――第二章 雪の関所――
峠を越えるころには、空模様が変わっていた。
朝の晴天は跡形もなく、鉛色の雲が低く垂れ込め、粉雪が斜めに舞っている。街道は踏み固められてはいたが、ところどころ凍りつき、草鞋の裏が滑った。
榊原伊織は笠の縁に積もる雪を払った。江戸までの道はまだ長い。急げば十日、常ならば二十日はかかる旅である。
(焦るな。浪人は、急ぎすぎぬものだ)
そう自らに言い聞かせながら歩いていると、前方に関所が見えてきた。木柵の向こうに小さな番所があり、煙が細く立ちのぼっている。
旅人が三、四人、順番を待っていた。
伊織の番になると、役人がじろりと顔を上げた。
「名は」
「榊――いや、佐倉伊三郎と申す。諸国修行の身にて」
用意していた偽名を、よどみなく告げる。
役人はしばらく顔を眺めていたが、やがて荷を改めはじめた。着替えと兵糧、古びた経巻。どれも浪人の旅装に見える。
「刀を見せよ」
差し出すと、役人は鞘から半寸ほど抜いた。
「よい業物だな。修行の身にしては立派すぎぬか」
「亡父の形見にございます」
役人は鼻を鳴らし、刀を返した。
「通れ」
関所を抜けたとき、背にじっとり汗をかいているのに気づいた。まだ何も始まってはいないのに、胸の奥に張りつめたものがある。
そのとき、背後から女の声がした。
「お侍さま、少しお待ちください」
振り返ると、二十歳前後の娘が立っていた。薄藍の着物に雪が積もり、頬を赤くしている。
「関所で難儀しておりましたところ、先ほどはお助けいただき……」
伊織は首をかしげた。
「助けた覚えはないが」
「いいえ。役人が厳しい顔をしていたので、わたしまで咎められるかと……先に通ってくださったおかげで、気が楽になりました」
そう言って頭を下げた。
「名は?」
「お澪と申します。江戸へ参る途中にございます」
旅の女は珍しくないが、一人歩きは危うい。
「供はおらぬのか」
「……おりません」
わずかなためらいがあった。
伊織はそれ以上問わなかった。詮索は浪人の作法ではない。
「道中、物騒だ。次の宿場までは人の多いところを歩くとよい」
「もし……差し支えなければ、ご一緒させていただけませんか」
断る理由はあった。密命を帯びた身である。だが雪道に女を残すのも後味が悪い。
「宿場までだ。それ以上は連れぬ」
お澪の顔がほころんだ。
「十分でございます」
日が傾くころ、二人は小さな宿場町に入った。
旅籠「柏屋」の暖簾をくぐると、炭の匂いが鼻を打つ。客はまばらで、囲炉裏端では商人らしき男が酒をあおっていた。
夕餉のあと、伊織が部屋で刀の手入れをしていると、ふと廊下に荒い足音が響いた。
「開けろ!」
障子が乱暴に引かれ、三人の浪人風の男がなだれ込んできた。
「女を見なかったか。薄藍の着物だ」
伊織は顔も上げずに言った。
「知らぬな」
「とぼけるな。関所から後をつけてきたんだ」
男の一人が刀に手をかけた。その指の節くれだった様子から、ただのごろつきではないと知れる。
伊織は静かに刀を置いた。
「ここは宿だ。騒ぎは無用に願いたい」
「邪魔立てする気か」
その瞬間、背後の障子が細く開いた。お澪が青ざめた顔をのぞかせる。
「そこか!」
男が踏み込む。
伊織の体が、先に動いた。
男の手首を払い、柄頭で鳩尾を打つ。くぐもった声とともに、男が崩れた。
残る二人が抜刀する。
「貴様、何者だ!」
「通りすがりの浪人だ」
言葉が終わる前に、一人が斬りかかる。伊織は半歩退き、刃を紙一重でかわすと、峰で肩を打った。骨の砕ける鈍い音がした。
最後の男は躊躇した。伊織の目を見たからだ。そこには、迷いがなかった。
「……覚えていろ」
吐き捨て、逃げるように去った。
静寂が戻る。
お澪が震えていた。
「なぜ追われる」
しばらく黙っていたが、やがて観念したように口を開いた。
「父が……殺されました」
伊織は眉を動かさなかった。
「江戸で勘定方をしておりましたが、不正を見つけたと。証文を託され、逃げよと……」
「証文はどこだ」
お澪は帯の奥から、小さな油紙包みを取り出した。
伊織は受け取り、中を改める。細かな数字と印判。読み進めるうち、胸の奥が冷えていく。
(これは……)
そこに記されていたのは、松代藩の名で借り入れた莫大な金子。そして、その一部が行方知れずになっている事実であった。
さらに、見慣れた花押がある。
――神谷内膳。
家老の名である。
伊織は紙を畳み、何事もなかったように返した。
「今宵はここに留まれ。明朝、別の道を行け」
「お侍さまは?」
「江戸へ向かう」
お澪は唇を噛んだ。
「父は申しました。不正に関わる者は、藩の内にもいると……もしや、お侍さまはそのために?」
伊織は答えなかった。
ただ、囲炉裏の火がぱちりとはぜる音を聞いていた。
夜半。
眠りにつこうとしたとき、ふと気配を感じた。
屋根の上を、雪を踏む微かな音。
伊織は音もなく立ち上がり、刀を取る。
次の瞬間、天井板が破れ、黒装束の影が降ってきた。
火花のように刃が交わる。
相手は無言のまま、急所ばかりを狙ってくる。尋常の刺客ではない。
「誰の差し金だ」
答えはない。
だが刃筋に、どこか見覚えがあった。藩の剣術に似ている。
(まさか……)
一瞬の迷いが生じた隙を、刺客は見逃さなかった。刃が脇腹をかすめ、熱いものが滲む。
伊織は歯を食いしばり、踏み込んだ。
一閃。
刺客の刀が宙を舞う。
黒装束は膝をついたが、次の瞬間、自ら喉を掻き切った。
止める間もなかった。
床に広がる血を見つめながら、伊織は悟った。
――この密命、すでに漏れている。
雪はなおも降り続いていた。
窓の外は白く閉ざされ、道も、帰る場所も覆い隠していく。
(内膳殿……あなたは敵なのか)
問いは、答えのないまま闇に沈む。
だが一つだけ、確かなことがあった。
もはや後戻りはできぬ。
夜明けとともに、さらに深い謀略の中へ踏み込むことになる。
榊原伊織は、静かに刀の血を拭った。
その刃に映る自分の顔が、わずかに変わり始めていることに、まだ気づかぬまま。
(第三章につづく)

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