佐藤愛子を模倣し、野坂昭如の「火垂るの墓」時代を題材にした完全オリジナル長編小説『灰の味――或る少年の季節』第百九十章・第百九十一章

目次

第百九十章 灯の置き場なし──影が「しまわない終わり」を夕方に運んだ夕方

 夕方、少年はしまわなかった。

 しまえば、片づく。

 片づけば、終わる。

 終われば、次が始まる。

 次が始まれば、今は過去になる。

 過去になると、夕方は置き物になる。

 だからしまわない。

 置き場を作らない。

 終わりを、終わりとして収納しない。

 ただ、今日の端へ運んで、

 そこに置いたふりもしない。

 それが第百九十章の芯だった。

 灯は戻らない。

 無返事は昼の空気にほどけ、

 手触りは掌から抜け、

 受け皿は満ちない余地を保っている。

 その積み重ねの上に、

 夕方は「置き場なし」を置く。

 置き場なしとは、

 終章のための準備をしないことだ。

 終わるために並べると、

 終わりが勝手に形を持つ。

 少年は、形を持たせない。

 終わりを、今日の中に溶かしたまま運ぶ。

 その運びを、

 影が長くなっても急がないことで測った。

 ——しまわなくて、

 ——いいよ。

 ——置き場を作ると、

 ——終わりが固まるから。

 節子の声が、背骨の奥でそう言った気がした。

 少年は、その声を確かめなかった。

 確かめると、

 「終わり」をどこに置くか探し始めてしまう。

 今日は、探さない。

 

  • ■影の道で「片づく景色を選ばない」

 影の道の端に、

 小さな空き地がある。

 板切れが積まれ、

 鍋の蓋が寄せられ、

 誰かの生活が“まとめられた”跡がある。

 まとめられた跡は、

 整って見える。

 整うと、安心する。

 安心すると、

 同じことをしたくなる。

 少年は、空き地を見なかった。

 見れば、

 自分の中にも棚を作りたくなる。

 棚を作れば、

 節子を入れてしまう。

 入れてしまえば、

 取り出す場所になる。

 取り出す場所は、

 何度でも開く。

 開けば、痛みは習慣になる。

 少年は歩幅を変えずに通った。

 通り過ぎることが、

 片づけないという選択だった。

 少女が言った。

「そこ、片づいてるね」

「置き場」

「作らないの?」

「作らない」

「うん。

 作らないと、

 閉めなくていいね」

 少年は頷いた。

 閉めなくていい夕方は、

 鍵を持たなくていい。

 

  • ■黒板の字が「置」で止まり、「終」は書かれない

 教室に入ると、

 夕方の光が窓から斜めに差し、

 黒板には一字だけ書かれていた。

 ■置

 終の字はない。

 教員は短く言った。

「今日は、置き方の話をする」

 生徒たちは、

 片づけの話だと思って頷いた。

 だが教員は、

 片づけるとは言わなかった。

「戦争は、

 終わりを置いた。

 勝った、負けた、

 終戦、敗戦」

 少年は、

 置かれた言葉が

 生活の上に重く乗った日を思い出した。

 置かれた終わりは、

 人の呼吸を詰まらせる。

 終わったのだから、

 次へ行けと言う。

 行けない者は、

 遅れた者になる。

「生活は、

 置き場を作らない」

 教員は続けた。

「置き場があると、

 しまう」

 しまうと、

 取り出す。

 取り出すと、

 語る。

 語ると、

 形が立つ。

「形が立つと、

 終わりは“完成品”になる」

 教員はそれだけ言って、

 黒板の字を消さなかった。

 置の字は、

 置かれたまま残る。

 少年は紙に短く書いた。

 ——未置

 それは、

 未完ではない。

 終わりを棚に入れない、

 ただの運び方。

 

