佐藤愛子を模倣し、野坂昭如の「火垂るの墓」時代を題材にした完全オリジナル長編小説『灰の味――或る少年の季節』第百七十四章・第百七十五章

目次

第百七十四章 灯の持ち越し影──影が「抱えない記憶」を夕方へ送った夕方

 夕方、少年は記憶を抱えなかった。

 抱えれば、落とさない。

 落とさなければ、守れる。

 守れれば、意味が生まれる。

 意味が生まれると、説明が要る。

 説明が要ると、夕方は重くなる。

 だから抱えない。

 持ち越す。

 胸ではなく、

 時間の端に置いて、

 次の時間へ送る。

 それが第百七十四章の芯だった。

 灯は戻らない。

 通し音は途切れず、

 残り火は触れない距離にあり、

 置き終えは敷かれたまま。

 その積み重ねの上に、

 夕方は「持ち越し影」を置く。

 持ち越し影とは、

 覚えているが抱えない影だ。

 追わず、

 閉じず、

 ただ次の光へ滑らせる。

 少年は、その滑りを、

 肩に残らない重さで測った。

 ——抱えなくて、

 ——いいよ。

 ——影は、

 ——送れば。

 節子の声が、背骨の奥でそう言った気がした。

 少年は、その声を確かめなかった。

 確かめると、

 何を覚え、何を忘れるかを分けたくなる。

 今日は、分けない。

 

  • ■影の道で「振り返らない角」

 影の道には、

 角がある。

 振り返れば、

 来た道が見える。

 見えれば、

 同じ形が胸に乗る。

 胸に乗れば、

 持ち帰りたくなる。

 少年は、

 角で歩幅を変えなかった。

 速めない。

 遅らせない。

 ただ、

 曲がる。

 曲がれば、

 影は先へ伸びる。

 少女が言った。

「見ないの?」

「持ち越し」

「うん。

 持ち越すと、

 軽いね」

 少年は頷いた。

 軽い夕方は、

 言葉を増やさない。

 

  • ■黒板の字が「記」で止まり、「憶」は書かれない

 教室に入ると、

 夕方の光が机に薄い帯を作り、

 黒板には一字だけ書かれていた。

 ■記

 記憶の「憶」はない。

 教員は短く言った。

「今日は、残し方の話をする」

 生徒たちは、

 暗記の話だと思って前を向いた。

「戦争は、

 憶えろと言った。

 数、

 日付」

 少年は、

 数えさせられた記憶が

 どれほど人を縛ったかを思い出した。

「生活は、

 記すだけ」

 教員は続けた。

「記すと、

 抱えなくて済む」

 黒板の字はそれ以上増えない。

 覚え方を説明しすぎると、

 競争になる。

 少年は紙に短く書いた。

 ——送

 それは、

 保存ではない。

 

  • ■炊き出しの列で「話を畳まない」

 夕方の炊き出しで、

 短い話が行き交う。

 畳めば、

 結論が出る。

 結論が出れば、

 拍子が付く。

 少年は、

 話を畳まなかった。

 一言、

 間を置く。

 それだけで、

 話は次へ流れる。

 青年が短く言う。

 「また」

 それで、

 夕方は続く。

 少女が言った。

「終わらないね」

「持ち越し」

「うん。

 持ち越すと、

 寂しくならないね」

 少年は椀を持ち、

 影の端へ移った。

 端は、

 話が溜まらない。

 

  • ■釜戸の前で「匂いを閉じない」

 家に戻ると、

 少年は蓋を完全に閉めなかった。

 匂いは、

 薄く残る。

 残れば、

 思い出が立つ。

 だが立ちすぎない。

 少女が言った。

「残る?」

「送る」

「うん。

 送ると、

 留まらないね」

 少年は頷いた。

 留まらない夕方は、

 夜を急がせない。

 

