佐藤愛子を模倣し、野坂昭如の「火垂るの墓」時代を題材にした完全オリジナル長編小説『灰の味――或る少年の季節』第百九十六章・第百九十七章

目次

第百九十六章 灯の薄明──影が「終わりではない朝」を静かに置いた朝

 朝、少年は終わりの形を探さなかった。

 探せば、見つかる。

 見つかれば、名づける。

 名づければ、そこに境が立つ。

 境が立てば、こちらと向こうが分かれる。

 分かれれば、渡れなくなる。

 だから探さない。

 終わりを、朝の光の中に薄める。

 薄めたまま、呼吸に混ぜる。

 それが第百九十六章の芯だった。

 灯は戻らない。

 余熱は夜の底で静かにほどけ、

 引き受けの手は開いたまま眠り、

 同じ日は昨日の中に混ざっている。

 その積み重ねの上に、

 朝は「薄明」を置く。

 薄明とは、

 夜が終わったとも、

 朝が始まったとも言い切れない時間だ。

 はっきりしない光。

 決めない明るさ。

 少年は、その曖昧さを、

 目を凝らさなくても歩ける程度の光で測った。

 ——始めなくて、

 ——いいよ。

 ——来てるなら、

 ——それで朝だよ。

 節子の声が、背骨の奥でそう言った気がした。

 少年は、その声を確かめなかった。

 確かめると、

 どこからが朝かを知りたくなる。

 今朝は、知らないままでいい。

 

  • ■影の道で「一歩目を決めない」

 影の道に出ると、

 地面はまだ夜の色を残していた。

 ここから朝だ、という線はない。

 だが歩ける。

 歩けるなら、

 もう朝でいい。

 少年は、一歩目を意識しなかった。

 一歩目を意識すると、

 出発になる。

 出発になれば、

 到着が生まれる。

 到着が生まれれば、

 終章はそこに立つ。

 少女が言った。

「もう朝かな」

「薄明」

「どっちでもいい?」

「どっちでも歩ける」

 少女は小さく笑った。

「うん。

 歩けるなら、

 それでいいね」

 少年は頷いた。

 それでいい朝は、

 力を入れない。

 

  • ■黒板の字が「明」で止まり、「始」は書かれない

 教室に入ると、

 窓の向こうが淡く白んでいた。

 黒板には一字だけ残っている。

 ■明

 始の字はない。

 始を書けば、

 物語が整う。

 整えば、

 終章が待ち構える。

 少年は席に座り、

 机の冷たさに手を置いた。

 冷たいが、

 嫌ではない。

 温かくないことも、

 朝の一部だ。

 紙に短く書く。

 ——継

 続き。

 だが“続ける”とは書かない。

 続けると決めると、

 途中が義務になる。

 義務は、

 生活を舞台に変える。

 

  • ■炊き出しの湯で「最初の一口を作らない」

 朝の炊き出しで、

 湯気が静かに上がる。

 誰かが言う。

 「最初は熱いぞ」

 最初と言えば、

 そこに始まりが立つ。

 少年は、

 最初を作らなかった。

 ただ一口飲む。

 それが何口目かは、

 数えない。

 青年が短く言う。

 「慌てるなよ」

 慌てなければ、

 朝はこぼれない。

 少女が言った。

「熱い?」

「ちょうどいい」

「最初なのに?」

「最初じゃない」

 少女は頷いた。

「うん。

 最初って言わないと、

 構えなくていいね」

 少年は椀を持ち、

 影の端へ移った。

 端は、

 順番を主張しない。

 

  • ■釜戸の前で「火を起こしたと言わない」

 家に戻ると、

 釜戸に小さな火があった。

 誰が起こしたのか、

 分からない。

 昨日の余熱かもしれない。

 今朝の手かもしれない。

 少年は、

 火を起こしたと言わなかった。

 起こしたと言えば、

 始まりになる。

 始まりになれば、

 終わりが対になる。

 少女が火を見て言った。

「ついたね」

「来た」

「来た?」

「火が来た」

 少女は笑った。

「うん。

 来たなら、

 迎えなくていいね」

 少年は頷いた。

 迎えない朝は、

 送り出しもしない。

 