  • ■炊き出しの列で「最後の一杯を作らない」

 夕方の炊き出しで、

 鍋底が見え始める。

 誰かが言う。

 「これが最後だな」

 最後と言えば、

 場は締まる。

 締まれば、

 感慨が生まれる。

 感慨は、

 拍手か沈黙を呼ぶ。

 少年は最後を言わなかった。

 言わないまま、

 椀を受け取った。

 量が少ない。

 だが少ないことを、

 不足にしない。

 不足にすると、

 埋めたくなる。

 埋めたくなると、

 終わりに形が付く。

 青年が短く言う。

 「次、どうぞ」

 次がある言い方で、

 列は続いた。

 実際に次があるかどうかは、

 誰も決めない。

 決めないことが、

 今日を延ばす。

 少女が言った。

「最後じゃないの?」

「置き場なし」

「うん。

 最後って言わないと、

 苦しくないね」

 少年は頷いた。

 苦しくない夕方は、

 夜を怖がらない。

 

  • ■釜戸の前で「仕舞い支度をしない」

 家に戻ると、

 少年は器を伏せた。

 だが重ねない。

 重ねれば、

 終わりの姿になる。

 終わりの姿は、

 今日を片づけてしまう。

 灰はそのまま。

 火もそのまま。

 残り火を確かめない。

 消えたかどうかを決めない。

 決めないことが、

 薄明を呼ぶ。

 少女が言った。

「明日の分、用意しないの?」

「用意すると、

 明日が来る」

「明日、来るよ」

「来てもいい。

 でも迎えに行かない」

 迎えに行けば、

 明日は“目的”になる。

 目的になると、

 今日が“手段”になる。

 手段になる今日は、

 節子を置き去りにする。

 置き去りにしたくないのではない。

 置き去りにしたという形を作りたくないのだ。

 少女は小さく頷いた。

「じゃあ、

 このままね」

 少年は頷いた。

 このまま、が置き場なしの言い方だった。

 

  • ■影の輪で「終章の合図を中央に置かない」

 夕方、影の輪へ向かうと、

 輪はほどけ、

人はそれぞれの帰路を探していた。

中心の空席は空席のまま。

今日はそこに、

終章の合図を置かない。

合図を置くと、

皆が身構える。

身構えれば、

言葉が整い始める。

整った言葉は、

別れを作る。

 少女が輪の外で言った。

「節子、

 今日ね……

 終わりみたいにしなかったよ」

 少年は頷いた。

 終わりみたいにしない。

 それは、終わりを否定することではない。

 終わりを、生活から追い出さないことだ。

 ——追い出さないで、

 ——並べておこう。

 節子の声が夕方の空気に混じってそう言った気がした。

 少年は、その声を追わなかった。

追わないことで、

声は“答え”にならない。

答えにならない声は、

置き場を持たない。

 輪の縁に腰を下ろし、

背中を影に預ける。

だが寄りかからない。

置き場なしは、

支えではなく、

配分だ。

終わりを一箇所に集めず、

今日の端々に薄く配る。

配れば、重くならない。

重くならなければ、

歩ける。

 焼け跡の夕方は、

終章を祝わない。

代わりに、

しまわない終わりを運ぶ。

少年は、その運びの中で、

節子を“回想”として取り出さず、

生活の空気の一部として、

ただ呼吸の隙間に置いたまま、

今日という夕方を、

静かに夜へと渡していった。

第百九十一章 灯の余白音──影が「終わらない静けさ」を夜にひらいた夜

 夜、少年は終わらせなかった。

 終わらせれば、閉じる。

 閉じれば、静まる。

 静まれば、区切りになる。

 区切りになれば、人はそこを振り返る。

 振り返れば、物語が立つ。

 だから終わらせない。

 静けさを、閉じずにひらく。

 ひらいたまま、

 音のない余白として残す。

 それが第百九十一章の芯だった。

 灯は戻らない。

 置き場なしの終わりは夕方の端に薄まり、

 無返事は往復を止めたまま空気に溶け、

 手触りは朝の摩擦として消えかけている。

 その積み重ねの上に、

 夜は「余白音」を置く。

 余白音とは、

 聞こえないことで続く響きだ。

 鳴らさず、

 止めず、

 ただそこにある静けさの厚み。

 少年は、その厚みを、

 耳鳴りにも似た遠い無音で測った。

 ——終わらせなくて、

 ——いいよ。

 ——静けさは、

 ——続くから。

 節子の声が、背骨の奥でそう言った気がした。

 少年は、その声を確かめなかった。

 確かめると、

 いつ終わるのかを知りたくなる。

 今夜は、知らないままでいい。

 

