佐藤愛子を模倣し、野坂昭如の「火垂るの墓」時代を題材にした完全オリジナル長編小説『灰の味――或る少年の季節』第百九十八章・第百九十九章

目次

第百九十八章 灯の置き手紙──影が「終わりを言わない言葉」を夜に残した夜

 夜、少年は言葉を残した。

 残したと言っても、

 書いて渡す手紙ではない。

 渡せば往復になる。

 往復になれば、返事が要る。

 返事が要れば、相手が生まれる。

 相手が生まれると、中心が生まれる。

 中心が生まれると、終章が固まる。

 だから渡さない。

 置く。

 誰宛でもない言葉を、

 誰の手にも渡らない場所へ置く。

 置いた言葉は、

 読まれても読まれなくても同じ。

 それが第百九十八章の芯だった。

 灯は戻らない。

 片手は昼のまま空いていて、

 薄明は朝を区切らず運び、

 余熱は冷えきらない温度として残っている。

 その積み重ねの上に、

 夜は「置き手紙」を置く。

 置き手紙とは、

 宛先のない言葉だ。

 慰めでも、

 謝罪でも、

 誓いでもない。

 ただ、

 ここに在ったという印でもない印。

 少年は、その言葉の重さを、

 紙が風で動かない程度の軽さで測った。

 ——渡さなくて、

 ——いいよ。

 ——置けば、

 ——戻ってこないから。

 節子の声が、背骨の奥でそう言った気がした。

 少年は、その声を確かめなかった。

 確かめると、

 誰に向けた言葉かを決めたくなる。

 今夜は、決めない。

 

  • ■影の道で「書く場所を選ばない」

 影の道の端に、

 板切れが一枚立てかけてある。

 誰かが看板にしようとして、

 やめた板だ。

 文字を書くのに、ちょうどいい。

 だが板に書けば、

 人が読む。

 人が読めば、

 意味が集まる。

 意味が集まれば、

 終章の句になる。

 少年は板を使わなかった。

 板は目立つ。

 目立つと、

 終わりが飾りになる。

 少年は、紙切れを選ぶ。

 紙切れは目立たない。

 目立たないものは、

 生活の側に残る。

 少女が言った。

「どこに置くの?」

「置き場なし」

「また?」

「うん。

 言葉にも置き場なし」

 少女は頷いた。

「うん。

 置き場がないと、

 捕まらないね」

 少年は頷いた。

 捕まらない言葉だけが、

 終章を閉じない。

 

  • ■黒板の字が「文」で止まり、「終」は書かれない

 夜の自習室に入ると、

 黒板には一字だけ残っていた。

 ■文

 終の字はない。

 終を書けば、

 文が結ばれる。

 結ばれた文は、

 引用され、

 飾られ、

 やがて“良い話”になる。

 良い話になった瞬間、

 節子は遠くへ行く。

 少年は机に座り、

 紙を一枚取り出した。

 鉛筆は短い。

 短い鉛筆で書く文字は、

 大きく書けない。

 大きく書けない文字は、

 目立たない。

 目立たないことで、

 言葉は生活に残る。

 少年は書いた。

 「……」

 最初の一文字が出ない。

 出せば、方向が決まる。

 方向が決まれば、宛先が生まれる。

 宛先が生まれれば、

 節子は“相手”になる。

 相手になれば、

 責めも謝りも生まれる。

 少年は、

 “相手”を作りたくない。

 だから書く。

 「今日も、

  終わりにしなかった」

 それは宣言ではない。

 誇りでもない。

 ただの事実でもない。

 紙の上に落ちた、

 夜の息。

 続けて書く。

 「言わない。

  抱えない。

  だけど、

  置いていく」

 置いていく、は残酷にも聞こえる。

 だが置いていくのは節子ではない。

 置いていくのは、

 “終わりを完成させたがる自分”だ。

 それを置いていけば、

 生活は少し軽くなる。

 少年はそれ以上、書かなかった。

 書けば、整う。

 整えば、終章になる。

 今夜は、整えない。

 

