佐藤愛子を模倣し、野坂昭如の「火垂るの墓」時代を題材にした完全オリジナル長編小説『灰の味――或る少年の季節』第百五十二章・第百五十三章

目次

第百五十二章 灯の呼吸孔──影が「塞がない穴」を残した朝

 朝、少年は壁の小さな穴に気づいた。

 瓦礫の陰、崩れた土壁の際に、指一本ほどの穴がある。

 風が、そこを通る。

 通るといっても、強くはない。

 音を立てず、

 匂いだけを運び、

 温度を少しだけ動かす。

 少年は、その穴を塞がなかった。

 塞げば、見た目はよくなる。

 だが塞ぐと、内側の空気は行き場を失う。

 行き場を失った空気は、

 やがて別の弱い場所を探し、

 そこを破る。

 だから塞がない。

 塞がないことで、朝は壊れない。

 それが第百五十二章の芯だった。

 灯は戻らない。

 余熱は残され、

 縁石は流れを許し、

 耳土は混ざりを保つ。

 その積み重ねの上に、

 朝は「呼吸孔」を置く。

 呼吸孔は、欠陥ではない。

 生きるための隙だ。

 少年は、その隙を見て、

 自分の胸にも同じ穴があることを思い出した。

 塞がないほうが、長く保てる。

 ——穴はね、

 ——弱さじゃないよ。

 ——息の出口だよ。

 節子の声が、背骨の奥でそう言った気がした。

 少年は、その声を確かめなかった。

 確かめると、

 正しい大きさを測りたくなる。

 今日は、測らない。

 

  • ■影の道で「隙間風を止めない」

 影の道を歩くと、

 壊れた家々の間を風が抜ける。

 人は、その風を嫌う。

 寒いからだ。

 だが少年は、

 風を止めようとしなかった。

 板を立てかければ、

 一時的に暖かくなる。

 だが一時は、

 必ず終わる。

 少年は、

 風の通り道を横切るとき、

 一歩だけ速めた。

 止めない。

 だが晒しすぎない。

 通過する。

 通過は、

 塞ぐことでも、

 迎え入れることでもない。

 少女が言った。

「寒くない?」

「通ってる」

「うん。

 通ってると、

 腐らないね」

 少年は頷いた。

 腐らない空気は、

 争いを呼ばない。

 

  • ■黒板の字が「孔」で止まり、「塞」は書かれない

 教室に入ると、

 朝の光が床を斜めに切り、

 黒板には一字だけ書かれていた。

 ■孔

 塞ぐの「塞」はない。

 教員は短く言った。

「今日は、穴の話をする」

 生徒たちは、

 失敗の話だと思った顔をした。

 穴は、欠けの象徴だからだ。

「戦争は、

 穴を塞いだ。

 弱点だと言って」

 少年は、

 塞がれた穴の内側で

 息が詰まった日々を思い出した。

「生活の穴は、

 呼吸だ」

 教員は続けた。

「塞がないから、

 中が保つ」

 黒板の字はそれ以上増えない。

 穴を説明しすぎると、

 修理が始まる。

 少年は紙に短く書いた。

 ——息

 その文字は、

 囲まれずに置かれた。

 

  • ■炊き出しの列で「言い切らない」

 朝の炊き出しで、

 一人の大人がぼそりと言った。

 「足りるかな」

 問いとも、不安とも取れる声。

 少年は、

 答えを出さなかった。

 「足りる」と言えば、

 穴を塞ぐ。

 「足りない」と言えば、

 不安を広げる。

 どちらも、

 呼吸を止める言葉だ。

 少年は、

 椀を差し出すだけだった。

 湯気が立つ。

 湯気は、

 答えの代わりになる。

 少女が言った。

「何も言わないね」

「孔」

「うん。

 孔があると、

 息が通るね」

 少年は椀を受け取り、

 列の端へ移った。

 端は、

 風が抜ける。

 

  • ■釜戸の前で「蓋を完全に閉めない」

 家に戻ると、

 少年は釜戸の前に座った。

 鍋には、昨夜の余熱がまだある。

 蓋を閉めれば、

 温度は保てる。

 だが完全には閉めない。

 少しだけ、ずらす。

 蒸気の逃げ道を作る。

 少女が言った。

「もったいない?」

「呼吸孔」

「うん。

 息できると、

 長いね」

 少年は頷いた。

 長い夜明けは、

 焦らない。

 