  • ■影の輪で「終章の入口を作らない」

 朝、影の輪へ向かうと、

 輪はほとんど光に溶けていた。

人は集まらず、

それぞれの歩幅で通り過ぎる。

中心の空席は空席のまま。

今日はそこに、 
終章の入口を置かない。 

入口を置けば、 
誰かが立ち止まる。 
立ち止まれば、 
ここから先は特別になる。 
特別になれば、 
言葉が整い、 
涙の準備が始まる。

少女が輪の外で言った。

「節子、今日はね…… 
終わりの入口、作らなかったよ」 

 少年は頷いた。

入口がなければ、

どこまでも道だ。

——道のままで、 
——いい。 

 節子の声が、朝の薄い光の奥でそう言った気がした。

少年は、その声を追わなかった。

追わないことで、

声は風景になる。

風景は、

通り過ぎればいい。

 少年は立ち上がり、

灯を持たずに歩き出した。

もう足元は見える。

だが遠くまでは見えない。

 遠くまで見えないことを、

不安にしない。

遠くまで見えないから、

歩幅は自然になる。

 終章は近い。

だがその近さも、

測らない。

 測れば、

そこまでの距離が物語になる。

物語になれば、

暮らしが後ろへ退く。

 少年は、

終わりではない朝を、

ただ朝として受け取り、

始まりとも呼ばず、

続きとも言わず、

静かに、 
次の光の中へ歩いていった。

──終章は、もうすぐそこにある。

第百九十七章 灯の片手──影が「終章を抱えない生」を昼に渡した昼

 昼、少年は両手を空けていた。

 空けていたと言っても、

 何も持っていないわけではない。

 持っているものは、

 名前が付いていない。

 名前が付いていないから、

 落としても拾いに戻らない。

 拾いに戻らないから、

 歩ける。

 歩けるから、

 昼は続く。

 終章が近いという気配は、

 空気の端で薄く鳴った。

 だが少年は、

 その音に向かって手を伸ばさなかった。

 伸ばせば、掴む。

 掴めば、抱える。

 抱えれば、物語になる。

 物語になると、生活が舞台になる。

 舞台は、節子の場所ではない。

 だから片手。

 抱えないための片手を、

 生活の側に残す。

 それが第百九十七章の芯だった。

 灯は戻らない。

 薄明は朝を区切らずに運び、

 余熱は夜の底で冷えきらず、

 引き受けの手は開いたまま眠っている。

 その積み重ねの上に、

 昼は「片手」を置く。

 片手とは、

 終わりを抱えない余地だ。

 握りしめる手を、

 もう一方でほどく。

 少年は、そのほどけ方を、

 指が勝手に曲がらないことで測った。

 ——抱えなくて、

 ——いいよ。

 ——片手は、

 ——空いてていい。

 節子の声が、背骨の奥でそう言った気がした。

 少年は、その声を確かめなかった。

 確かめると、

 誰の手を掴めばいいかを探してしまう。

 今日は、探さない。

 

  • ■影の道で「荷を持ち替えない」

 影の道で、

 誰かが木片を運んでいる。

 片手では足りないほど重い。

 助けようと思えば、

 両手が必要になる。

 両手が必要になると、

 少年の片手は塞がる。

 塞がれば、

 終章を抱えられてしまう。

 少年は、近づきすぎない。

 助けないのではない。

 助ける形を、

 自分の中で作らない。

 形を作ると、

 自分が善になってしまう。

 善は、誰かを悪にする。

 終章は、善悪で閉じたくない。

 少年は道の端を通り、

 空いた手を身体の横に置いたまま歩く。

 その手は、

 何かを掴むためではなく、

 掴まないためにある。

 少女が言った。

「手、空いてるね」

「片手」

「助けないの?」

「助けるときは、

 抱えない助けにする」

「むずかしいね」

「むずかしいって言わないと、

 続く」

 少女はしばらく考えて、頷いた。

「うん。

 続くって、

 いいね」

 少年は頷いた。

 続く昼は、

 終章を急がせない。

 

