第百六十章 灯の見送り窓──影が「閉めない視線」を朝へ残した朝
朝、少年は窓を閉めなかった。
風が入る。
埃も入る。
鳥の声も、遠い足音も入る。
閉めれば、静かになる。
静かになれば、整う。
整えば、安心が来る。
だが安心は、外を忘れさせる。
忘れさせると、また同じところでつまずく。
だから閉めない。
少しだけ開ける。
見送りの幅を残す。
それが第百六十章の芯だった。
灯は戻らない。
返し縫いはほどかれず、
仮止めは外されず、
乾き縁は濡らされない。
その積み重ねの上に、
朝は「見送り窓」を置く。
見送り窓は、送り出すための穴だ。
出ていくものを追わないための開き。
少年は、その開きの大きさを、
手の甲に当たる風で測った。
——見送るだけで、
——いいよ。
——追わなくて、
——閉めなくて。
節子の声が、背骨の奥でそう言った気がした。
少年は、その声を確かめなかった。
確かめると、
別れの言葉を探したくなる。
今日は、探さない。
- ■影の道で「振り返らない」
影の道を歩くと、
背後で誰かが立ち止まった気配がする。
振り返れば、
視線が絡む。
絡めば、
理由が生まれる。
理由が生まれれば、
引き止めが始まる。
少年は、
歩幅を変えずに進んだ。
進むことは、拒絶ではない。
見送りだ。
少女が言った。
「行っちゃう?」
「見送る」
「うん。
見送ると、
絡まないね」
少年は頷いた。
絡まない朝は、
息が深い。
- ■黒板の字が「窓」で止まり、「扉」は書かれない
教室に入ると、
朝の光が床に帯を作り、
黒板には一字だけ書かれていた。
■窓
扉の「扉」はない。
教員は短く言った。
「今日は、見る話をする」
生徒たちは、
知る話だと思って身構えた。
「戦争は、
扉を閉めた。
外を見るな、と」
少年は、
閉められた扉の内側で
音だけが大きくなった日々を思い出した。
「生活は、
窓を残す」
教員は続けた。
「窓があると、
追わずに済む」
黒板の字はそれ以上増えない。
見ることを説明しすぎると、
監視になる。
少年は紙に短く書いた。
——幅
それは、
距離のやさしい名前だ。
- ■炊き出しの列で「声を掛けない」
朝の炊き出しで、
列を離れる人がいた。
声を掛ければ、
戻るかもしれない。
だが少年は、
声を掛けなかった。
掛けないことで、
人は自分の歩幅を保つ。
青年は、
軽く会釈した。
それで十分だ。
少女が言った。
「止めないの?」
「見送り」
「うん。
見送ると、
列が荒れないね」
少年は椀を受け取り、
影の端へ移った。
端は、
視線が交差しない。
- ■釜戸の前で「蓋を半分開ける」
家に戻ると、
少年は釜戸の蓋を半分だけ開けた。
完全に閉めない。
完全に開けない。
湯気が細く逃げる。
匂いが残る。
だが溢れない。
少女が言った。
「冷めない?」
「窓」
「うん。
窓だと、
行き来できるね」
少年は頷いた。
行き来できる朝は、
一日を固めない。
- ■影の輪で「別れを中央に置かない」
朝、影の輪へ向かうと、
輪は薄く、
人は自然に入れ替わっていた。
中心の空席は空席のまま。
今日はそこに、
別れを置かない。
別れを置くと、
拍手か涙が要る。
どちらも、
朝を重くする。
少女が輪の外で言った。
「節子、今日はね……
窓を、
閉めなかったよ」
少年は頷いた。
閉めないことで、
行くものは行き、
残るものは残る。
——それで、
——いいよ。
節子の声が朝の空気に溶けてそう言った気がした。
少年は、その声を追わなかった。
追わないことで、
声は風になる。
風は、
誰も縛らない。
輪の縁に腰を下ろし、
背中を影に預ける。
だが寄りかからない。
見送り窓は、
支えではなく、
視線だ。
追わず、
閉めず、
ただ、そこにある視線。
焼け跡の朝は、
別れを演出しない。
代わりに、
閉めない窓を残す。
少年は、その窓辺に立ち、
出ていくものを追わず、
戻るものを責めず、
今日という時間を、
静かに迎え入れていた。
第百六十一章 灯の置き石──影が「動かさない目印」を昼に残した昼

昼、少年は石を動かさなかった。
道の脇に、掌ほどの平たい石が置かれている。
誰かが置いたのか、