  • ■影の輪で「記憶を中央に置かない」

 夕方、影の輪へ向かうと、

 輪はほどけ、

人はそれぞれの道へ散っていった。

中心の空席は空席のまま。

今日はそこに、

記憶を置かない。

記憶を置くと、

共有が始まる。

共有は、

重さを生む。

 少女が輪の外で言った。

「節子、今日はね…… 
抱えなかったよ」 

 少年は頷いた。

抱えないことで、

影は背中に張り付かない。

——送って、 
——休もう。 

 節子の声が夕方の風に混じってそう言った気がした。

少年は、その声を追わなかった。

追わないことで、

声は道になる。

道は、

先へ続く。

 輪の縁に腰を下ろし、

背中を影に預ける。

だが寄りかからない。

持ち越し影は、

支えではなく、

通行だ。

抱えず、

捨てず、

ただ次へ送るための通行。

 焼け跡の夕方は、

記憶を抱えさせない。

代わりに、

抱えない記憶を送る。

少年は、その送りを胸に残さず、

角を曲がり、

振り返らず、

今日という夕方を、

静かに夜へと渡していった。

第百七十五章 灯の手放し口──影が「言わない別れ」を夜に置いた夜

 夜、少年は別れを言わなかった。

 言えば、形になる。

 形になれば、覚えられる。

 覚えられれば、戻り道ができる。

 戻り道ができると、夜は引き返す。

 だから言わない。

 口を開けたまま、

 言葉を通さずに閉じる。

 別れは、

 言わないまま置く。

 それが第百七十五章の芯だった。

 灯は戻らない。

 持ち越し影は軽く送られ、

 通し音は途切れず、

 残り火は触れない距離にある。

 その積み重ねの上に、

 夜は「手放し口」を置く。

 手放し口とは、

 言い切らないための出口だ。

 告げず、

 誓わず、

 ただ通る。

 少年は、その出口の幅を、

 喉の乾きで測った。

 ——言わなくて、

 ——いいよ。

 ——口は、

 ——通せば。

 節子の声が、背骨の奥でそう言った気がした。

 少年は、その声を確かめなかった。

 確かめると、

 最後の言葉を探したくなる。

 今夜は、探さない。

 

  • ■影の道で「背中に声を投げない」

 影の道を歩くと、

 背中が遠ざかる。

 声を投げれば、

 振り向く。

 振り向けば、

 間が閉じる。

 少年は、

 声を投げなかった。

 歩幅を合わせもしない。

 ただ、

 同じ方向へ進む。

 進めば、

 影は先へ伸びる。

 少女が言った。

「呼ばないの?」

「手放し口」

「うん。

 言わないと、

 絡まないね」

 少年は頷いた。

 絡まない夜は、

 息を浅くしない。

 

  • ■黒板の字が「別」で止まり、「離」は書かれない

 夜の自習室に入ると、

 黒板には一字だけ書かれていた。

 ■別

 離別の「離」はない。

 教員は短く言った。

「今日は、別れの話をする」

 生徒たちは、

 挨拶の話だと思って姿勢を正した。

「戦争は、

 別れを叫ばせた。

 出征、

 動員」

 少年は、

 叫ばされた別れが

 どれほど多くの言葉を空にしたかを思い出した。

「生活の別れは、

 言わない」

 教員は続けた。

「言わないと、

 戻らない」

 黒板の字はそれ以上増えない。

 別れを説明しすぎると、

 儀式になる。

 少年は紙に短く書いた。

 ——通過

 それは、

 終止符ではない。

 

  • ■炊き出しの列で「締めの言葉を置かない」

 夜の炊き出しで、

 鍋が片づけられる。

 締めの一言があれば、

 場は閉じる。

 だが少年は、

 置かなかった。

 人は、

 自然に散る。

 青年が短く言う。

 「気をつけて」

 それだけで、

 夜は続く。

 少女が言った。

「終わらないね」

「手放し口」

「うん。

 通すと、

 残らないね」

 少年は椀を伏せ、

 影の端へ移った。

 端は、

 言葉が溜まらない。

 

  • ■釜戸の前で「口を拭かない」

 家に戻ると、

 少年は口を拭かなかった。

 拭けば、

 食事は終わる。

 終われば、

 次が始まる。

 少年は、

 拭かずに座った。

 味は、

 ゆっくり消える。

 少女が言った。

「だらしない?」

「通過」

「うん。

 通ると、

 切れないね」

 少年は頷いた。

 切れない夜は、

 夢を追わない。

 

  • ■影の輪で「別れを中央に置かない」

 夜、影の輪へ向かうと、

 輪は静かで、

人はそれぞれの帰路を選んでいた。

中心の空席は空席のまま。

今日はそこに、

別れを置かない。

別れを置くと、

言葉が要る。

言葉は、

夜を切る。

 少女が輪の外で言った。

「節子、今日はね…… 
言わなかったよ」 

 少年は頷いた。

言わないことで、

口は出口になる。

——通って、 
——行こう。 

 節子の声が夜の空気に溶けてそう言った気がした。

少年は、その声を追わなかった。

追わないことで、

声は風になる。

風は、

戻らない。

 輪の縁に腰を下ろし、

背中を影に預ける。

だが寄りかからない。

手放し口は、

支えではなく、

通路だ。

言わず、

残さず、

ただ通っていくための通路。

 焼け跡の夜は、

別れを言わせない。

代わりに、

言わない別れを置く。

少年は、その置かれた出口を静かに通り、

振り返らず、

名づけず、

今日という夜を、

次の闇へと渡していった。

(第百七十六章につづく)

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

コメント

コメントする

目次