第百六十二章 灯の余白灯──影が「点けない明るさ」を夜に預けた夜
夜、少年は灯りを点けなかった。
暗い。
だが闇ではない。
窓の隙から月の白が入り、
遠くの家の気配が壁に薄く映る。
点ければ、はっきりする。
はっきりすれば、選択が増える。
選択が増えると、
使い切らねばならなくなる。
使い切ると、夜は短くなる。
だから点けない。
余白の明るさに任せる。
それが第百六十二章の芯だった。
灯は戻らない。
置き石は動かされず、
見送り窓は閉められず、
返し縫いはほどかれない。
その積み重ねの上に、
夜は「余白灯」を置く。
余白灯とは、
明るさの代用品ではない。
暗さを否定しない明るさだ。
少年は、その明るさを、
まぶたの裏で受け止めた。
——見えなくて、
——いいよ。
——分かるまで、
——待てば。
節子の声が、背骨の奥でそう言った気がした。
少年は、その声を確かめなかった。
確かめると、
輪郭を描きたくなる。
今夜は、描かない。
- ■影の道で「街灯を頼らない」
影の道には、
壊れた街灯が立っている。
点けば、
道は安全に見える。
だが少年は、
街灯の下に立たなかった。
立つと、
影が濃くなる。
濃くなると、
恐れが形を持つ。
少年は、
月の位置だけを見て歩いた。
月は、
道を照らさない。
だが方角は教える。
少女が言った。
「暗くない?」
「余白」
「うん。
余白だと、
怖くならないね」
少年は頷いた。
怖くならない夜は、
足を早めない。
- ■黒板の字が「灯」で止まり、「照」は書かれない
夜の自習室に入ると、
黒板には一字だけ書かれていた。
■灯
照らすの「照」はない。
教員は短く言った。
「今日は、灯りの話をする」
生徒たちは、
安全の話だと思って背筋を伸ばした。
「戦争は、
照らした。
敵を、
夜を」
少年は、
照らされた夜が
どれほど逃げ場を失ったかを思い出した。
「生活は、
灯を残す」
教員は続けた。
「灯は、
点けなくてもある」
黒板の字はそれ以上増えない。
灯りを説明しすぎると、
管理になる。
少年は紙に短く書いた。
——残光
それは、
消しきれない時間だ。
- ■炊き出しの列で「影を見ない」
夜の炊き出しで、
人の影が揺れる。
影を見れば、
人数が分かる。
分かれば、
足りるかどうかが気になる。
少年は、
湯気だけを見た。
湯気は、
形を持たない。
持たないから、
数えられない。
青年が短く言う。
「大丈夫」
それで、
夜は進む。
少女が言った。
「見ないの?」
「余白灯」
「うん。
余白だと、
足りるね」
少年は椀を受け取り、
影の端へ移った。
端は、
影が重ならない。
- ■釜戸の前で「炎を起こさない」
家に戻ると、
少年は釜戸の前に座った。
灰は冷え、
余熱は薄い。
ここで火を起こせば、
夜は温まる。
だが温まりすぎると、
眠りは浅くなる。
少年は、
火を起こさず、
灰の色を見た。
灰の白は、
暗さの中で浮く。
少女が言った。
「寒い?」
「灯」
「うん。
灯だと、
待てるね」
少年は頷いた。
待てる夜は、
夢を急がせない。
- ■影の輪で「明るさを中央に置かない」
夜、影の輪へ向かうと、
輪はほどけ、
人は低い声で話していた。
中心の空席は空席のまま。
今日はそこに、
明るさを置かない。
明るさを置くと、
正しさが集まる。
正しさは、
夜を裁く。
少女が輪の外で言った。
「節子、今日はね……
灯りを、
点けなかったよ」
少年は頷いた。
点けないことで、
闇は敵にならない。
——それで、
——休もう。
節子の声が夜の空気に溶けてそう言った気がした。
少年は、その声を追わなかった。
追わないことで、
声は残光になる。
残光は、
目を閉じても消えない。
輪の縁に腰を下ろし、
背中を影に預ける。
だが寄りかからない。
余白灯は、
支えではなく、
許しだ。
「見えなくても、
進んでいい」という、
静かな許し。
焼け跡の夜は、
明るさを強要しない。
代わりに、
点けない明るさを残す。
少年は、その明るさの中で、
目を閉じ、
今日という一日を、
切らずに、
