藤沢周平を模倣した小説『風の残響』第十三章・第十四章

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第十三章・残されし影

 朽木源四郎が討たれた翌朝。

 江戸の空は快晴だった。長く垂れ込めていた重い雲が嘘のように晴れ、白壁の町並みが光に映えている。

 だがその澄んだ空とは裏腹に、城中では密やかに波が立ち始めていた。

 水野忠邦邸、奥書院。

 田淵典膳が、巻物と御用留帳の冊子を卓に並べ、新九郎とともに控えていた。

 水野が手元の帳面を読み終えると、ふぅと吐息をつき、顔を上げた。

「たしかにこれは、奥印が正式に拝借された記録じゃな。三年前、貸出期間は二日間、印の管理は内藤昌右衛門。……朽木がこれに偽の文を重ねようとしたとは」

 「恐らく、それ以前にも複数の印影を盗み取っていたはずです」と新九郎が答える。

「御用商人との不正取引、藩札の差配、さらには尾張家に絡めた家格争い――いずれも、証拠の改竄と印影の転用がなければ実行は不可能だった」

 「して、それに加担した者は?」

 新九郎は一冊の帳面を差し出す。

「帳面に記された『松江屋市兵衛』。表向きは越後屋の出入りですが、その背後に公儀筋の者がいたかは――まだ掴みきれておりません」

 水野はしばし考え、懐から懐紙を取り出し何やら書きつけると、脇の家臣に渡した。

「これを老中評定所に届けよ。朽木の死は、ただの失脚では済まぬ。残された名を断たねば、同じことが繰り返される」

 家臣が退出すると、水野はゆっくりと立ち上がった。

「加納新九郎、田淵典膳、千絵――そなたらの尽力、しかと見届けた。だが、ことはこれで終わりではない。……朽木の背に、もう一つの影がある」

 新九郎の目が細くなった。

「……影?」

「一昨年の秋、大坂城代を辞した者がいる。名は堀口信濃守。老中格に推薦されながら、突如として隠居の名目で姿を消した。だが――その男が、江戸に戻ってきた」

 「まさか……朽木とつながっていたと?」

 「確証はない。だが、松江屋が出入りしていた屋敷の名義が、堀口と近しい旗本に変わっておる」

 田淵が低く呻いた。

「……事が、まだ終わっておらぬと」

 その日の夕刻、赤坂の裏通り。

 古びた屋敷の一室で、一人の男が文机に向かっていた。

 痩せた体、鋭い鼻、黒ずんだ着物に身を包んでいる。

 堀口信濃守――かつて大坂城代として幕政に重きをなした男だ。

 その机上には、松江屋を通じて渡された帳簿の写しがあった。

 背後には、あの黒羽織の男が控えている。

「朽木は討たれました」

 堀口は手を止めなかった。

「所詮、駒にすぎん。使い捨てと心得ておる」

 「ですが、水野忠邦は動きます」

 「動かせばよい。老中など、しょせん烏合の衆だ。問題は、加納新九郎と田淵典膳……」

 堀口はふっと笑った。

「加納とは、越後の剣士であったか。血に塗れた男に真実を語らせるとは、幕府も堕ちたものだ」

 「いかがいたします」

 「――討て」

 堀口は一言だけ呟いた。

「大名に非ず、武家にも非ず、金と命を預けられる腕のみを持つ者を使え。そうだな……『影組』を」

 男が、わずかに眉を上げた。

「……あれを動かすのですか」

 「今宵、鬼を解き放て」

 そのころ、加納新九郎は田淵邸の一室で、千絵と並んで庭を眺めていた。

 志乃が静かに湯を運び、傍に膝をついた。

「少し、落ち着かれましたか?」

 新九郎は微笑を見せた。

「ようやく、肩の荷がひとつ下りた」

 千絵が、膝の上で両手を重ねていた。

「朽木が……父でした。育ての父でもあり、命を弄んだ敵でもありました。でも、剣を交える前に、新九郎さまが現れて……」

 言葉が詰まる。

 新九郎は、しばし黙っていたが、やがて静かに言った。

「剣を抜かねば、語れぬこともある。――そなたの剣は、正しきものじゃ」

 そのとき、屋敷の外から、鳴子の音が響いた。

 番士の声が続く。

「使者でござる。水野様より、緊急の知らせと」

 新九郎は、顔を引き締め、立ち上がった。

 夜の帳が、静かに降りていく。

 だがその夜こそが、新たな戦の幕開けとなるとは、まだ誰も知らなかった。

第十四章・影、忍び寄る

 深更。田淵典膳邸。

 座敷の障子が淡く月明かりに照らされ、静寂の中に虫の音が遠く響いていた。千絵は、床几に腰掛けたまま、ぼんやりと空を見ていた。

 昼間の晴天とは打って変わり、夜空には薄雲が広がり、月はぼやけている。風が時折、庭木を鳴らし、軒下の風鈴が一度だけ微かに鳴った。

 そのときだった。

 かすかな、気配。

 風が止み、音も止んだ。自然のざわめきの中に紛れていたはずの気配が、ふいに濃くなった。

(誰か、いる……)

