第七章 開戦の檻
昭和十六年十一月。
東京の空は灰色の雲に覆われ、時折小雨が石畳を濡らしていた。
総理大臣官邸の執務室にて、東條英樹は長机に置かれた分厚い書類に目を通していた。
その書類の一枚には、「米国国務省提出対日覚書」と記されていた。
すなわち、ハル・ノート——。
それは、アメリカ側が提示した最終案であり、日本の中国大陸からの全面撤兵、仏印からの撤退、三国同盟の実質破棄を求めるものであった。
それを読み終えた東條は、口を一文字に結び、書類を丁寧に閉じた。
「これは、すなわち、無条件降伏に等しい」
重々しく、それだけを呟いた。
日米交渉の裏で、東條内閣は極秘裏に戦争準備を進めていた。
南雲機動部隊はすでに出港の用意を整え、南方作戦計画も最終段階に入っていた。
だが、東條はなおも「最後の一手」を模索していた。
彼は言う。
「戦わずして勝つは上策。しかし、勝たずして屈すは下策にすら劣る」
そこで彼は、天皇の意思を最終的に確認するため、御前会議の招集を求めた。
昭和十六年十二月一日、皇居にて、御前会議が開かれた。
昭和天皇の御前で、内閣・陸海軍・枢密院の代表者が列席し、日本の命運を決する場であった。
その場で、東條は起立し、低く頭を下げたのち、こう述べた。
「陛下、帝国は今、正義と存立の岐路にございます。
外交の努力は尽くしましたが、相手は我らの存在を認めようとは致しません。
やむなく、国策遂行のため、止むを得ず武力行使に訴えることを要請いたします」
この瞬間、会議の空気は張り詰めた。
海軍の永野修身は一瞬沈黙し、やがて同意を示した。
「遺憾ながら、我らの艦隊はすでに出撃を完了しております」
昭和天皇は、沈黙ののち、低くお言葉を発された。
「ならば、これもやむを得ぬことか……」
こうして、対米英蘭戦争開戦が正式に決定された。
しかし、東條にとってそれは“勝利への門”ではなく、“檻”の扉が閉じる音にも聞こえていた。
かつて軍務局長として、秩序と法による国家統治を理想とした彼は、
いま、破滅への道を自らの手で押し開かねばならぬ立場にいた。
開戦準備は静かに、しかし迅速に進められた。
十二月四日、真珠湾攻撃隊が北方の暗雲の下を航行していた頃、東京では内閣と軍部の連絡会議が続いていた。
東條は関係者に口外無用の厳命を下し、開戦日を十二月八日と定めた。
その直前、彼は軍服姿のまま、夜半に靖国神社へ足を運んだ。
参道にたたずみ、静かに目を閉じて合掌する。
「我、戦を望まず。
されど、国を捨つることは、将たる者の業(わざ)にあらず」
その背中には、血のような朱が落ちたような冬の月が沈みかけていた。
そして——
昭和十六年十二月八日午前三時三十分。
大本営より、南雲機動部隊に向けて「ニイタカヤマノボレ一二〇八」の暗号電文が発信された。
午前七時五十五分(ハワイ時間)——真珠湾攻撃、開始。
この報が届いた瞬間、東條は首相官邸の執務室で書類に目を通していた。
報告を受けた彼は、静かに頷いた。
「これより、我らの試練始まる」
午前十一時、帝国議会にて開戦詔書が朗読された。
「帝国は自存自衛のため、米英両国に対し戦いを決意せり」
東條は軍服の襟を正し、議場に立ち、拳を握りながら低く語る。
「大命により、帝国は今、総力を挙げて聖戦に臨む。
国民諸君、我に続け——」
その声は、決して激情に満ちたものではなかった。
むしろ、深い決意と悲哀が交じったような、重い鉄の響きだった。
開戦の報を受け、日本全国は歓喜と熱狂に包まれた。
だが、英樹の胸中には、冷たい石のような沈黙があった。
戦争とは、勝利すれば正義、敗れれば滅亡。
その真理を、彼は誰よりも知っていた。
その夜、英樹は官邸に戻り、誰もいない書斎で再び靖国の方向へ向かって黙祷した。
誰にも見せぬ涙が、眼鏡の内側を濡らした。
「我が責任、我が罪、我が運命。
すべて、ここに背負いしこと、神よ見よ——」
(つづく)
第八章 勝利の陰影
昭和十六年十二月八日。
帝国が米英蘭との全面戦争に突入したその日、列島は熱狂に包まれた。
各地のラジオからは「帝国海軍、米国太平洋艦隊に奇襲成功」の声が流れ、新聞は号外を打ち、民衆は万歳を叫んだ。