夜へ溶かしていった。
第百六十三章 灯の置き息──影が「吸い切らない呼吸」を朝に渡した朝

朝、少年は深呼吸をしなかった。
吸えば、胸は満ちる。
満ちれば、吐き切りたくなる。
吐き切れば、空白ができる。
空白は、すぐに何かを求める。
求めると、朝は忙しくなる。
だから吸い切らない。
浅く、置く。
息を置く。
それが第百六十三章の芯だった。
灯は戻らない。
余白灯は点けられず、
置き石は動かされず、
見送り窓は閉められない。
その積み重ねの上に、
朝は「置き息」を置く。
置き息とは、
吸うためでも吐くためでもない呼吸だ。
間に置かれ、
体を急がせない。
少年は、その呼吸を、
胸骨のあたりで感じ取った。
——いっぱい、
——吸わなくていいよ。
——置いとけば、
——通るから。
節子の声が、背骨の奥でそう言った気がした。
少年は、その声を確かめなかった。
確かめると、
正しい呼吸を探したくなる。
今日は、探さない。
- ■影の道で「息を合わせない」
影の道を歩くと、
人の歩みに合わせて
息が揃いそうになる。
揃えば、列になる。
列になれば、
速さが決まる。
少年は、
一歩ごとに息を変えた。
吸ったまま歩く。
吐きながら止まる。
規則ではない。
その都度、
体に任せる。
少女が言った。
「苦しくない?」
「置いてる」
「うん。
置いてると、
急がないね」
少年は頷いた。
急がない朝は、
言葉を荒らさない。
- ■黒板の字が「息」で止まり、「呼」は書かれない
教室に入ると、
朝の光が机の角に触れ、
黒板には一字だけ書かれていた。
■息
呼吸の「呼」はない。
教員は短く言った。
「今日は、息の話をする」
生徒たちは、
健康の話だと思って姿勢を正した。
「戦争は、
息を揃えさせた。
号令で」
少年は、
揃えさせられた息が
どれほど個々を消したかを思い出した。
「生活は、
息を置く」
教員は続けた。
「置くと、
間が生まれる」
黒板の字はそれ以上増えない。
呼吸法を教えると、
競争になる。
少年は紙に短く書いた。
——間
それは、
体の余白だ。
- ■炊き出しの列で「息を詰めない」
朝の炊き出しで、
鍋の前に人が集まる。
人が集まると、
息が詰まりやすい。
少年は、
一歩下がり、
胸を開けた。
開けるが、
大きく吸わない。
青年が短く言う。
「どうぞ」
それで、
流れは続く。
少女が言った。
「待てる?」
「置き息」
「うん。
置き息だと、
押さないね」
少年は椀を受け取り、
影の端へ移った。
端は、
息が通る。
- ■釜戸の前で「息を吹き込まない」
家に戻ると、
少年は釜戸の前に座った。
灰は静かだ。
息を吹き込めば、
火は起きる。
だが起こさない。
吹き込まない。
灰は、
灰のまま置く。
少女が言った。
「寒い?」
「置いてる」
「うん。
置いてると、
待てるね」
少年は頷いた。
待てる朝は、
昼を焦らせない。
- ■影の輪で「呼吸を中央に置かない」
朝、影の輪へ向かうと、
輪は点々と続き、
人は出たり入ったりしていた。
中心の空席は空席のまま。
今日はそこに、
呼吸を置かない。
呼吸を置くと、
合わせが始まる。
合わせは、
個を削る。
少女が輪の外で言った。
「節子、今日はね……
息を、
置いたよ」
少年は頷いた。
置くことで、
吸いすぎも吐きすぎもしない。
——そのまま、
——歩こう。
節子の声が朝の空気に溶けてそう言った気がした。
少年は、その声を追わなかった。
追わないことで、
声は呼吸になる。
呼吸は、
数えなくていい。
輪の縁に腰を下ろし、
背中を影に預ける。
だが寄りかからない。
置き息は、
支えではなく、
余地だ。
体が先へ行く前に、
心が遅れないための余地。
焼け跡の朝は、
深さを競わせない。
代わりに、
吸い切らない呼吸を残す。
少年は、その呼吸を胸に置き、
今日という一日を、
詰めず、
切らず、
静かに始めていた。
(第百六十四章につづく)

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