第九章 灰と鉄と
昭和十八年夏、東京の空は鉛色に沈んでいた。
遠雷のような音が響き、誰かが空を見上げて呟いた。
「B二十九……来るぞ」
それは、太平洋戦争開戦から二年。
日本本土に、ついに戦火が及び始めたことを告げる、恐るべき兆しだった。
同年秋、アメリカ軍はガダルカナルから本格的に反攻に転じ、
帝国海軍の劣勢は決定的となった。
南太平洋の島々で多くの将兵が飢え、病み、戦わずして倒れていた。
その報が東條英樹のもとにも日々届く。
「輸送船、到達せず。補給物資、全滅せり」
「兵員の半数、マラリアにより行動不能」
彼は報告書に目を通し、眼鏡の奥で瞼を閉じた。
「勇戦の果てに、飢えと病に屈せしとは……これが、わが軍か」
昭和十九年初頭、空襲が本格化する。
サイパンが陥落すれば、B29による爆撃は日本本土を容易に射程に入れるようになる。
軍令部は動揺し、民心は徐々に不安の色を濃くした。
だが、その中にあっても、東條は冷然と政務を続けていた。
「いま我が為すべきは、悲観でも楽観でもなし。
ただ、やるべきことをやり抜くことにございます」
彼は陸軍大臣・内務大臣・参謀総長を兼任し、全権を掌握。
国策の一元化を図るべく、国家総力戦体制の徹底化を推し進めた。
この時期、民衆は「銃後の戦士」としての役割を強いられた。
男子は徴兵、女子は工場動員、児童は農作業。
米、味噌、塩に至るまで配給制とされ、都市生活は極限状態に陥る。
「芋ばかりの日々」「子どもの栄養失調」「冬に薪がない」——
新聞には書かれぬ現実が、民の声として地下水のように広がっていた。
そんなある日、東條は密かに千葉県の軍需工場を視察した。
寒風の吹く中、防寒着すらままならぬ少女が旋盤を回していた。
「お父ちゃんが、兵隊なんで、私が頑張らないといけないのです」
少女は無邪気にそう言い、機械の油に汚れた手で敬礼した。
東條はその場に立ち尽くし、声をかけることもできなかった。
彼は、その日の夜、閣議の席上で叫ぶように言った。
「我らは、未来ある子らに銃を取らせてはならぬ!
それでもなお、戦わねばならぬとは……それが戦というものか!」
しかし、閣僚たちは沈黙した。
敗色が濃厚となった今、誰もが退路を探していた。
一方、天皇もまた深く憂慮していた。
東條を官邸に呼び寄せ、静かに言葉を発する。
「このまま進めば、国が滅ぶかもしれぬ」
東條は深く頭を下げ、静かに答えた。
「陛下、勝敗は人智の及ばぬところにございます。
されど、この一身を捧げることで、わずかでも民を守ることができますれば……」
その姿に、侍従の一人が後に記す。
「まるで、神に仕える巫のようであった」
戦局はますます悪化し、サイパンが陥落した。
それは、国土爆撃の幕開けを意味していた。
昭和十九年七月、東條に対する批判が一斉に噴き出す。
「独裁による戦局の混乱」
「戦争指導の失敗」
「軍政の弊害と暴走」
新聞はなお「総理の英断」と記すが、民の心は明らかに離れ始めていた。
七月十六日、東條英樹はついに内閣総辞職を決断する。
官邸の一室で、彼は一枚の便箋に静かに書き記した。
「我、帝国のために、ただただ職を全うせんと欲し、
今ここにその務めを終える。
あとは、後に続く者の双肩に托す。
願わくは、民よ、耐えよ。耐えて、生きよ」
辞表を提出したその夜、東條は靖国神社を再び訪れた。
誰もいない夜の社殿に向かって、ただひとり立つ。
「我が為し得しこと、果たして正しかりしか……。
だが、我は、我が信ずる道を曲げなかった。それだけは、違わぬ」
その眼は老いてはいなかった。
むしろ、誰よりも静かで、そして強かった。
かくして、東條英樹の政権は幕を閉じる。
戦争は、なお続く。
だが、この国の命運は、すでに静かに変わりつつあった。
(つづく)
第十章 最後の命令
昭和二十年八月十五日——正午。
ラジオの向こうから、柔らかな、そして異様に静かな声が流れた。
それは、天皇の肉声——玉音放送だった。
「朕、深く世界の大勢と帝国の現状を鑑み……堪え難きを堪え、忍び難きを忍び……」
