横溝正史を模倣し和歌山毒物カレー事件を題材にした小説『鉄鍋忌聞録』(てつなべきぶんろく)第二章

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第二章 赤き金魚と闇の井戸

  •  一

 その夜、私は眠れなかった。旅館の安普請な畳部屋に寝転んでみても、襖の向こうでしきりに虫が鳴き、時折、軋むような音が響く。風もなく、扇風機の羽音が天井にこだまして、まるで誰かが部屋の中で息を潜めているように思えた。

 机の上には、老婆から託された赤い金魚模様の浴衣が置かれていた。慎ましくも艶やかな色柄は、田舎の夏祭りには不釣り合いにすら見える。だが、どこか妙に生々しく、肌の温度を帯びているようだった。

 ふと、浴衣の襟元に細い糸で縫い込まれた一文字に気づく。

「しづ」――。

 誰の名なのか、何の意味があるのか、見当もつかない。ただ、直感的にこれは“久枝”とは別の女の名だと思えた。


 翌朝、私は再び御堂周平の案内で村の古老を訪ねることになった。

 その人物、三木原政次郎(みきはら・せいじろう)は、かつて村の記録係を務めていた老人である。村の伝承や系譜を詳しく知る数少ない生き証人とも言われている。

「毒には、血の理があるんや。毒がその人間を選ぶんとちゃう、血が毒を育てんのや」

 三木原は、開口一番にそう言った。

 彼の家は村の奥、竹林を抜けた先の一段高い地に建っていた。天井の高い茅葺の古民家で、床の間には先祖の位牌がずらりと並び、欄間から射す光にその金箔が鈍く光っていた。

「……“しづ”という名をご存じですか?」

 私が浴衣の刺繍について尋ねると、政次郎ははたと顔を上げた。

「しづ……しづ、か。お前さん、それどこで見たんや」

 声が急に細くなる。

「いや、ある老婆から託された浴衣の襟元に縫ってあったんです」

「そら、たぶん“志津”やな。長峰家の分家筋の娘や……昭和二十八年の水害で井戸に落ちて死んだ」

 思いがけない言葉だった。井戸、死、そして“長峰家”。

「その志津さんと、久枝さんに関係は――?」

「直系の姪にあたるんや。志津は十七で死んだ。器量がようてな。けんど、村のある男と密かに契った。許されん相手や。……その子どもが、久枝や」

 私の背筋に冷たいものが走った。

 つまり、久枝は“志津の落とし胤”だったというのか?


 昭和二十八年、東角村では大きな水害があったという。濁流に流された家屋、潰れた橋、村人十七名が死亡。その中に、志津の名もあった。

 しかし、政次郎はこう続けた。

「けんどな、実際は志津は“落ちた”んとちゃう。あれは“落とされた”んや」

「誰に、です?」

「村や。村そのものが、あの娘を“浄化”した。忌むべき血を断ち切るためにな」

 そのとき、屋敷の外で風が吹いた。ざわ、ざわ、と竹林が鳴き、どこかから赤子のような泣き声が聞こえたような気がした。


 その午後、私は久枝の自宅を訪れる決意をした。事件以来、彼女は村の外れにある離れ家に身を隠すように住んでいるという。かつて雑貨屋だった建物の脇に立つその家は、木造二階建てで、塀の上にツタが巻きついている。

 呼び鈴を押すと、中からすぐに女が出てきた。

 痩せてはいたが、目は鋭く、頬骨が高く、唇はかすかに震えていた。

 これが、あの“毒婦”と噂された女か――私は思わず言葉を失った。

「……あなたが、簗瀬さん?」

「はい。取材に参りました」

「そう。じゃあ、あがって」

 久枝は妙にあっさりと私を招き入れた。


 部屋には香の匂いが漂っていた。障子には黄ばんだ染み、棚には整然と並ぶ裁縫道具、そして――その傍らに、例の“赤い金魚の浴衣”が、同じ柄のものとして畳まれていた。

「これ……」

「“志津の浴衣”よ。あなた、どこで見たの?」

「老婆の方から。おそらく親類の方かと」

 久枝は目を伏せた。

「志津は……私の母よ」

 その言葉は、冷たい水のように部屋に広がった。

「でも、私は“娘”ではない。村はそう言う。志津は“穢れた”女で、その血を継ぐ私は“災い”そのもの。だから、私が何を言おうと、何をしても、すべては“志津の祟り”になるの」

 久枝は淡々と語った。まるで、自分の人生を他人事のように。

「――毒を、混ぜましたか」

 私は、思い切って問うた。

 だが久枝は、何も言わなかった。

 ただ、微かに微笑しただけだった。


 帰り道、私はふと振り返った。家の二階の窓から、久枝がこちらをじっと見ていた。何も語らず、ただ見下ろしていた。

 その目に、恐怖も後悔もなかった。

 あったのは、ただ“空白”だった。


 その夜、宿に戻ると御堂周平が待っていた。

 彼の顔には、焦りと怯えが浮かんでいた。

「簗瀬君……ひとつ、話しておかねばならんことがある」

「何でしょうか」

 御堂は座布団に正座し、深々と頭を下げた。

「……あの夜、カレー鍋を運んだのは、私の孫だった」

「……え?」

「つまり、久枝が毒を混ぜたのではない。鍋に“何か”を入れたのは、別の誰かだ。孫が言うには、鍋を厨房に戻した隙に、誰かが鍋に白い粉末を入れているのを見たと……」

 私は絶句した。

 つまり――久枝は“毒を混ぜた”のではなく、“混ぜられた”鍋の番人として、すべての罪を背負わされたのか?

 その夜、私はようやくこの村の恐ろしさの輪郭を掴みかけた気がした。

 村は――何かを“殺したがって”いる。

(つづく)


※この物語はフィクションであり、実在の人物・団体・事件とは一部を除き関係ありません。ただし、1998年の和歌山毒物カレー事件を題材とし、横溝正史の文体を模した推理小説として構成しています。

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