”だけが浮かんでいた。天井にも床にも壁にも、文字。文字。文字。すべて、私がこれから書くべき物語だった。

 私は膝をつき、頭を垂れた。

 やっと、始まったのだ。

(つづく)

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