佐藤愛子を模倣し、野坂昭如の「火垂るの墓」時代を題材にした完全オリジナル長編小説『灰の味――或る少年の季節』第百六十六章・第百六十七章

目次

第百六十六章 灯の置き名──影が「呼ばない呼称」を夜に残した夜

 夜、少年は名を呼ばなかった。

 呼べば、返事が来る。

 返事が来れば、関係が確定する。

 確定すれば、役割が生まれる。

 役割が生まれると、守る線が引かれる。

 線が引かれると、夜は狭くなる。

 だから呼ばない。

 名を置く。

 声にせず、机の端に置く。

 それが第百六十六章の芯だった。

 灯は戻らない。

 渡し余白は手に残り、

 置き影は並び、

 置き息は胸に留まる。

 その積み重ねの上に、

 夜は「置き名」を置く。

 置き名とは、

 呼びかけの代わりに残された呼称だ。

 届かなくても責めず、

 返らなくても崩れない。

 少年は、その名の重さを、

 声帯の奥で量った。

 ——呼ばなくて、

 ——いいよ。

 ——そこに、

 ——あれば。

 節子の声が、背骨の奥でそう言った気がした。

 少年は、その声を確かめなかった。

 確かめると、

 どの名が正しいかを選びたくなる。

 今夜は、選ばない。

 

  • ■影の道で「呼び止めない」

 影の道を歩くと、

 前を行く背中が見える。

 呼び止めれば、

 振り向く。

 振り向けば、

 理由が要る。

 理由が要ると、

 説明が始まる。

 少年は、

 呼び止めなかった。

 歩幅を揃えもしない。

 ただ同じ方向に、

 同じ地面を踏む。

 少女が言った。

「声、掛けないの?」

「置き名」

「うん。

 置いてると、

 絡まないね」

 少年は頷いた。

 絡まない夜は、

 言葉を尖らせない。

 

  • ■黒板の字が「名」で止まり、「称」は書かれない

 夜の自習室に入ると、

 黒板には一字だけ書かれていた。

 ■名

 称号の「称」はない。

 教員は短く言った。

「今日は、名の話をする」

 生徒たちは、

 自己紹介の話だと思って姿勢を正した。

「戦争は、

 名で集めた。

 国、

 隊、

 敵」

 少年は、

 名が集団を作り、

 集団が刃を持った日のことを思い出した。

「生活の名は、

 置く」

 教員は続けた。

「置くと、

 呼ばなくて済む」

 黒板の字はそれ以上増えない。

 名を説明しすぎると、

 名札になる。

 少年は紙に短く書いた。

 ——呼称

 それは、

 呼ばない名だ。

 

  • ■炊き出しの列で「名を確かめない」

 夜の炊き出しで、

 配る人が名簿を閉じた。

 名を呼べば、

 秩序ができる。

 だが今夜は、

 呼ばない。

 手が伸びたら、

 渡す。

 それだけだ。

 青年は、

 視線で合図する。

 少年は、

 頷くだけ。

 少女が言った。

「名前、聞かれないね」

「置き名」

「うん。

 置いてると、

 軽いね」

 少年は椀を受け取り、

 影の端へ移った。

 端は、

 名が絡まない。

 

  • ■釜戸の前で「名札を外す」

 家に戻ると、

 少年は道具の札を外した。

 用途を書いた札。

 外せば、

 迷う。

 だが迷いは、

 急がせない。

 少女が言った。

「どれ使うの?」

「置き名」

「うん。

 置き名だと、

 決めつけないね」

 少年は頷いた。

 決めつけない夜は、

 壊れにくい。

 

