藤沢周平を模倣した小説『風の残響』最終章 

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最終章・風の残響

 春の雨が、神田の町を細かく濡らしていた。

 しとしとと、庭の樹々を打ち、軒のしずくが長く垂れて落ちる。

 加納新九郎は、田淵家の屋敷の縁側で、筆を止めたまま、雨の音に耳を傾けていた。

 剣を置いて二十日余り。

 毎日が静かで、かつての騒がしさが夢であったように思える。

 その日も、墨の香に包まれて、時を過ごしていたところ――玄関から文左衛門の声が響いた。

 「新九郎、客だ。ひとり、名乗らずに立っておる」

 「名乗らず……?」

 縁側から立ち上がり、玄関先に出た新九郎の前にいたのは、濡れた合羽を脱いだ若い武士であった。

 年は三十前後。切れ長の目に、薄い微笑。

 腰の太刀は、無銘と思しき拵えで、古びていながらも異様な威圧を放っていた。

 「加納新九郎殿とお見受けする。……拙者、神無左馬介(かんなさまのすけ)と申す」

 「……聞かぬ名ですな」

 「それがしは、影組最後の者にございます」

 新九郎の目がわずかに細まった。

 「……亡き堀口主膳の差し金か?」

 「否。主膳様は我らの主ではなかった。我らが真に仕えていたのは“剣”そのものでした。あなた様が、それを捨てたと聞き、どうしても確かめたくなりました」

 「剣を確かめる……とは?」

 「一太刀、願いたい。あなたが“加納新九郎”である証を、この胸に受けてみたく思う」

 静寂が、屋敷を包んだ。

 庭先、雨はやや細くなった。

 青苔の残る踏み石の上に、新九郎と左馬介が向かい合って立つ。

 新九郎は、納戸に仕舞っていた業物「木曽の月」を、静かに鞘から抜いた。

 剣を置くと決めてから、初めて抜いた太刀だった。

 対する左馬介は、細身の打刀を横手に構える。

 息を合わせるでもなく、ただ一瞬の「気」が流れた。

 そして――。

 左馬介が地を蹴る。飛ぶような間合い詰め、肩越しに斬り下ろす。

 新九郎は、受けず、捌かず。

 ただ、一歩右足を引き、風のように身を翻した。

 刃が空を裂き、雨粒を飛ばす。

 新九郎はそのまま、斬りかえさずに構えを解いた。

 「……終いです」

 左馬介が驚いたように息を呑む。

 「なぜ、斬らぬ……」

 「今のおぬしに“殺気”はなかった。ただの確認に応じるには、剣の道はあまりに重い」

 しばらくの沈黙ののち、左馬介は、ふっと笑った。

 「なるほど……加納新九郎殿、確かにそのお方と見受けた」

 彼は刀を鞘に収め、背を向けた。

 「この剣の道も、そろそろ終わりなのかもしれませぬな」

 「否。剣は終わりませぬ。人が生きる限り、心に剣は宿る。その剣を、どこに向けるかだけのことです」

 左馬介は小さくうなずき、雨の中に去っていった。

 その夜。

 文左衛門が、囲炉裏の炭をつつきながら言った。

 「抜いたな、“木曽の月”を。もう使わぬと申していたが」

 「はい。……だが、それは最後です」

 「そうか……」

 ふたりは、しばし火の揺れを見つめていた。

 数日後。

 新九郎は、千絵から届いた文を読んでいた。

 尾張での生活は静かで、母も少しずつ回復しつつあるという。

 そして文の末尾には、こう記されていた。

 「また江戸に戻った際には、ぜひ筆の稽古をつけてくださいませ。

 それまでは、心の剣を磨いてまいります」

 新九郎は筆を取り、返文を書く。

 「江戸は、雨が降ったり止んだりです。だが、雨のあとは、必ず晴れます」

 そして封をし、庭に出て、しだれ柳を見上げた。

 その葉の間から、柔らかな陽が差し始めていた。

 春は、静かに、けれど確かに、町に広がりつつあった。

 剣の音も、怒声も、疾走する下駄の音も、今は遠い過去。

 だが、加納新九郎という男の心の中には、

 一本の剣――風に揺れるように、しなやかで、静かな剣――が、今も確かに息づいていた。

 ――了――

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