山本周五郎を模倣し、江戸時代の武士の姿を描いた完全オリジナル小説『落日の士(サムライ)』第四章

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――第四章 深川の灯――

 江戸が近づくにつれて、空気の匂いが変わった。山の冷えた土の匂いが薄れ、湿った川風と、人の暮らしが吐き出す煤の匂いが混じってくる。街道の左右には畑よりも長屋が増え、荷車が行き交い、旅人の言葉も荒く早口になった。

 榊原伊織は、笠の影から町の流れを眺めながら歩いた。浪人に身をやつしてはいるが、江戸の目は信濃とは比べものにならぬほど多い。誰がどこで見ているかわからぬ。人混みは隠れ蓑にもなるが、同時に罠にもなる。

 お澪は伊織の半歩後ろを、黙ってついてきた。帯の奥の油紙包み――あの証文は、宿を替えるたび伊織が預かった。お澪が持てば狙われる。伊織が持てば狙われる。結局、狙われることには変わりない。ならばせめて、守れる者が持つほうがよい。

 隅田川が見えたとき、冬の光が水面に砕け、きらきらと冷たく跳ねた。川向こうに、深川の町並みが広がっている。寺社の屋根、材木の山、船宿の暖簾、そして――江戸の底に沈むような雑多な活気。

「深川へ行け」

 あの男の言葉が、耳の奥でくすぶっていた。

 伊織は川沿いの茶屋に入り、熱い茶を頼んだ。湯気が立ち、指先に血が戻る。店の隅では、舟運の仲仕らしい男たちが、魚の骨をしゃぶりながら言い争っている。

「この頃ゃ、金が妙に流れてやがる。材木が高ぇのに、誰かがまとめて買い占める」

「へっ、上方の商人だろうよ」

「違ぇ。役人の手合いだ。町人面して、目だけが冷てぇやつらが来る」

 伊織は茶碗を持つ手を止めた。役人の手合い――。

 勘定方。金。深川。証文。神谷内膳の花押。

(つながる)

 だが、糸はまだ細い。一本引けば切れてしまう。

 茶屋を出ると、伊織は深川の中でも、人の出入りが多い辺りへ足を向けた。船宿が並び、夕方には酒の匂いが漂い、浪人と博徒と職人が入り混じる。ここならば、裏の情報も流れる。

 ほどなく、場末の蕎麦屋が目に入った。暖簾は薄汚れ、客の顔ぶれも決して上等ではない。だが、こういう場所ほど耳が利く。

 伊織が入ると、店の奥で酒を飲んでいた男がちらりとこちらを見た。三十がらみ、目が笑っていない。腰に差しているのは短刀だが、柄が新しい。町人のふりをしているが、手の甲の傷が武家のものだ。

(来たか)

 伊織は何食わぬ顔で席につき、蕎麦をすすった。お澪は小さく身を縮めている。

 やがて男が立ち上がり、伊織の前へ来た。

「旅の方かい」

「そうだ」

「深川は初めてか」

「用があってな」

 男はにやりと笑い、声を落とした。

「用ってぇのは、紙切れのことか」

 伊織は箸を置いた。視線だけで男を刺す。

「誰の差し金だ」

「差し金? へへ、金が動けば人が動く。江戸はそういう町だ」

「深川へ行けと言ったのは貴様か」

「さぁな。だが、ひとつ忠告してやる。お前さん、その紙切れを持ってると、いずれ――」

 男が言いかけたとき、店の外が急に騒がしくなった。足音が複数、そして短い怒声。

「御用だ! この店を改める!」

 蕎麦屋の主が青ざめて奥へ逃げる。客たちがざわつき、腰を浮かせる。

 伊織は瞬時に悟った。

(役人だ。だが――真っ当な役人ではない)

 踏み込んできたのは同心風の男が三人、そして後ろに目つきの鋭い与力らしき者が一人。だが、歩き方が硬い。町方の人間なら、この場末の空気にもっと馴染む。こいつらは、何かを装っている。

 与力風の男が、伊織を指さした。

「その者だ」

 店の奥が一斉に静まった。

「名を名乗れ」

「佐倉伊三郎。諸国修行の浪人だ」

「証文を持っておるな」

 伊織は、内心で舌打ちした。やはり、紙の存在は広く漏れている。ここまで来れば、誰が本当の敵か見分けるのは難しい。

「何の証文だ」

「とぼけるな。渡せ」

 与力風の男は手を伸ばした。伊織は動かなかった。

「お上の御用なら、訴状もなく取り上げる道理はない」

「道理など、こちらが決める」

 刹那、伊織の背後で気配がした。さきほどの目の笑わぬ男が、ぬるりと立ち上がり、伊織の脇へ寄る。役人と示し合わせたか――いや、違う。男の目は、役人にも警戒を向けている。

(四つ巴……)

