第百六十八章 灯の間置き──影が「置いたまま動かない時間」を朝に残した朝
朝、少年は時間を片づけなかった。
昨日の続きが、机の端に残っている。
紙切れ、
冷えた器、
読みかけの文字。
片づければ、朝は整う。
整えば、始まりがはっきりする。
はっきりすれば、進まなければならなくなる。
だから片づけない。
間を置く。
始まりと始まりのあいだに、
触れない時間を置く。
それが第百六十八章の芯だった。
灯は戻らない。
引き算は静かに終わり、
置き名は声にならず、
渡し余白は手のひらを空けている。
その積み重ねの上に、
朝は「間置き」を置く。
間置きとは、
何かを始めないという選択だ。
怠けではない。
拒否でもない。
ただ、今を動かさないという判断。
少年は、その判断を、
湯気の立たない湯飲みの温度で測った。
——今は、
——置いていいよ。
——動かさなくても、
——朝は来る。
節子の声が、背骨の奥でそう言った気がした。
少年は、その声を確かめなかった。
確かめると、
何を置き、何を動かすかを決めたくなる。
今日は、決めない。
- ■影の道で「立ち止まる理由を作らない」
影の道を歩くと、
角のところで人の流れが変わる。
止まる人、
曲がる人、
振り返る人。
理由を探せば、
動きは説明になる。
少年は、
立ち止まらなかった。
だが歩調も変えなかった。
ただ通る。
通ることで、
間は足元に残る。
少女が言った。
「考えないの?」
「間置き」
「うん。
考えないと、
軽いね」
少年は頷いた。
軽い朝は、
肩を固くしない。
- ■黒板の字が「間」で止まり、「始」は書かれない
教室に入ると、
朝の光が黒板に薄く反射し、
一字だけが書かれていた。
■間
始まりの「始」はない。
教員は短く言った。
「今日は、置き方の話をする」
生徒たちは、
準備の話だと思って鉛筆を取った。
「戦争は、
始まりを急がせた」
少年は、
始まったまま終わらなかった多くのことを思い出した。
「生活は、
間を置く」
教員は続けた。
「間があると、
戻らなくていい」
黒板の字はそれ以上増えない。
始め方を教えると、
手順になる。
少年は紙に短く書いた。
——未動
それは、
止まっているのではない。
- ■炊き出しの列で「急がせない」
朝の炊き出しで、
列が少し詰まる。
声を出せば、
流れは動く。
だが少年は、
声を出さなかった。
一拍、
二拍。
それだけで、
人は自分の位置を直す。
青年が短く言う。
「大丈夫」
それで、
朝は進む。
少女が言った。
「遅れない?」
「間置き」
「うん。
間があると、
乱れないね」
少年は椀を受け取り、
影の端へ移った。
端は、
急ぎが消える。
- ■釜戸の前で「火を点けない朝」
家に戻ると、
少年は釜戸の前に座った。
灰は冷えている。
火を点ければ、
朝は始まる。
だが今日は、
点けない。
火を点けない朝も、
朝だ。
少女が言った。
「寒い?」
「置いてる」
「うん。
置いてると、
静かだね」
少年は頷いた。
静かな朝は、
昼を急がせない。
- ■影の輪で「始まりを中央に置かない」
朝、影の輪へ向かうと、
輪は薄く、
人はそれぞれの方向を向いていた。
中心の空席は空席のまま。
今日はそこに、
始まりを置かない。
始まりを置くと、
合図が要る。
合図は、
人を揃える。
少女が輪の外で言った。
「節子、今日はね……
何も、
始めなかったよ」
少年は頷いた。
始めないことで、
時間は角を持たない。
——それで、
——いい朝だよ。
節子の声が朝の空気に溶けてそう言った気がした。
少年は、その声を追わなかった。
追わないことで、
声は間になる。
間は、
消えない。
輪の縁に腰を下ろし、
背中を影に預ける。
だが寄りかからない。
間置きは、
支えではなく、
保留だ。
動かさないことで、
壊さないための保留。
焼け跡の朝は、
始まりを急がせない。
代わりに、
置いたままの時間を残す。
少年は、その時間のそばに立ち、
手を出さず、
声を出さず、
それでも確かに朝であることを、
静かに受け取っていた。
第百六十九章 灯の間渡し──影が「渡し切らない時間」を昼へ置いた昼

