佐藤愛子を模倣し、野坂昭如の「火垂るの墓」時代を題材にした完全オリジナル長編小説『灰の味――或る少年の季節』第百八十六章・第百八十七章

目次

第百八十六章 灯の置き忘れ──影が「探さない欠片」を夕方に残した夕方

 夕方、少年は探さなかった。

 探せば、見つかる。

 見つかれば、持てる。

 持てば、置き場が要る。

 置き場が要ると、夕方は片づく。

 片づけば、終わりが近づく。

 だから探さない。

 置き忘れる。

 欠けたまま、

 欠けた形で、

 道の端に残す。

 それが第百八十六章の芯だった。

 灯は戻らない。

 行き違いは道を延ばし、

 薄明は朝を急がせず、

 無名灯は夜の名残を保っている。

 その積み重ねの上に、

 夕方は「置き忘れ」を置く。

 置き忘れとは、

 失ったことを確認しない残り方だ。

 無くしたとも、

 残したとも言わない。

 ただ、

 手元にない状態を受け入れる。

 少年は、その受け入れを、

 掌が空のままで冷えないことで測った。

 ——探さなくて、

 ——いいよ。

 ——欠けたまま、

 ——歩こう。

 節子の声が、背骨の奥でそう言った気がした。

 少年は、その声を確かめなかった。

 確かめると、

 何を置き忘れたのかを数えたくなる。

 今日は、数えない。

 

  • ■影の道で「振り返らない段差」

 影の道に、

 小さな段差がある。

 落とし物が、

 溜まりやすい場所だ。

 だが少年は、

 振り返らなかった。

 段差を越え、

 そのまま進む。

 影は、

 少しだけ伸びる。

 少女が言った。

「何か落とした?」

「置き忘れ」

「うん。

 置いてきたままでも、

 歩けるね」

 少年は頷いた。

 歩ける夕方は、

 肩を竦めない。

 

  • ■黒板の字が「欠」で止まり、「探」は書かれない

 教室に入ると、

 夕方の光が床に斜めの帯を落とし、

 黒板には一字だけ書かれていた。

 ■欠

 探索の「探」はない。

 教員は短く言った。

「今日は、足りなさの話をする」

 生徒たちは、

 補う話だと思って身を乗り出した。

「戦争は、

 足りなさを煽った。

 不足、

 欠乏」

 少年は、

 煽られた欠乏が

 どれほど人を走らせたかを思い出した。

「生活は、

 欠けたままにする」

 教員は続けた。

「欠けたままだと、

 争わない」

 黒板の字はそれ以上増えない。

 欠けを説明しすぎると、

 欲になる。

 少年は紙に短く書いた。

 ——空

 それは、

 不足ではない。

 

  • ■炊き出しの列で「取り違えを正さない」

 夕方の炊き出しで、

 椀が一つ、余る。

 誰のものか、

 分からない。

 分かれば、

 返せる。

 だが少年は、

 正さなかった。

 置いたまま、

 次へ回す。

 青年が短く言う。

 「そのまま」

 それで、

 夕方は続く。

 少女が言った。

「いいの?」

「置き忘れ」

「うん。

 そのままだと、

 静かだね」

 少年は影の端へ移った。

 端は、

 正解を急がない。

 

  • ■釜戸の前で「数を揃えない」

 家に戻ると、

 少年は器の数を数えなかった。

 一つ足りなくても、

 困らない。

 困らないことで、

 探さなくて済む。

 少女が言った。

「足りない?」

「欠けてる」

「うん。

 欠けてると、

 無理しないね」

 少年は頷いた。

 無理しない夕方は、

 夜を押さない。

 