 ここで揉めれば、証文は奪われる。あるいは焼かれる。最悪、ここで命も尽きる。

 伊織は茶碗を倒した。湯が畳に広がり、誰もが一瞬目を奪われる。

 その隙に、伊織はお澪の手を掴み、障子を蹴破った。

「こっちだ!」

 裏庭へ転げ出る。雪の残る土が滑った。背後から怒声、足音、刃の擦れる音。

 伊織は走った。深川の裏道は迷路のようで、曲がり角ごとに違う匂いがする――魚の生臭さ、炭の煤、酒の甘い匂い。

「止まれ!」

 振り返ると、役人風の一人が迫っていた。伊織は角を曲がりざま、壁に手をつき、体を反転させて蹴りを入れた。男は呻いて倒れる。

 だが追手はまだいる。さらに、あの目の笑わぬ男も――追ってきている。敵か味方かもわからぬ。

 伊織は狭い路地を抜け、材木置場の脇へ飛び込んだ。積まれた丸太が壁のようにそびえ、影が濃い。お澪を陰へ押し込める。

「息を殺せ」

 お澪はうなずき、口を押さえた。

 追手の足音が近づき、離れ、また近づく。息が喉にひっかかる。伊織は刀の柄に指をかけた。ここで抜けば血が出る。血が出ればさらに追われる。だが、抜かねば奪われる。

 そのとき、影の向こうで低い声がした。

「動くな」

 伊織は、気づかぬうちに背後を取られていた。あの男――目の笑わぬ男が、短刀を抜き、伊織の背へ当てている。

「お前、何者だ」

「それはこっちの台詞だ」

 男は鼻で笑った。

「俺は、お前が探してるものに近いところにいる。神谷内膳……その名を知ってるだろ」

 伊織の目が細くなった。

「何を知っている」

「この深川で金が動く。その金は藩から出てる。藩から出た金が、幕府筋の口利きに流れる。口利きは、御用商人を太らせる。御用商人は、藩に米を売りつける。ぐるりと回って、藩はますます貧しくなる」

「……誰が糸を引く」

「内膳だけじゃない。江戸詰家老の中に、もう一匹いる」

 伊織は喉が乾くのを感じた。

「名は」

「今は言えねぇ。言えば俺の首が飛ぶ」

 男は短刀を引いた。

「だが、お前がその証文を守りきれるなら、会わせてやる。会わせれば、お前はもっと深いところまで落ちる」

「落ちるのは構わぬ。真実が手に入るなら」

 男は伊織をじっと見た。次の瞬間、急に顔をしかめ、耳を澄ませた。

「来る」

 材木の隙間から、役人風の男たちが現れた。数が増えている。十人近い。これは町方の動きではない。誰かが金で動かしている。

 男は低く言った。

「こっちだ。川へ出る」

「信用できるのか」

「信用するな。だが、死にたくなけりゃついてこい」

 伊織は迷わなかった。ここで立ち回れば、いくら腕があっても多勢に無勢。しかもお澪がいる。

「お澪、走れるか」

「はい」

 男が先に走り出す。伊織とお澪が続く。材木置場の裏は小さな水路になっており、舟が一艘、縄で繋がれていた。

「乗れ!」

 男が縄を切る。舟が水に揺れ、冷気が顔を刺す。伊織が櫂を取った。お澪は震えながら舟底に身を縮める。

 背後で怒声が飛ぶ。

「止まれ! 舟を止めろ!」

 矢が一本、ひゅっと飛び、水面に刺さって折れた。伊織は櫂を強く押し、舟を水路へ滑らせた。水音が暗い路地に響く。

 男が舳先で周囲を見回しながら、低く笑った。

「浪人にしては、いい腕だ」

「信濃の田舎でも、川はある」

「嘘が下手だな」

 男はふっと表情を消した。

「お前、本当は武士だろ。藩の匂いがする」

 伊織は答えなかった。答えれば、弱みを握られる。

 舟は曲がりくねった水路を抜け、やがて隅田川の広い流れへ出た。夕暮れが近く、川面に赤い灯が映る。川沿いの家々に、提灯がともり始めていた。

 男は顎で川向こうを示した。

「あそこだ。深川の外れ、廃れた船宿がある。名は『千鳥屋』。表向きは宿だが、裏で金と情報が動く」

「そこに、内膳の手がかりがあるのか」

「ある。だが――」

 男は言いかけて、口を閉ざした。代わりに、苦いものを噛んだように言った。

「お前、覚悟はいいか。そこへ踏み込めば、もう藩へは戻れねぇかもしれねぇ」

 伊織は川面を見つめた。水は淡々と流れ、誰の苦しみも笑いも等しく運び去る。

「戻る場所なら、初めから一つしかない」

「家か」

 伊織は、ほんのわずか頷いた。母と妹の顔が、灯のように胸の奥に揺れる。

 男は、それ以上は問わなかった。


 千鳥屋は、表から見ればただの古い船宿だった。板壁は黒ずみ、戸口の暖簾は色が抜けている。だが、出入りする人間の足取りが軽くない。目が合っても逸らさない。逃げない。慣れている。