昼、少年は時間を渡し切らなかった。
渡せば、終わる。
終われば、次が始まる。
次が始まれば、区切りが立つ。
区切りが立つと、評価が生まれる。
評価が生まれると、昼は硬くなる。
だから渡し切らない。
間を残す。
手から手へ移る途中で、
いったん置く。
それが第百六十九章の芯だった。
灯は戻らない。
引き算は残らず、
置き名は呼ばれず、
渡し余白は手を空けたまま。
その積み重ねの上に、
昼は「間渡し」を置く。
間渡しとは、
完了の手前で留めることだ。
未完ではない。
未完を責めないための留めだ。
少年は、その留めを、
影が足先で止まる距離で測った。
——全部、
——渡さなくていいよ。
——途中に、
——置けば。
節子の声が、背骨の奥でそう言った気がした。
少年は、その声を確かめなかった。
確かめると、
どこまでが「全部」かを決めたくなる。
今日は、決めない。
- ■影の道で「立ち止まりきらない」
影の道を歩くと、
角のところで影が短くなる。
立ち止まれば、
影は足元に固まる。
固まれば、
理由が要る。
理由が要れば、
説明が始まる。
少年は、
一拍だけ歩幅を緩め、
また進んだ。
止まらない。
だが通り過ぎもしない。
その中間に、
影は伸びる。
少女が言った。
「止まらないの?」
「間渡し」
「うん。
間だと、
急がないね」
少年は頷いた。
急がない昼は、
音を増やさない。
- ■黒板の字が「間」で止まり、「了」は書かれない
教室に入ると、
昼の光が机に四角い影を作り、
黒板には一字だけ書かれていた。
■間
完了の「了」はない。
教員は短く言った。
「今日は、時間の話をする」
生徒たちは、
予定の話だと思ってノートを開いた。
「戦争は、
完了を急いだ。
作戦、
勝敗」
少年は、
急がれた完了が
どれほど多くの間を潰したかを思い出した。
「生活は、
間を渡す」
教員は続けた。
「間があると、
戻れる」
黒板の字はそれ以上増えない。
時間割を説明しすぎると、
命令になる。
少年は紙に短く書いた。
——途中
それは、
逃げではない。
- ■炊き出しの列で「順番を固定しない」
昼の炊き出しで、
列は伸びたり縮んだりする。
番号を振れば、
公平になる。
だが番号は、
人を固定する。
少年は、
一つ前に出たり、
一つ後ろに下がったりした。
誰かが来れば、
譲る。
譲った分は、
間に置く。
青年が短く言う。
「どうぞ」
それで、
流れは続く。
少女が言った。
「損しない?」
「間渡し」
「うん。
間だと、
損得じゃないね」
少年は椀を受け取り、
影の端へ移った。
端は、
順番が柔らかい。
- ■釜戸の前で「火を渡し切らない」
家に戻ると、
少年は火を起こした。
だが強くしない。
鍋が温まる手前で、
薪を足さない。
温まり切らない火は、
触れない距離を保つ。
少女が言った。
「ぬるい?」
「間」
「うん。
間だと、
待てるね」
少年は頷いた。
待てる昼は、
午後を壊さない。
- ■影の輪で「完了を中央に置かない」
昼、影の輪へ向かうと、
輪は薄く、
人は話しながら離れていった。
中心の空席は空席のまま。
今日はそこに、
完了を置かない。
完了を置くと、
拍手か反省が要る。
どちらも、
昼を硬くする。
少女が輪の外で言った。
「節子、今日はね……
全部、
渡さなかったよ」
少年は頷いた。
渡さないことで、
時間は手元に残る。
——途中で、
——いい。
節子の声が昼の空気に溶けてそう言った気がした。
少年は、その声を追わなかった。
追わないことで、
声は間になる。
間は、
触れなくていい。
輪の縁に腰を下ろし、
背中を影に預ける。
だが寄りかからない。
間渡しは、
支えではなく、
余熱だ。
次へ進む前に、
冷えすぎないための余熱。
焼け跡の昼は、
完了を急がせない。
代わりに、
渡し切らない時間を残す。
少年は、その時間を掌に置き、
閉じず、
固めず、
今日という昼を、
午後へと静かに手渡していった。
(第百七十章につづく)

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