第百八十八章 灯の手触り──影が「確かめない存在」を朝に渡した朝
朝、少年は確かめなかった。
確かめれば、在る。
在れば、触れられる。
触れられれば、持てる。
持てば、失う。
失えば、数える。
数えると、朝は重くなる。
だから確かめない。
触れずに、
手触りだけを受け取る。
形ではなく、
温度でもなく、
そこに在ったという抵抗だけを。
それが第百八十八章の芯だった。
灯は戻らない。
受け皿は夜の余地を保ち、
置き忘れは欠片のまま落ち着き、
等間はほどけた配分を続けている。
その積み重ねの上に、
朝は「手触り」を置く。
手触りとは、
存在を証明しない感触だ。
在るとも、
無いとも言わない。
ただ、
通ったときに生じる摩擦だけが残る。
少年は、その摩擦を、
指先が覚えない程度の弱さで測った。
——触らなくて、
——いいよ。
——分かるのは、
——後で。
節子の声が、背骨の奥でそう言った気がした。
少年は、その声を確かめなかった。
確かめると、
誰の声かを決めたくなる。
今日は、決めない。
- ■影の道で「確かめ歩きしない」
影の道を歩くと、
朝露が足元に残る。
踏めば、
冷たい。
だが少年は、
踏み心地を覚えなかった。
一歩、
また一歩。
感触は、
次の足に渡らない。
少女が言った。
「濡れてる?」
「手触り」
「うん。
残らないと、
軽いね」
少年は頷いた。
軽い朝は、
息を詰めない。
- ■黒板の字が「触」で止まり、「在」は書かれない
教室に入ると、
朝の光が机の角を撫で、
黒板には一字だけ書かれていた。
■触
在の字はない。
教員は短く言った。
「今日は、触れる話をする」
生徒たちは、
理科の話だと思って手を伸ばした。
「戦争は、
在ることを確かめさせた。
人数、
物資」
少年は、
確かめさせられた存在が
どれほど早く数に変えられたかを思い出した。
「生活は、
触れない」
教員は続けた。
「触れないと、
失わない」
黒板の字はそれ以上増えない。
触れ方を説明しすぎると、
管理になる。
少年は紙に短く書いた。
——摩
それは、
証拠ではない。
- ■炊き出しの列で「重さを比べない」
朝の炊き出しで、
椀を持つ。
重ければ、
満たされる気がする。
だが少年は、
比べなかった。
手に来る分だけを、
そのまま受ける。
青年が短く言う。
「気をつけて」
それで、
朝は進む。
少女が言った。
「軽い?」
「分からない」
「うん。
分からないと、
平気だね」
少年は椀を持ち、
影の端へ移った。
端は、
比較が育たない。
- ■釜戸の前で「火の在り処を確かめない」
家に戻ると、
少年は灰の奥を覗かなかった。
火が在るか、
無いか。
それを決めない。
ただ、
温度が来なければ、
手を離す。
少女が言った。
「大丈夫?」
「手触り」
「うん。
手触りだと、
怖くないね」
少年は頷いた。
怖くない朝は、
昼を急がせない。
- ■影の輪で「存在を中央に置かない」
朝、影の輪へ向かうと、
輪は薄く、
人はそれぞれの方向へ通っていた。
中心の空席は空席のまま。
今日はそこに、
存在を置かない。
存在を置くと、
確認が始まる。
確認は、
朝を固める。
少女が輪の外で言った。
「節子、今日はね……
確かめなかったよ」
少年は頷いた。
確かめないことで、
在るか無いかは溶ける。
——溶けたままで、
——歩こう。
節子の声が朝の空気に溶けてそう言った気がした。
少年は、その声を追わなかった。
追わないことで、
声は手触りになる。
手触りは、
名を持たない。
輪の縁に腰を下ろし、
背中を影に預ける。
だが寄りかからない。
手触りは、
支えではなく、
通過だ。
確かめず、
掴まず、
ただ通った感触として残る通過。
焼け跡の朝は、
存在を主張しない。
代わりに、
確かめない存在を渡す。
少年は、その渡された手触りを
掌に留めることなく、
覚えず、
名づけず、
今日という朝を
静かに歩き出していった。
第百八十九章 灯の無返事──影が「届いたままの声」を昼に置いた昼

