第五章 軍務局の塔
昭和八年、晩秋。
東條英樹は、重い扉を押し開け、再び東京の霞ヶ関に戻ってきた。
関東軍憲兵隊長としての任を終えた彼に与えられた新たな任務は、陸軍省軍務局の中枢であった。
軍務局——それは帝国陸軍の頭脳、作戦・人事・編制・軍政を統括する要害の部署である。
その実力と胆力を買われた英樹は、まもなく軍務局長に任ぜられた。
この昇進は、単なる階級上の栄転ではなかった。
東條英樹が、単なる軍人から**「国家の運営者」**へと歩を進める、その端緒であった。
昭和維新の名のもとに青年将校たちが血気に逸っていたこの時期、政党政治は疲弊し、財閥と陸軍の間で権力の綱引きが行われていた。
五・一五事件により犬養毅が暗殺されると、軍部の政治介入はさらに加速する。
英樹はこの情勢を、冷厳な眼で見つめていた。
「力の空白には、必ず暴力が入り込む。政治が自壊するならば、軍が国家を担うのは必然である」
だが彼は、単なる武断政治を望んではいなかった。
彼の目指すのは、制度によって国家を統御する“統制国家”の確立であった。
——秩序なき自由を排し、統一された国家意思のもとに国力を結集する体制。
それは、ドイツにおける国家社会主義、イタリアのファシズムのような全体主義とは似て非なるもの。
彼の理想はあくまで、「軍紀のように厳格な法と制度の支配」であった。
軍務局長としての初年度、英樹は精力的に軍制改革に乗り出した。
第一に、師団編制の合理化。
それまで各地に分散していた部隊を統合・再編し、より即応性の高い常備部隊として整備した。
第二に、陸軍省内部の統制強化。
各局・課の人事権を一本化し、派閥的な昇進や“皇道派”の跳梁を防ごうとした。
第三に、人的教育の刷新。
兵士の思想教育に『皇道精神要論』を採用し、個人の思想より“国体”への忠誠を優先させる内容とした。
「軍は、ただ戦う集団ではない。国民精神の象徴であるべし」
この言葉が、軍内部で「東條式軍政」として記憶されるようになる。
だが当然のことながら、このような統制への志向は、多くの摩擦を生んだ。
陸軍内部では、青年将校を中心とした皇道派が台頭し、統制派と鋭く対立していた。
英樹は表向き派閥に属さぬ姿勢を保ったが、その実、内務・軍務・教育の制度統合を目指す彼の考えは、明らかに統制派寄りであった。
昭和十年、統制派の首領・永田鉄山が皇道派の将校により刺殺される「相沢事件」が発生すると、英樹は即日、局内に緊急査問委員会を設けた。
「個人の正義に基づく殺害は、たとえ動機が尊くとも国家の破壊にほかならぬ」
そう語った東條は、犯人・相沢三郎に対し厳罰を求めた。
その姿勢に、「冷血漢」「人情なき官僚将校」との非難も浴びたが、英樹は意に介さなかった。
むしろ、この事件を機に、軍内の派閥整理が急速に進み、制度派の中核としての地位を確立していく。
そして、昭和十一年。
二・二六事件——。
青年将校たちによる蹶起(けっき)。高橋是清、斎藤実、渡辺錠太郎ら政府・軍部要人が暗殺され、東京は戒厳令下に置かれた。
陸軍省は動揺し、一部では「蹶起部隊に同調せよ」との動きすら出始めた。
このとき、英樹は徹底して蹶起将校に「法の裁き」を求めた。
憲兵司令部との連携で関係者の拘束・訊問を迅速に進め、あくまで「軍紀の維持」を優先した。
「理想に殉ずるは美徳ではある。しかし、国家を背負うには、美徳のみでは足りぬ」
この言葉が、英樹の軍人としての哲学を象徴していた。
この事件後、彼は陸軍省の副官よりこう告げられる。
「次官就任の打診が来ております」
英樹は静かに頷いた。
「我が道を進むのみ。栄誉も、非難も、我には関わりなし」
昭和十二年、日中戦争勃発。
盧溝橋事件を端緒とした全面衝突は、瞬く間に華北全土を戦場へと変えていった。
このころ、陸軍次官となった東條は、戦線拡大に際して“後方の支柱”として全精力を投入した。
動員計画、兵站線の確保、産業界との連携。
特に、国家総動員法の草案作成に深く関与し、「国家の力は軍の後ろ盾として存在すべし」とする彼の統制思想は、次第に陸軍省の基本方針と化していく。
この時期、東條が省内で語ったとされる一言は、のちに象徴的に語られる。
「軍が国家を護るのではない。国家こそが軍をして存在せしめるのである」
この逆説的命題こそ、のちの「国家軍体制」への布石であり、英樹が政治権力に接近する根拠ともなる。