 千絵は立ち上がり、懐に手をやる。小柄を抜く音は立てなかった。

 襖の影――。

 そこに、いた。

 黒装束。顔を包帯で覆い、目だけを覗かせた異形の男が立っていた。

 千絵が踏み込むよりも早く、その男は矢のように跳びかかってきた。

 その動きは、まるで獣。

 千絵がとっさに小柄で受け止めた刃は、鉄を打ったような衝撃を伴い、彼女の腕を痺れさせた。

 「くっ……!」

 床に倒れこみながらも、千絵はすぐに身を翻し、縁側へ転がる。

 男が追ってくる。

 が、その刹那――

 「そこまで!」

 座敷の奥から新九郎が飛び出した。

 その手には、すでに抜かれた白刃。

 黒装束の男が一瞬ひるむが、すぐに体勢を立て直し、新九郎に向かって斬り込む。

 二人の剣が交錯する。

 一合、二合。まるで音を吸い込むような、鋭くも静かな応酬。

 男の剣は、剣というより“斬撃”そのものだった。型などなく、躊躇もない。ただ速く、鋭く、命を奪うためだけに研がれた刃。

 新九郎は、その狂気を感じ取っていた。

(この男……尋常の剣客ではない)

 それでも、流れの中でわずかな隙を見た新九郎が、刀の峰で相手の手首を打つ。

 「……ぬ!」

 男がたたらを踏んだ瞬間、千絵が脇から小柄を投げた。

 小柄は男の肩に突き刺さるも、致命傷には至らず、男は戸口へ跳び、障子を突き破って逃げた。

 翌朝。

 田淵邸の奥座敷。傷の手当てを受けた千絵が、志乃とともに湯を飲んでいた。

 新九郎は、前夜の襲撃者の遺留品――小さな編み紐を手にしていた。

 「この紐……見覚えがあります」と、志乃がぽつりとつぶやいた。

 「どこで?」と田淵が訊いた。

 「三年前、江戸市中の見回りで捕縛された盗賊のひとりが、似たようなものを持っていました。その者は、牢で毒を仰いで……」

 新九郎が目を細めた。

 「捕らわれても、口を割らぬ。つまり、命より守るべき“組織”がある」

 田淵は頷いた。

 「水野様が仰った“影組”とやらか……このままでは、千絵殿が危ない」

 「それだけではない」

 新九郎が言った。

 「これは、おそらく“試し”だ。狙いは我々ではなく――次の段階への前触れ」

 夕暮れ、神田明神の裏手。

 古びた長屋の一角に、駕籠が止まった。駕籠から出てきたのは、浅黒い顔の武士――肥後屋文左衛門である。

 文左衛門はかつて市中見廻役だったが、数年前に役を退き、いまは私設の探索方を請け負っていた。裏の者には「影追い文左」と呼ばれ、名の知れた人物である。

 その彼が、田淵典膳の命を受けて、裏の探索を請け負ったのだ。

 「影組、か……化け物を呼ぶ名だな」

 長屋の二階には、すでに情報屋の“山猫のお滝”が待っていた。

 「あんたが来るってんで、三日も寝ずに探ったよ。……それらしい連中がここ数日、両国で動いてた」

 文左衛門が言葉を促す。

 「顔も見えねえ。黒装束。武士のようでいて、町人のようでもある。中には、片手のない奴もいた。皆、妙な印の刺繍を腕に巻いてた」

 「印?」

 お滝が紙に描いて見せた。

 それは、三つ巴に似た、ただし中央に斜めの線が貫く、異様な紋だった。

 文左衛門が目を細めた。

 (やはり動いている――それも複数)

 彼はすぐさま長屋を出ると、待たせていた使いの者に言った。

 「田淵様に伝えろ。“影の数は三。すでに江戸に入っている”とな」

 同じころ、新九郎は千絵とともに、藩邸裏手の竹林を歩いていた。

 風が葉を揺らし、静かな音が広がる。

 千絵がそっと口を開いた。

 「……怖くは、ないのですか」

 「怖いさ」

 新九郎は、きっぱりと言った。

 「生きる者すべてに、死の気配はある。ただ、それに背を向けてばかりでは、何も守れん」

 千絵は少しのあいだ黙っていたが、やがて小さく頷いた。

 「わたしも、怖い。でも……父が残したものの重さを、感じています」

 新九郎は立ち止まり、竹林の切れ間から空を見上げた。

 「風が変わる」

 その声には、かすかな緊張が混ざっていた。

 そして、それはやがて嵐の前触れとなる――

(つづく)

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