  • ■黒板の字が「手」で止まり、「結」は書かれない

 教室に入ると、

 黒板には一字だけ残っていた。

 ■手

 結の字はない。

 結ぶと、

 約束になる。

 約束になると、

 守れない日が責めになる。

 責めが生まれると、

 節子はまた“守れなかったもの”になる。

 少年は座って、

 掌を見た。

 掌は、何も書いていない。

 だが何も書いていない掌が、

 いちばん多くのことを持っている。

 持っているのに、

 掴まない。

 掴まないことが、

 終章を閉じない鍵だった。

 少年は紙に短く書いた。

 ——開

 それは、

 放棄ではない。

 抱えないための姿勢。

 

  • ■炊き出しの列で「両手で受け取らない」

 昼の炊き出しで、

 椀が差し出される。

 両手で受け取れば、丁寧になる。

 丁寧は、善い。

 だが善いが続くと、

 善い者と善くない者が生まれる。

 善くない者は、

 肩身が狭くなる。

 少年は片手で受け取った。

 乱暴ではない。

 ただ、同じ高さ。

 片手で受け取ると、

 もう片方は空く。

 空いた手は、

 終章を掴まない。

 青年が短く言う。

 「落とすなよ」

 落とさないように、

 握りしめない。

 それが難しい。

 だが難しいと言わない。

 少女が言った。

「片手だね」

「空けてる」

「何のために?」

「歩くため」

「うん。

 歩けると、

 先が怖くないね」

 少年は椀を持ち、

 影の端へ移った。

 端は、

 丁寧を競わない。

 

  • ■釜戸の前で「手を合わせない」

 家に戻ると、

 少年は手を合わせなかった。

 祈りの形にすると、

 終章が祈りになる。

 祈りになる終章は、

 救いを要求する。

 救いは、

 暮らしに似合わないことがある。

 少年は、

 ただ器を洗い、

 水を捨て、

 布を絞った。

 片手が空いているから、

 布を絞っても、

 どこかが詰まらない。

 少女が言った。

「何も言わないね」

「片手」

「声も空けてるの?」

「声を空けると、

 言い過ぎない」

 少女は笑った。

「うん。

 言い過ぎないと、

 静かだね」

 少年は頷いた。

 静かな昼は、

 終章を飾らない。

 

  • ■影の輪で「握手を中央に置かない」

 昼、影の輪へ向かうと、

 輪は光に溶け、

人は集まらずに通り過ぎていく。

中心の空席は空席のまま。

今日はそこに、

握手を置かない。

握手を置けば、 
合意が生まれる。 
合意が生まれれば、 
終わりが一つの言葉になる。 
言葉になれば、 
それは引用される。 
引用される終章は、 
生活から離れていく。

少女が輪の外で言った。

「節子、今日はね…… 
両手で抱えなかったよ」 

 少年は頷いた。

抱えないことで、

生は続く。

——続けば、 
——それでいい。 

 節子の声が昼の光の奥でそう言った気がした。

少年は、その声を追わなかった。

追わないことで、

声は風になる。

風は、掴めない。

掴めないものは、

抱えなくていい。

 少年は立ち上がり、

片手を空けたまま歩いた。

空けた手は、

誰かを押しのけるためでも、

掴むためでもない。

ただ、

終章を抱えないための余地。

 終章が近い。

だが近い終章を、

両手で迎えない。

片手のまま、

生活の中を通す。

 それが、

終わりを言わない終わりへ向かう、

最も静かな歩き方だった。

(第百九十八章につづく)

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