  • ■影の輪で「欠片を中央に置かない」

 夕方、影の輪へ向かうと、

 輪はほどけ、

人はそれぞれの帰り支度をしていた。

中心の空席は空席のまま。

今日はそこに、

欠片を置かない。

欠片を置くと、

探し物が始まる。

探し物は、

夕方を忙しくする。

 少女が輪の外で言った。

「節子、今日はね…… 
探さなかったよ」 

 少年は頷いた。

探さないことで、

欠けは落ち着く。

——そのままで、 
——続こう。 

 節子の声が夕方の風に混じってそう言った気がした。

少年は、その声を追わなかった。

追わないことで、

声は欠片になる。

欠片は、

集めなくていい。

 輪の縁に腰を下ろし、

背中を影に預ける。

だが寄りかからない。

置き忘れは、

支えではなく、

余白だ。

探さず、

埋めず、

ただ欠けたまま歩くための余白。

 焼け跡の夕方は、

完全を求めない。

代わりに、

探さない欠片を残す。

少年は、その欠片を拾い上げることなく、

手を空にしたまま、

今日という夕方を、

静かに夜へと送り出した。

第百八十七章 灯の受け皿──影が「満たさない余地」を夜に置いた夜

 夜、少年は満たさなかった。

 満たせば、終わる。

 終われば、閉じる。

 閉じれば、静かになる。

 静かになれば、夜は完成したふりをする。

 だから満たさない。

 受ける。

 欠けたまま、

 空いたまま、

 入ってくるものを拒まない。

 それが第百八十七章の芯だった。

 灯は戻らない。

 置き忘れは道の端で落ち着き、

 行き違いは昼の延びを保ち、

 薄明は朝の境を薄くしたまま残っている。

 その積み重ねの上に、

 夜は「受け皿」を置く。

 受け皿とは、

 満杯を目指さない器だ。

 溢れさせず、

 空を恐れず、

 ただ注がれる分だけを受ける。

 少年は、その器を、

 手首の角度が変わらないことで測った。

 ——いっぱいに、

 ——しなくていいよ。

 ——入る分だけ、

 ——受けよう。

 節子の声が、背骨の奥でそう言った気がした。

 少年は、その声を確かめなかった。

 確かめると、

 どれくらい入ったかを量りたくなる。

 今夜は、量らない。

 

  • ■影の道で「溜めない足取り」

 影の道に、

 夜露が集まる。

 溜めれば、

 冷たくなる。

 だが少年は、

 溜めなかった。

 一歩ごとに、

 露は散る。

 散って、

 道は乾く。

 少女が言った。

「濡れない?」

「受け皿」

「うん。

 受けてると、

 重くならないね」

 少年は頷いた。

 重くならない夜は、

 肩を落とさない。

 

  • ■黒板の字が「受」で止まり、「満」は書かれない

 夜の自習室に入ると、

 窓の外は暗く、

 黒板には一字だけ書かれていた。

 ■受

 充満の「満」はない。

 教員は短く言った。

「今日は、器の話をする」

 生徒たちは、

 道徳の話だと思って姿勢を正した。

「戦争は、

 満たせと言った。

 資源、

 兵」

 少年は、

 満たそうとした結果

 どれほど多くの空が壊れたかを思い出した。

「生活は、

 受ける」

 教員は続けた。

「受けると、

 溢れない」

 黒板の字はそれ以上増えない。

 器を説明しすぎると、

 規格になる。

 少年は紙に短く書いた。

 ——余

 それは、

 不足ではない。

 

  • ■炊き出しの端で「足し算をしない」

 夜の炊き出しで、

 具が少し残る。

 足せば、

 満足が立つ。

 だが少年は、

 足さなかった。

 そのまま、

 次へ回す。

 青年が短く言う。

 「十分だ」

 それで、

 夜は続く。

 少女が言った。

「少ない?」

「余地」

「うん。

 余地があると、

 落ち着くね」

 少年は影の端へ移った。

 端は、

 欲が育たない。

 

  • ■釜戸の前で「鍋を満たさない」

 家に戻ると、

 少年は鍋に水を張りすぎなかった。

 半分で止める。

 沸けば、

 それで足りる。

 少女が言った。

「足りる?」

「受ける」

「うん。

 受けると、

 焦らないね」

 少年は頷いた。

 焦らない夜は、

 眠りを急がせない。

 

  • ■影の輪で「充足を中央に置かない」

 夜、影の輪へ向かうと、

 輪は低く、

人はそれぞれの場所で腰を下ろしていた。

中心の空席は空席のまま。

今日はそこに、

充足を置かない。

充足を置くと、

拍手が要る。

拍手は、

夜を終わらせる。

 少女が輪の外で言った。

「節子、今日はね…… 
満たさなかったよ」 

 少年は頷いた。

満たさないことで、

夜は続く。

——続けば、 
——十分。 

 節子の声が夜の空気に溶けてそう言った気がした。

少年は、その声を追わなかった。

追わないことで、

声は器になる。

器は、

空を怖がらない。

 輪の縁に腰を下ろし、

背中を影に預ける。

だが寄りかからない。

受け皿は、

支えではなく、

余地だ。

満たさず、

競わず、

ただ入ってくる分だけを受けるための余地。

 焼け跡の夜は、

完成を急がない。

代わりに、

満たさない余地を残す。

少年は、その余地の中に身を置き、

数えず、

量らず、

今日という夜が

自然に静まっていくのを、

ただ受け止めていた。

(第百八十八章につづく)

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

コメント

コメントする

目次