  • ■炊き出しの火で「読み上げない」

 夜の炊き出しの端で、

 誰かが詩のようなものを口にした。

 人が笑い、

 人が拍手しそうになる。

 拍手は、終章の音だ。

 少年は拍手しなかった。

 拍手しないことで、

 言葉はその人のまま残る。

 拾わない。

 奪わない。

 青年が短く言う。

 「寒くなるぞ」

 少年は頷き、

 紙を懐へ入れた。

 読ませるためではない。

 失くさないためでもない。

 ただ、風で飛ばないため。

 少女が言った。

「読んで」

「読まない」

「どうして?」

「読んだら、

 終わりが形になる」

 少女は少し黙って、頷いた。

「うん。

 形になると、

 動けなくなるね」

 少年は頷いた。

 

  • ■釜戸の前で「置く」

 家に戻ると、

 少年は紙を取り出した。

 火にくべれば、終わる。

 しまい込めば、終わる。

 持ち歩けば、抱える。

 どれも違う。

 少年は、

 紙を板の下に置いた。

 板は床でもあり、

 蓋でもある。

 蓋にすると終わる。

 床にすると続く。

 少年は、

 床の側に紙を置いた。

 踏まれない場所。

 見えない場所。

 だが確かに、そこにある場所。

 少女が言った。

「それでいいの?」

「いい」

「誰が読むの?」

「誰も読まなくていい」

 少女は頷いた。

「うん。

 読まれない言葉って、

 静かだね」

 少年は頷いた。

 静かな言葉は、

 終章を閉じない。

 

  • ■影の輪で「言葉を中央に置かない」

 夜、影の輪へ向かうと、

 輪はほとんど見えなかった。

人は集まらず、

それぞれの影がそれぞれの方向へ伸びている。

中心の空席は空席のまま。

今日はそこに、 
置き手紙を置かない。 
置けば、みんなが覗く。 
覗けば、意味が集まる。 
意味が集まれば、結末ができる。

少女が輪の外で言った。

「節子、今日はね…… 
言葉を置いたよ。 
でも、 
渡さなかったよ」 

 少年は頷いた。

渡さないことで、

言葉は往復しない。

——往復しない言葉は、 
——生活に残る。 

 節子の声が夜の空気の奥でそう言った気がした。

少年は、その声を追わなかった。

追わないことで、

声は紙になる。

紙は、軽い。

軽いから、

抱えなくていい。

 少年は立ち上がり、

灯を低くして歩いた。

終章は近い。

だが終章へ向かう言葉を、

掲げない。

置く。

誰にも渡さず、

誰にも返させず、

ただ夜の床の下に、

息のように残す。

第百九十九章 灯の外側──影が「終章を越えた暮らし」を朝に開けた朝

 朝、少年は「終章」を外へ出した。

 外へ出したと言っても、

 追い出したのではない。

 押しやったのでもない。

 ただ、部屋の中心から外した。

 中心に置くと、暮らしが回り始める。

 回り始めると、すべてが意味を持つ。

 意味を持つと、節子が“テーマ”になる。

 テーマになった節子は、

 もう節子ではなくなる。

 だから外側。

 生活の外側に、終章を置く。

 置くことで、生活は内側のまま保たれる。

 それが第百九十九章の芯だった。

 灯は戻らない。

 置き手紙は床の下で息を続け、

 片手は空いたまま昼へ向かい、

 余熱は冷えきらない温度を夜に残している。

 その積み重ねの上に、

 朝は「外側」を置く。

 外側とは、

 終わりを中心にしない配置だ。

 終わりはある。

 だが暮らしの真ん中に座らせない。

 少年は、その配置を、

 自分の胸が真っ直ぐ呼吸できることで測った。

 ——真ん中に、

 ——置かなくていいよ。

 ——外で、

 ——見守ればいい。

 節子の声が、背骨の奥でそう言った気がした。

 少年は、その声を確かめなかった。

 確かめると、

 「見守る」などと立派な言葉にしてしまう。

 今日は、立派にしない。

 