政府広報官は記者団にこう語った。
「東條首相の指導により、帝国は宿命の敵に痛撃を加えたり!」
この日を境に、東條英樹の名は、名実ともに“国家の象徴”となった。
開戦からわずか数ヶ月のうちに、帝国陸海軍は破竹の進撃を続けた。
マレー半島、香港、フィリピン、蘭印、ビルマ——
南方資源地帯は次々と陥落し、かつて夢物語とされた「大東亜共栄圏」は、ついに地図の上に実体を持った。
新聞は「東條総理、神武の如く」「昭和の楠公」と持ち上げ、街頭には東條の肖像画が掲げられた。
子どもたちは銃後の守りを誓い、婦人会は献納運動を展開し、民衆の熱狂は国家全体を包み込んだ。
だがその勝利の影に、英樹は冷たい計算を失ってはいなかった。
彼は戦況報告を前に、参謀たちに問う。
「南方資源の確保は、占領後の維持と運搬を要す。
そのための船舶数は、足りておるか?」
報告官は沈黙し、やがて答えた。
「現状では、タンカーと輸送船が著しく不足しております。
特に蘭印からの石油輸送は、敵潜水艦の脅威が深刻に……」
英樹は無言で頷き、地図上の補給線を指差した。
「勝利とは、兵の勇に非ず。
兵站の確保をして、はじめて続くものと知れ」
昭和十七年春、東京は一見平穏に見えた。
だが、英樹は知っていた。
戦局は、勝利の中にこそ、敗北の芽が潜むということを。
彼は内閣府にて、閣僚会議を開きこう述べる。
「いまこそ、戦争の持久体制を築くべし。
勝って兜の緒を締めよ——その言の真を思い知るべきときにございます」
この方針のもと、国家総動員体制がさらに強化された。
食糧配給制、企業の軍需転換、国民精神動員。
すべてが、ひとつの目的——「長期戦への備え」へ向けられていく。
だが、現場の兵たちからは次第に不満の声が上がり始めていた。
南方の前線では、暑熱病、マラリア、物資不足に苦しむ声が軍報に記される。
「糧食、ほとんど無し。米飯は数日に一度。水も腐敗せり」
「敵の銃弾より、蚊の方が恐ろしき」
英樹はこうした報告に目を通すたび、苦渋の表情を浮かべた。
「兵を死地に送るは、将の責務なり。
されど、無謀に送るは、将の罪なり」
だが、戦線を維持するには、さらなる動員と継戦が必要だった。
補給線の確保、資源の再配分、すべてが追いついていなかった。
昭和十七年六月。
日本海軍は、太平洋の要衝・ミッドウェー島の攻略作戦を開始する。
英樹は、作戦計画に関して強い懸念を抱いていた。
彼は海軍参謀本部長に問うた。
「本作戦、敵の意図を読みきった上での攻勢か?
策なき攻めは、勇にあらず愚なり」
だが、海軍側は「敵艦隊の壊滅は確実」「圧倒的勝利」と自信満々だった。
英樹は静かに答えた。
「ならば、我は信じよう。
されど、敗れしときは、いかなる責も逃れぬものと覚悟せよ」
結果——ミッドウェー海戦、大敗北。
空母四隻を喪失。数百の搭乗員を失い、日本海軍の攻勢能力は決定的に損なわれた。
東京に届いた第一報を前に、東條英樹は執務机で拳を握った。
「これより先、帝国の進撃は終わる。
あとは、如何にして持ち堪えるかの戦いとなる」
勝利の時代は、終わった。
国民の熱狂も、少しずつ翳りを見せ始めていた。
やがて、彼のもとに天皇からの密使が訪れる。
その言葉は、重く、そして静かだった。
「陸海軍の足並みを揃え、国策の見直しを検討する時期かもしれぬ」
東條は深く頭を下げた。
「畏れながら、我が責任、陛下の御憂慮を招くは、すべて我が未熟にございます。
然れど、この道を退くことは、今はなりませぬ。
勝つために始めた戦ではなし。
国を守るがために戦うのでございます」
それは、信念か、執念か。
東條英樹は、なおも国家を背負い、退かぬ決意を胸に秘めていた。
だが、戦局の潮目は確実に変わりつつあった。
アメリカは反撃を開始し、国土への空襲の兆しも生まれ始めていた。
次章では、本土空襲の始まり、国民の動揺、東條政権のさらなる統制強化と孤立が描かれていく。
(つづく)
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