崩れの拍子で止まったのか、
分からない。
だがそこにある。
動かせば、通りは少し広くなる。
広くなれば、歩きやすくなる。
歩きやすくなると、
人は急ぐ。
急ぐと、目印は消える。
消えると、戻る場所がなくなる。
だから動かさない。
置き石として残す。
それが第百六十一章の芯だった。
灯は戻らない。
見送り窓は閉められず、
返し縫いはほどかれず、
仮止めは仮のまま。
その積み重ねの上に、
昼は「置き石」を置く。
置き石は、進行を妨げるためではない。
速さを測り直すための重りだ。
少年は、その重りを、
足の裏で確かめた。
——目印は、
——動かさなくていいよ。
——通り過ぎるとき、
——触れれば。
節子の声が、背骨の奥でそう言った気がした。
少年は、その声を確かめなかった。
確かめると、
正しい位置を決めたくなる。
今日は、決めない。
- ■影の道で「石を避けすぎない」
影の道を歩くと、
石は幾つも転がっている。
蹴れば、端に寄る。
端に寄せれば、
通路は滑らかになる。
だが少年は、
蹴らなかった。
踏まない。
避けすぎない。
跨ぐ。
跨ぐと、
足は一瞬止まる。
止まるが、
止まりきらない。
その間が、
昼の厚みになる。
少女が言った。
「邪魔じゃない?」
「目印」
「うん。
目印だと、
迷わないね」
少年は頷いた。
迷わない昼は、
声を荒らさない。
- ■黒板の字が「石」で止まり、「路」は書かれない
教室に入ると、
昼の光が机に斑を作り、
黒板には一字だけ書かれていた。
■石
道路の「路」はない。
教員は短く言った。
「今日は、目印の話をする」
生徒たちは、
地図の話だと思って顔を上げた。
だが教員は、
線を引かなかった。
「戦争は、
道をまっすぐにした。
速さのために」
少年は、
まっすぐな道が
どれほど戻りにくかったかを思い出した。
「生活は、
石を残す」
教員は続けた。
「石があると、
歩幅が戻る」
黒板の字はそれ以上増えない。
目印を説明しすぎると、
指示になる。
少年は紙に短く書いた。
——重り
それは、
足を地面に返す言葉だ。
- ■炊き出しの列で「位置を覚えない」
昼の炊き出しで、
列は少しずつ動く。
少年は、
自分の立ち位置を覚えなかった。
覚えると、
前後が気になる。
気になると、
早さを比べる。
少年は、
足元の石だけを見た。
次に動くとき、
石は変わる。
変わるから、
比較が生まれない。
青年が短く言う。
「次」
それで流れは続く。
少女が言った。
「覚えないの?」
「置き石」
「うん。
置き石だと、
今に戻れるね」
少年は椀を受け取り、
影の端へ移った。
端にも、
石はある。
- ■釜戸の前で「重しを外さない」
家に戻ると、
少年は布の端に石を置いた。
風でめくれないように。
重しは、
固定のためではない。
風を読むためだ。
風が強ければ、
石は動かない。
弱ければ、
布が少し揺れる。
少女が言った。
「縛らないの?」
「石」
「うん。
石だと、
外せるね」
少年は頷いた。
外せる重さは、
夜を呼ばない。
- ■影の輪で「目印を中央に置かない」
昼、影の輪へ向かうと、
輪は薄く、
人は自然に散っていた。
中心の空席は空席のまま。
今日はそこに、
目印を置かない。
置くと、
集まってしまう。
集まると、
意味が生まれる。
少女が輪の外で言った。
「節子、今日はね……
石を、
動かさなかったよ」
少年は頷いた。
動かさないことで、
戻り道は消えない。
——そこに、
——あればいい。
節子の声が昼の空気に溶けてそう言った気がした。
少年は、その声を追わなかった。
追わないことで、
声は目印になる。
目印は、
呼ばない。
輪の縁に腰を下ろし、
背中を影に預ける。
だが寄りかからない。
置き石は、
支えではなく、
合図だ。
「ここを通った」という、
静かな合図。
焼け跡の昼は、
速さを褒めない。
代わりに、
動かさない目印を残す。
少年は、その目印に足を揃え、
急がず、
迷わず、
次の時間へと、
静かに歩みを進めていった。
(第百六十二章につづく)

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