  • ■影の道で「足音を揃えない」

 影の道に出ると、

 誰かの足音が遠くで重なる。

 揃えれば、

 行進になる。

 行進になれば、

 終点が生まれる。

 少年は、

 揃えなかった。

 自分の速さで歩く。

 足音は、

 互いに触れず、

 やがて聞こえなくなる。

 少女が言った。

「静かだね」

「余白」

「うん。

 静かだと、

 怖くないね」

 少年は頷いた。

 怖くない夜は、

 先を急がない。

 

  • ■黒板の字が「静」で止まり、「終」は書かれない

 夜の自習室には、

 誰もいない。

 だが黒板には、

 一字だけ残っていた。

 ■静

 終の字はない。

 誰が書いたのかも、

 分からない。

 少年は立ち止まらなかった。

 静けさは、

 読むものではない。

 通るものだ。

 それでも、

 声のように、

 昨日の教員の言葉が浮かぶ。

「戦争は、

 終わりを宣言した。

 宣言は、

 大きな音を立てる」

 音が大きいほど、

 人は安心したふりをする。

 終わった、と。

「生活は、

 静かにほどける」

 ほどけるとき、

 音はしない。

 少年は紙に短く書いた。

 ——余

 それは、

 沈黙ではない。

 続いている音。

 

  • ■炊き出しの火で「消える瞬間を見届けない」

 夜の炊き出しの火が、

 小さくなる。

 誰かが言う。

 「もう消えるな」

 消える瞬間を見れば、

 終わりが立つ。

 少年は、

 見届けなかった。

 背を向け、

 椀を洗う。

 水の音が、

 火の代わりに夜に残る。

 青年が短く言う。

 「明日もだな」

 明日が来るかどうかを、

 誰も約束しない。

 だが言葉は、

 終わりを遠ざける。

 少女が言った。

「見ないの?」

「余白音」

「うん。

 見ないと、

 終わらないね」

 少年は頷いた。

 終わらない夜は、

 深くなるだけだ。

 

  • ■釜戸の前で「蓋を閉めない」

 家に戻ると、

 少年は鍋の蓋を少しずらしたままにした。

 閉めれば、

 仕舞いになる。

 仕舞いになれば、

 今日が終わる。

 ずれた蓋の隙間から、

 わずかな温気が逃げる。

 逃げる音はしない。

 だが、

 そこに続きがある。

 少女が言った。

「閉めないの?」

「ひらいてる」

「うん。

 ひらいてると、

 続いてるね」

 少年は頷いた。

 続いている夜は、

 区切りを持たない。

 

  • ■影の輪で「終わりの形を中央に置かない」

 夜、影の輪へ向かうと、

 輪はほとんど見えないほど薄かった。

 人は集まらず、

ただ通り過ぎていく。

中心の空席は空席のまま。 
今日はそこに、 
終わりの形を置かない。 

形を置けば、 
誰かが指さす。 
指さされれば、 
名前が付く。 
名前が付けば、 
物語は閉じる。

少女が輪の外で言った。

「節子、今日はね…… 
終わらせなかったよ」 

 少年は頷いた。

終わらせないことで、

静けさは広がる。

——広がれば、 
——それでいい。 

 節子の声が夜の奥でそう言った気がした。

少年は、その声を追わなかった。

追わないことで、

声は余白になる。

余白は、

埋めなくていい。

 輪の縁に腰を下ろし、

背中を影に預ける。

だが寄りかからない。

余白音は、

支えではなく、

呼吸だ。

終わらせず、

閉じず、

ただ続いていることを知らせる呼吸。

 焼け跡の夜は、

終章の合図を鳴らさない。

代わりに、

終わらない静けさをひらく。

 少年は、その静けさの中で、

節子を思い出そうとしなかった。

思い出さなくても、

どこかに在る。

 そしてそれは、

思い出よりも、

静かに続いていくものだった。

 夜は深くなる。

 だが深さにも、

 底は置かれない。

 少年は立ち上がり、

振り返らず、

確かめず、

今日という夜を、

終わらせることなく、

次の暗がりへと歩いていった。

(第百九十二章につづく)

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