 男が先に入ると、番頭らしき者が黙って奥へ通した。伊織とお澪は、その背を追う。廊下の先に、障子一枚隔てて、ざわりとした気配があった。

 男が障子を開ける。

 中には、二人の男が座っていた。一人は商人風、太り、指に金の輪が光っている。もう一人は――紋付の羽織を着ているが、立ち居振る舞いが武家そのものだ。顔は半ば陰に隠れ、目だけが鋭い。

 商人風の男が笑った。

「連れてきたか。信濃の浪人だな?」

 伊織は黙って座る。お澪は伊織の背後に控えた。

 武家風の男が、低く言った。

「証文を見せよ」

 伊織は即座には出さなかった。

「先に名を聞きたい」

 商人風の男が肩をすくめた。

「名など飾りだ。ここでは金と命が本体よ」

 武家風の男の目が細くなる。

「……榊原伊織。名を隠しても無駄だ」

 伊織の背筋が冷えた。

(なぜ知っている)

 武家風の男は、ふっと笑った。その笑いは、人を安心させるものではなく、底のない沼のようだった。

「内膳殿は、そなたの出立をとっくに知っておられる。刺客も放った。だが刺客は戻らなかった。ならば次は、手を変える」

「手を変える?」

「そなたを、取り込む」

 商人風の男が口を挟む。

「榊原様ぁ、世の中はね、正しさで飯は食えません。藩も同じ。金がなければ武士も飢える。ならば金を作るしかない。少々の回り道は……賢い者の仕事ですよ」

 伊織は、ゆっくり息を吐いた。

「藩の名を使い、借金を重ね、金を抜き、幕府筋へ流す。これが賢さか」

 武家風の男が、静かに言う。

「賢さだ。生き方だ。武士も町人も、結局は生き残った者が勝つ」

 伊織の中で、何かがきしんだ。父の実直さ、半十郎の言葉、母の願い、志乃の涙――それらが一斉に胸の底から浮かび上がる。

「では、父を殺したのも、その生き方のためか」

 お澪の声だった。震えながらも、はっきりしていた。

 商人風の男が舌打ちした。

「女は黙れ」

 伊織が低く言った。

「黙るのは、貴様らだ」

 武家風の男の目が鋭く光った。

「抜くか」

「抜くまでもない。私は――」

 伊織は証文を取り出し、畳の上に置いた。

「これを渡す代わりに、条件がある」

「条件?」

「内膳の名だけでは足りぬと言ったな。江戸詰家老のもう一匹――その名を聞かせろ」

 部屋の空気が凍った。

 商人風の男が笑いかけるが、目が笑っていない。

「欲張りだな」

 武家風の男は、じっと伊織を見つめた。

「言えば、そなたはその名を武器にする。使いようによっては藩が潰れる」

「藩が潰れるのは、貴様らがすでに手をつけている」

 沈黙。

 武家風の男が、ようやく口を開いた。

「名は――」

 その瞬間、障子の外で破裂するような音がした。

 ドン、と床が揺れる。叫び声。火の匂い。

「火事だ! 火事だぁっ!」

 千鳥屋のどこかに火が放たれたのだ。偶然ではない。証文を焼くためか、口封じか、あるいは別の勢力の襲撃か。

 商人風の男が跳ね起きる。

「ちっ、どこの馬鹿が――!」

 武家風の男は、すでに立っていた。袖の中から短筒が覗く。

「榊原伊織、ここで死ねば話が早い」

 伊織は即座に証文を掴んだ。お澪を引き寄せる。

「伏せろ!」

 ぱん、と乾いた音。弾が柱をえぐり、木屑が飛んだ。

 伊織は畳を蹴り、武家風の男へ飛び込んだ。刀は抜かぬ。抜けば血で滑る。近間で決める。

 拳が顎を打ち、男の体が揺れる。その隙に短筒を払う。男は呻き、懐へ手を入れようとした――が、その腕を伊織がねじ上げた。

 障子が燃え、紙が縮れ、炎が舐める。

 外は混乱している。逃げるなら今しかない。

「お澪、走れ!」

 二人は煙の廊下を駆けた。背後で武家風の男の声がする。

「逃がすな! 証文を奪え!」

 だが、廊下の先で待っていたのは――あの目の笑わぬ男だった。煤を浴び、血の匂いをまとっている。

「こっちだ!」

 男が裏口を蹴破る。夜の冷気が肺に刺さる。

 火はすでに屋根へ回り、炎が空を赤く染めていた。深川の灯が、今夜は火事の灯に変わる。

 伊織は走りながら、ひとつ悟った。

 ――敵は内膳だけではない。

 ――そして、真実へ近づくほど、味方は減る。

 お澪の手は氷のように冷たかったが、その握りは強かった。

 燃える千鳥屋を背に、二人の影は闇へ溶けていった。

 次に立ち止まる場所が、救いとなるか、地獄となるか――それはまだ、江戸の風だけが知っていた。

(第五章につづく)

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