昭和十三年、彼は軍務局長・次官を経て、ついに「陸軍大臣候補」の筆頭と目される存在となった。
同時に彼の周囲には、東條の“法による秩序支配”に惹かれる若手官僚・参謀将校たちが集いはじめ、ひとつの“思想的陣営”が形成されていく。
それはやがて、“東條体制”と呼ばれるものの萌芽であった。
この章の末尾にあたり、英樹が自室にて記した手記の一節を紹介する。
「剣と法、秩序と力、それは相反にして不離なるもの。
剣なき法は嘲られ、法なき剣は野蛮に過ぎぬ。
我は、その相克を担い、国家に奉ずる者として歩み続けん」
(つづく)
第六章 政軍の断層
昭和十五年七月。
雨に煙る永田町の霞の中に、新たなる緊張が漂っていた。
近衛文麿内閣が再組閣され、東條英樹は陸軍大臣に任命された。
軍政の実務家から、政権中枢たる閣僚へ——
それは、名もなき将校であった彼の軍歴において、決定的な転換点であった。
就任当初、英樹は言った。
「我、軍の統帥を補佐するのみ。政治に関わることはせぬ」
だが、現実は異なっていた。
時はまさに日中戦争泥沼化の最中。国民の戦意は疲弊し、国内経済は軍需に振り回されていた。
また、外圧も激化していた。アメリカ・イギリスは日本の中国侵略を非難し、対日経済制裁をちらつかせていた。
そのような中、陸軍が求めたのは、**「外交と軍事の一体化」**だった。
これに応じて近衛文麿は、外交方針の転換を図る。
「大東亜共栄圏の建設」——それは、英樹の構想と奇妙な一致を見せた。
東條は軍の代表として、同年九月、三国同盟締結の中心人物として動いた。
ドイツ・イタリアとの枢軸形成。
この同盟は、日本がアメリカやイギリスと決定的に対立することを意味していた。
東條は同盟に対して、単なる外交的なポーズではなく、**「国家運命の方向性」**と捉えていた。
「時代はブロック化に進みつつある。
我が国もまた、単独では生き残れぬ。独伊との連携は、その生命線となる」
反対の声も少なくなかった。とりわけ、外務省の中堅官僚や財界人たちはこの同盟に悲観的であった。
しかし東條は、毅然として語った。
「力なき正義は通らぬ。正義なき力は亡ぶ。我らはその中間に立たねばならぬ」
だが、問題は対外政策よりもむしろ、対内の政軍関係にあった。
東條と近衛は、共に「国家改造」を掲げながら、そのアプローチは大きく異なっていた。
近衛は“国民精神の純化”や“知識人の協働”を重視する理想主義者。
一方、東條は“法と命令による国家統合”を志向する現実主義者。
彼らの思想の乖離は、やがて激しい確執へと変わっていく。
昭和十六年夏、事態は緊迫した。
アメリカによる対日石油輸出停止が決定され、帝国の軍備維持に死活的な打撃を与えた。
近衛は、これを避けるために日米交渉を推進しようとした。
その中心人物が、駐米大使・野村吉三郎とアメリカ国務長官・ハルであった。
だが、東條はこの交渉に冷淡だった。
「交渉とは、力を背にせぬ限り成功せぬ。外交は外交官の専権にあらず。国家の生命線を賭けた戦略に他ならぬ」
彼は参謀本部と連携し、南方資源地帯への進出計画(南進政策)を極秘裏に進めていた。
フィリピン・蘭印・マラヤ——すべてが日本の生存圏として地図上に浮かび上がる。
やがて昭和十六年十月。
日米交渉は決裂の様相を見せ、近衛はついに内閣総辞職を申し出る。
「これ以上は、戦争か屈服しか残されておらぬ」
このとき、天皇の意を受けて後継首班として東條英樹の名が上がった。
宮中では紛糾があった。英樹の性格は「頑な」「融通が利かぬ」と評され、和平路線には向かぬという見方が根強かった。
だが、昭和天皇は侍従武官にこう述べたとされる。
「逆に、あのような男でなければ、軍を抑えられぬのではないか」
そして——
十月十八日。東條英樹は内閣総理大臣に任命される。
陸軍大臣から首相へ。
それは、かつての軍務局長の眼中にはなかった未来であった。
だが今、彼は国家そのものを背負う立場に立った。
官邸に入る朝、英樹は夫人・かつ子にこう語ったという。
「この任は、我が生涯を超える。我が命を以って成すべし」
その内閣は、いわゆる「東條戦時内閣」として後世に語られることになる。
同時に、戦争回避の最終局面において、その指揮を握る存在でもあった。
次章では、ハル・ノートの衝撃、御前会議、そして開戦の決定——日本が避けられなかった道について描かれていく。
(つづく)
コメント