昼、少年は返事をしなかった。
返事をすれば、往復になる。
往復になれば、確かめ合いが始まる。
確かめ合いが始まると、位置が決まる。
位置が決まると、昼は形を持つ。
だから返事をしない。
受け取ったまま、
胸の外に置く。
声は声のまま、
行き先を決めずに、
空気に溶かす。
それが第百八十九章の芯だった。
灯は戻らない。
手触りは朝の摩擦として薄く残り、
受け皿は夜の余地を保ち、
置き忘れは欠片のまま落ち着いている。
その積み重ねの上に、
昼は「無返事」を置く。
無返事とは、
拒まない沈黙だ。
聞かなかったのではない。
届いたことを、
往復にしないだけ。
少年は、その沈黙を、
喉が乾かない程度の軽さで測った。
——返さなくて、
——いいよ。
——届いたなら、
——それで。
節子の声が、背骨の奥でそう言った気がした。
少年は、その声を確かめなかった。
確かめると、
何に返すのかを選びたくなる。
今日は、選ばない。
- ■影の道で「呼び止められても止まらない」
影の道で、
背後から声が来る。
名前ではない。
用件でもない。
ただの呼びかけ。
少年は、
歩幅を変えなかった。
止まらず、
早めず、
そのまま通る。
声は、
背中で消える。
少女が言った。
「冷たい?」
「無返事」
「うん。
返さないと、
絡まないね」
少年は頷いた。
絡まない昼は、
肩を張らない。
- ■黒板の字が「返」で止まり、「答」は書かれない
教室に入ると、
昼の光が机の中央を平らに照らし、
黒板には一字だけ書かれていた。
■返
回答の「答」はない。
教員は短く言った。
「今日は、返し方の話をする」
生徒たちは、
受け答えの話だと思って前を向いた。
「戦争は、
返事を急がせた。
命令、
確認」
少年は、
急がされた返事が
どれほど多くの声を削ったかを思い出した。
「生活は、
返さない」
教員は続けた。
「返さないと、
往復が止まる」
黒板の字はそれ以上増えない。
返しを説明しすぎると、
型になる。
少年は紙に短く書いた。
——受
それは、
完了ではない。
- ■炊き出しの列で「感謝を言い切らない」
昼の炊き出しで、
椀が差し出される。
ありがとうと言えば、
場は丸くなる。
だが丸くなりすぎると、
期待が立つ。
少年は、
言い切らなかった。
目を合わせ、
受け取る。
それだけで、
列は流れる。
青年が短く言う。
「どうぞ」
それで、
昼は進む。
少女が言った。
「言わないんだ」
「届いた」
「うん。
届いてると、
十分だね」
少年は椀を持ち、
影の端へ移った。
端は、
言葉が溜まらない。
- ■釜戸の前で「返事を待たない」
家に戻ると、
少年は問いを置かなかった。
置けば、
返事を待つことになる。
待てば、
時間が固まる。
少年は、
水を汲み、
器を並べた。
返事が来ても、
来なくても、
同じ手順だ。
少女が言った。
「聞かないの?」
「無返事」
「うん。
待たないと、
楽だね」
少年は頷いた。
楽な昼は、
午後を急がせない。
- ■影の輪で「返答を中央に置かない」
昼、影の輪へ向かうと、
輪は薄く、
人はそれぞれの作業に戻っていた。
中心の空席は空席のまま。
今日はそこに、
返答を置かない。
返答を置くと、
沈黙が責められる。
責めは、
昼を尖らせる。
少女が輪の外で言った。
「節子、今日はね……
返さなかったよ」
少年は頷いた。
返さないことで、
声は往復しない。
——届いたなら、
——それでいい。
節子の声が昼の空気に溶けてそう言った気がした。
少年は、その声を追わなかった。
追わないことで、
声は置かれる。
置かれた声は、
動かない。
輪の縁に腰を下ろし、
背中を影に預ける。
だが寄りかからない。
無返事は、
支えではなく、
減速だ。
返さず、
待たせず、
ただ届いたままにするための減速。
焼け跡の昼は、
即答を求めない。
代わりに、
返さない返事を置く。
少年は、その無返事の中を歩き、
確かめず、
促さず、
今日という昼を、
午後へと静かに渡していった。
(第百九十章につづく)

コメント