  • ■影の道で「中心を避ける」

 影の道に出ると、

 人が集まりかけている場所がある。

 噂が立つ場所。

 掲示が貼られる場所。

 誰かが「これからどうする」と声を上げる場所。

 そこは、終章の種が芽を出す場所だ。

 種が芽を出せば、

 話はまとまる。

 まとまれば、

 誰かが拍手をする。

 拍手は、生活の外の音だ。

 少年は、中心を避けた。

 避けると言っても、

 反対するわけではない。

 黙って、端を通る。

 端を通ると、

 自分の中の終章も、端に下がる。

 下がれば、

 生活が前に出る。

 少女が言った。

「行かないの?」

「外側」

「逃げてる?」

「逃げてない。

 中心にしない」

 少女は少し考えて、頷いた。

「うん。

 中心にすると、

 疲れるもんね」

 少年は頷いた。

 疲れない朝は、

 終章を急がせない。

 

  • ■黒板の字が「外」で止まり、「章」は書かれない

 教室に入ると、

 黒板には一字だけ残っていた。

 ■外

 章の字はない。

 章が書かれない黒板は、

 物語を要求しない。

 少年は席に座り、

 机に掌を置いた。

 掌はまだ、空いている。

 空いている掌は、

 何かを掴むためではなく、

 掴まないためにある。

 少年は紙に短く書いた。

 ——側

 側にいる。

 中心ではない側にいる。

 側にいることは、

 弱さにも見える。

 だが弱さを

 強さに変えない。

 変えると、終章になる。

 

  • ■炊き出しの列で「話の中心を作らない」

 朝の炊き出しで、

 誰かが言う。

 「この先はこうなるらしい」

 言えば、安心が生まれる。

 安心が生まれれば、

 筋書きができる。

 筋書きができれば、

 終章が先回りする。

 少年は、聞かなかった。

 聞かないのではない。

 中心にしない。

 椀を受け取り、

 少し下がる。

 その動きだけで、

 自分は外側に立てる。

 青年が短く言う。

 「足元、な」

 足元だけで十分だ。

 遠くの筋書きは、

 外側へ置く。

 少女が言った。

「将来、どうするの?」

 少年は少し考えて、

 答えを作らなかった。

「今日する」

「今日?」

「今日の分だけ」

 少女は頷いた。

「うん。

 今日の分だけなら、

 怖くないね」

 少年は影の端へ移った。

 端は、

 終章を育てない。

 

  • ■釜戸の前で「置き手紙を見ない」

 家に戻ると、

 板の下に置いた紙のことを思い出した。

 思い出したが、

 取り出さない。

 取り出せば、読む。

 読めば、整う。

 整えば、

 終章の言葉になる。

 少年は、

 板をそのままにした。

 床として、板を使う。

 床として使うことが、

 言葉を外側へ置くということだった。

 少女が言った。

「見ないの?」

「外側」

「いつ見るの?」

「見ない」

「ずっと?」

「ずっとじゃない。

 ただ、

 今じゃない」

 今じゃない、は

 約束ではない。

 だから責めが生まれない。

 

  • ■影の輪で「終章を輪の外へ」

 朝、影の輪へ向かうと、

 輪はほとんど光に溶けていた。

人は集まらず、

ただそれぞれが通り過ぎる。

中心の空席は空席のまま。

今日はそこに、 
終章を置かない。 
終章は輪の外へ。 
輪の外に置けば、 
輪は生活の輪になる。 
生活の輪は、 
物語を必要としない。

 少女が輪の外で言った。

「節子、今日はね…… 
終章を外に置いたよ」 

 少年は頷いた。

外に置いた終章は、

見えなくなる。

見えなくなることで、

生活が前に出る。

——前で、 
——歩こう。 

 節子の声が朝の光の奥でそう言った気がした。

少年は、その声を追わなかった。

追わないことで、

声は風景の外側へ行く。

外側へ行った声は、

中心にならない。

 少年は立ち上がり、

影の薄い道を歩いた。

終章は近い。

だが終章を真ん中に置かない。

外側に置いたまま、

今日の足元を踏む。

 それが、

終章を越えた暮らしの入り口だった。

(第二百章につづく)

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