人々は息を呑み、地にひれ伏し、あるいは泣き、あるいはただ立ち尽くした。
そして、ひとつの時代が、終わった。
その数日前、東條英樹はすでに敗戦の報を悟っていた。
かつて陸軍大臣として、総理大臣として、全権を握った男は、今や一隠居の身となっていた。
だが、彼の心は決して休まってはいなかった。
「この国の終わりを、我が眼で見ねばならぬ。
それが、戦を始めし者の義務なり」
東條は、世田谷の自邸に籠もり、手記を書き続けていた。
そこには、軍人としての覚悟と、政治家としての後悔が交錯していた。
昭和二十年八月下旬、GHQの指令により、戦犯容疑者の逮捕が始まる。
リストの中には、当然ながら東條英樹の名もあった。
米軍のジープが彼の邸宅を包囲したのは、八月二十八日の早朝であった。
その瞬間、英樹は静かに立ち上がり、床の間に置かれていた拳銃を手に取る。
彼は自らの胸に銃口を当て、静かに呟いた。
「武人の道、ここに果てん——」
銃声が響いた。
だが、弾は心臓を逸れ、東條は即死を免れた。
輸送先の病院で、彼は意識を回復する。
米軍軍医は、彼の手を握り、こう言った。
「あなたは死ねません、トージョー。
これから法廷に立たねばならない」
英樹はうっすらと目を開け、力なく微笑した。
「死ねずば、生きるまで。
それもまた、武人の務めなり」
数週間後、彼は収容所に移送され、他の戦犯容疑者とともに拘束される。
そこには、旧知の将官、文官たちの姿もあった。
その誰もが、かつて政権中枢にあり、今は一囚人に成り果てていた。
だが、英樹だけは、表情を変えなかった。
「わが言、わが行、すべて記録され、裁かれることになろう。
よろしい。ならば、正々堂々と述べん」
昭和二十一年、東京裁判が開廷する。
戦勝国による国際軍事裁判——それは、敗者を断罪する場でありながら、
英樹にとっては、最後の戦場でもあった。
彼は弁明席に立ち、静かに、しかし毅然として語った。
「我、命によりて戦争を遂行せし者なり。
国のため、民のためにこそ、この身を捧げたり。
されど、その結果が世界を惑わし、多くの命を奪いたるは、逃れ得ぬ責めにございます」
その言葉には、自己正当化もなければ、謝罪の演技もなかった。
ただ、事実と責任の所在を、彼は淡々と述べた。
連合国の検察官が厳しく詰問する。
「あなたは、軍国主義の象徴であった。
民を戦に駆り、数百万の命を奪った責をどう考えるか」
英樹は、わずかに間を置いて答えた。
「戦争は、誰か一人の狂気では動きませぬ。
時代が、社会が、それを求めた。
我はその渦中にありて、最も前に立った者に過ぎませぬ」
傍聴席にいた一人の外国人記者が、手記にこう記した。
「東條英樹は、傲慢ではなかった。だが、悔恨もなかった。
彼は、己の信じた国家の幻に殉じ、いま、冷たい目で歴史を見ているようだった」
裁判は長く続いた。
東條は全過程を通じて一貫して「国家のための行動」として自らの責任を認めたが、
戦争そのものの正邪については論じなかった。
「戦の正邪は、後世が決する。
我らは、いまを生き、いまを終わらせる義務を果たすのみなり」
その年の暮れ、彼は獄中で再び筆を取る。
綴られた言葉は、後に『東條英樹遺稿』として刊行され、
読む者にさまざまな解釈と議論を残すことになる。
「国とは、土に非ず。制度に非ず。
ただ、そこに住まう民の、心なり。
我が守らんとしたものは、夢であったやもしれぬ。
されど、我が信じし夢ゆえに、この命惜しまず」
やがて判決が下る。
彼の罪状は、「平和に対する罪」——
すなわち、侵略戦争の主導者として、絞首刑が言い渡された。
東條英樹はそれを静かに聞き、こう言った。
「死は恐れず。
ただ、我が行いの真を、百年後の世が見極めてくれれば、それで良し」
昭和二十三年十二月二十三日未明。
東京巣鴨拘置所にて、東條英樹、死刑執行。
最後に彼が発した言葉は、こう伝えられている。
「天皇陛下、万歳。
日本国民よ、永遠なれ」
かくして、一つの時代の象徴は、闇へと消えていった。
(つづく)
コメント