  • ■影の輪で「欠けを中央に置かない」

 朝、影の輪へ向かうと、

 輪は低く、

 ところどころ隙があった。

中心の空席は空席のまま。

今日はそこに、

完成を置かない。

完成を置くと、

穴は悪になる。

 少女が輪の外で言った。

「節子、今日はね…… 
穴を、 
塞がなかったよ」 

 少年は頷いた。

塞がなかった穴は、

弱点ではない。

風の道だ。

——そのままで、 
——息して。 

 節子の声が朝の空気に溶けてそう言った気がした。

少年は、その声を追わなかった。

追わないことで、

声は空気になる。

空気は、

誰のものでもない。

 輪の縁に腰を下ろし、

背中を影に預ける。

だが寄りかからない。

呼吸孔は、

支えではなく、

通り道だ。

 焼け跡の朝は、

欠けを責めない。

代わりに、

塞がない穴を残す。

少年は、その穴から

今日も息を通し、

争いの前で立ち止まらずに、

一日を歩き出していた。

第百五十三章 灯の余白線──影が「引かない境」を見送った昼

 昼、少年は線を引かなかった。

 地面に棒で引ける線。

 ここから先、こちら側。

 分けるための線。

 引けば分かりやすくなる。

 分かりやすくなると、守りやすくなる。

 守りやすくなると、侵入が生まれる。

 侵入が生まれると、排除が始まる。

 だから引かない。

 線を引かず、余白のまま置く。

 それが第百五十三章の芯だった。

 灯は戻らない。

 呼吸孔は塞がれず、

 余熱は消されず、

 縁石は流れを止めない。

 その積み重ねの上に、

 昼は「余白線」を置いていく。

 余白線とは、

 線の代わりに残された幅だ。

 幅があると、

 踏み越えは衝突にならない。

 少年は、その幅を、

 自分の足幅で確かめた。

 ——線じゃなくて、

 ——間でいいよ。

 節子の声が、背骨の奥でそう言った気がした。

 少年は、その声を確かめなかった。

 確かめると、

 正しい位置を決めたくなる。

 今日は、決めない。

 

  • ■影の道で「境目に立ち止まらない」

 影の道は、昼になると人の往来が増える。

 荷を運ぶ者、

 探す者、

 ただ歩く者。

 少年は、

 交差点のような場所で立ち止まらなかった。

 立ち止まると、

 誰かの進路を塞ぐ。

 塞ぐと、

 理由が要る。

 理由が要ると、

 正当化が始まる。

 少年は、

 一歩、斜めに進んだ。

 真っ直ぐでなくていい。

 斜めは、

 衝突を避ける角度だ。

 少女が言った。

「真ん中、通らないの?」

「線になる」

「うん。

 線になると、

 ぶつかるね」

 少年は頷いた。

 ぶつからない昼は、

 声を荒らさない。

 

  • ■黒板の字が「幅」で止まり、「界」は書かれない

 教室に入ると、

 昼の光が床に広がり、

 黒板には一字だけ書かれていた。

 ■幅

 境界の「界」はない。

 教員は短く言った。

「今日は、幅の話をする」

 生徒たちは、

 距離の話だと思って身構えた。

 だが教員は、

 測り方を教えなかった。

「戦争は、

 線を引いた。

 国境、

 前線」

 少年は、

 引かれた線が

 どれほど多くの足を止めたかを思い出した。

「生活は、

 幅を残す」

 教員は続けた。

「幅があると、

 譲れる」

 黒板の字はそれ以上増えない。

 説明が増えると、

 線に戻る。

 少年は紙に短く書いた。

 ——余地

 それは、

 逃げ場の別名だ。

 

  • ■炊き出しの列で「順番を固定しない」

 昼の炊き出しで、

 列は自然にできた。

 だが誰も、

 順番を声に出さない。

 声に出せば、

 線になる。

 少年は、

 前後を見て、

 一歩だけ下がった。

 下がることで、

 後ろの人が前に出る。

 前に出ても、

 勝った気はしない。

 それが幅の働きだ。

 青年が言った。

「どうぞ」

 それだけで、

 流れは続く。

 少女が言った。

「譲った?」

「幅」

「うん。

 幅があると、

 譲り合いが軽いね」

 少年は椀を受け取り、

 影の端へ移った。

 端は、

 幅が広い。

 

  • ■釜戸の前で「置き場所を決めない」

 家に戻ると、

 少年は道具を床に置いた。

 決まった場所に戻さない。

 戻せば、

 正しい位置が生まれる。

 正しい位置が生まれると、

 間違いが生まれる。

 少年は、

 使った場所の近くに置いた。

 近く。

 それだけだ。

 近くは、

 線にならない。

 少女が言った。

「片づけないの?」

「幅」

「うん。

 幅があると、

 探さないね」

 少年は頷いた。

 探さない夜は、

 眠りを浅くしない。

 

  • ■影の輪で「区切りを作らない」

 昼、影の輪へ向かうと、

 輪は円というより、

 ゆるい形だった。

中心の空席は空席のまま。

今日はそこに、

区切りを置かない。

区切りを置くと、

役割が生まれる。

役割が生まれると、

遅れが責められる。

 少女が輪の外で言った。

「節子、今日はね…… 
線を、 
引かなかったよ」 

 少年は頷いた。

引かないことで、

人は人のまま近づける。

——間で、 
——いいよ。 

 節子の声が昼の空気に溶けてそう言った気がした。

少年は、その声を追わなかった。

追わないことで、

声は幅になる。

幅は、

誰かを締め出さない。

 輪の縁に腰を下ろし、

背中を影に預ける。

だが寄りかからない。

余白線は、

支えではなく、

通過点だ。

 焼け跡の昼は、

境を引かない。

代わりに、

引かないで済む幅を残す。

少年は、その幅の中で、

誰とも争わず、

誰からも追われず、

次の時間へ、

静かに足を運んでいた。

(第百五十四章につづく)

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