  • ■影の輪で「名を中央に置かない」

 夜、影の輪へ向かうと、

 輪は静かで、

人は低い声で話していた。

中心の空席は空席のまま。

今日はそこに、

名を置かない。

名を置くと、

代表が生まれる。

代表は、

夜を重くする。

 少女が輪の外で言った。

「節子、今日はね…… 
名を、 
呼ばなかったよ」 

少年は頷いた。

呼ばないことで、

声は風になる。

——それで、 
——通ろう。 

 節子の声が夜の空気に溶けてそう言った気がした。

少年は、その声を追わなかった。

追わないことで、

声は名になる。

名は、

呼ばれなくてもそこにある。

 輪の縁に腰を下ろし、

背中を影に預ける。

だが寄りかからない。

置き名は、

支えではなく、

距離だ。

呼ばず、

縛らず、

ただ存在を許す距離。

 焼け跡の夜は、

名を叫ばせない。

代わりに、

呼ばない呼称を残す。

少年は、その呼称を胸に置き、

声を立てず、

それでも孤立せず、

今日という夜を、

静かに渡っていった。

第百六十七章 灯の引き算──影が「残さない整え」を朝に手渡した朝

 朝、少年は足し算をしなかった。

 増やせば、整う。

 整えば、安心が来る。

 安心が来れば、次を欲しがる。

 次を欲しがれば、朝は騒がしくなる。

 だから足さない。

 引く。

 目に入るものを一つ、

 手元の動作を一つ、

 思い込みを一つ。

 引いて、残らせない。

 それが第百六十七章の芯だった。

 灯は戻らない。

 置き名は声にされず、

 渡し余白は手を空け、

 置き影は並んだまま。

 その積み重ねの上に、

 朝は「引き算」を置く。

 引き算とは、欠くことではない。

 揃えないための整えだ。

 少年は、その整えを、

 袖口の軽さで確かめた。

 ——増やさなくて、

 ——いいよ。

 ——引けば、

 ——通るから。

 節子の声が、背骨の奥でそう言った気がした。

 少年は、その声を確かめなかった。

 確かめると、

 何を残すかを決めたくなる。

 今日は、決めない。

 

  • ■影の道で「数えない」

 影の道には、

 踏み跡がいくつもある。

 数えれば、

 よく通る道が分かる。

 分かれば、

 正しさが生まれる。

 正しさは、

 人を集める。

 少年は、

 数えなかった。

 一つ踏み、

 一つ避け、

 それだけだ。

 残らない数え方は、

 道を固めない。

 少女が言った。

「迷わない?」

「引き算」

「うん。

 引いてると、

 静かだね」

 少年は頷いた。

 静かな朝は、

 耳を疲れさせない。

 

  • ■黒板の字が「引」で止まり、「足」は書かれない

 教室に入ると、

 朝の光が机に細い線を引き、

 黒板には一字だけ書かれていた。

 ■引

 足すの「足」はない。

 教員は短く言った。

「今日は、整えの話をする」

 生徒たちは、

 片付けの話だと思って前を向いた。

「戦争は、

 足した。

 旗、

 数、

 理由」

 少年は、

 足された理由が

 どれほど人を縛ったかを思い出した。

「生活は、

 引く」

 教員は続けた。

「引くと、

 残らない」

 黒板の字はそれ以上増えない。

 整え方を教えると、

 規格になる。

 少年は紙に短く書いた。

 ——余

 それは、

 残さない余りだ。

 

  • ■炊き出しの列で「一言減らす」

 朝の炊き出しで、

 挨拶が重なりそうになる。

 少年は、

 一言減らした。

 頷くだけ。

 それで、

 流れは続く。

 減らした言葉は、

 失礼にならない。

 青年は、

 同じように頷いた。

 言葉は、

 そこで止まる。

 少女が言った。

「冷たい?」

「引いてる」

「うん。

 引いてると、

 尖らないね」

 少年は椀を受け取り、

 影の端へ移った。

 端は、

 言葉が余らない。

 

  • ■釜戸の前で「道具を一つしまう」

 家に戻ると、

 少年は道具を一つしまった。

 使える。

 だが使わない。

 使わなければ、

 音が減る。

 音が減れば、

 朝は長くなる。

 少女が言った。

「足りる?」

「引き算」

「うん。

 引いてると、

 見えるね」

 少年は頷いた。

 見える朝は、

 慌てない。

 

  • ■影の輪で「整えを中央に置かない」

 朝、影の輪へ向かうと、

 輪は薄く、

人は自然に動いていた。

中心の空席は空席のまま。

今日はそこに、

整えを置かない。

整えを置くと、

基準が生まれる。

基準は、

比べさせる。

 少女が輪の外で言った。

「節子、今日はね…… 
引いたよ」 

少年は頷いた。

引くことで、

比べる必要がなくなる。

——それで、 
——進める。 

 節子の声が朝の空気に溶けてそう言った気がした。

少年は、その声を追わなかった。

追わないことで、

声は動作になる。

動作は、

説明を要らない。

 輪の縁に腰を下ろし、

背中を影に預ける。

だが寄りかからない。

引き算は、

支えではなく、

整えだ。

残さず、

増やさず、

ただ通すための整え。

 焼け跡の朝は、

足し算を急がせない。

代わりに、

残さない整えを残す。

少年は、その整えの中で、

音を減らし、

数を減らし、

今日という時間を、

軽く、

しかし確かに、

歩き出していった。

(第百六十八章につづく)

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