第百四十八章 灯の土間──影が「踏み固めない場所」を残した朝
朝、少年は土間に立った。
板の間でも、外でもない。
靴を履くほど遠くなく、
裸足になるほど近くもない。
境目の場所。
土の匂いがして、
足裏が少しだけ沈む。
踏めば跡が残る。
だが踏み固めなければ、
跡はやがて消える。
少年は、踏み固めなかった。
それが第百四十八章の芯だった。
灯は戻らない。
夜露は乾かされず、
薄荷の匂いは散り、
余白は満たされない。
その積み重ねの上に、
朝は「土間」を置く。
土間は、完成しない場所だ。
完成しないから、
誰のものにもなりにくい。
誰のものにもならない場所は、
争いの旗を立てられない。
少年は、その未完成を、
今日の足元に選んだ。
——固めなくて、
——いいよ。
——通れれば、
——それで。
節子の声が、背骨の奥でそう言った気がした。
少年は、その声を確かめなかった。
確かめると、
正しい硬さを測りたくなる。
今日は、測らない。
- ■影の道で「足跡を揃えない」
影の道を歩くと、
昨日の足跡が薄く残っていた。
自分のものか、
誰かのものか、
分からない。
分からないのがいい。
少年は、
同じ場所を踏まなかった。
踏めば、道は硬くなる。
硬くなると、
逸れることが悪になる。
逸れることが悪になると、
遅れが罪になる。
少年は、
少しずつ位置をずらして歩いた。
ずらすことで、
土は呼吸する。
呼吸する土は、
音を荒らさない。
少女が言った。
「道、曲がってる?」
「固めてない」
「うん。
固めないと、
選べるね」
少年は頷いた。
選べる道は、
命令を生まない。
- ■黒板の字が「土」で止まり、「舗」は書かれない
教室に入ると、
朝の光が床に落ち、
黒板には一字だけ書かれていた。
■土
舗装の「舗」はない。
教員は短く言った。
「今日は、足元の話をする」
生徒たちは、
前を見た。
足元の話は、
いつも後回しにされるからだ。
「戦争は、
道を固めた。
列を揃えた」
少年は、
揃えられた足音が
どれほど遠くまで響いたかを思い出した。
「生活は、
土を残す」
教員は続けた。
「土が残ると、
歩みは柔らかくなる」
黒板の字はそれ以上増えない。
説明が増えると、
舗装が始まる。
少年は紙に短く書いた。
——柔らかく
その言葉は、
線の外に置かれた。
- ■炊き出しの列で「立ち位置を固定しない」
朝の炊き出しで、
列ができる。
少年は、
同じ位置に立ち続けなかった。
半歩前へ、
半歩横へ。
微かな移動。
固定しないことで、
肩が触れ合わない。
触れ合わないから、
摩擦が生まれない。
摩擦が生まれないと、
声は荒れない。
青年が言った。
「そこ」
指さしは短い。
短い指示は、
土を踏み固めない。
少女が言った。
「落ち着かない?」
「固まらない」
「うん。
固まらないと、
列が長持ちするね」
少年は椀を受け取り、
影の端へ移った。
端は、
通り道だ。
- ■釜戸の前で「床を磨かない」
家に戻ると、
少年は釜戸の前の土間に座った。
掃けば、
きれいになる。
磨けば、
光る。
だが磨かない。
磨くと、
使い方が決まる。
決まると、
破れが許されない。
少年は、
土のままにした。
土は、
濡れても、
乾いても、
文句を言わない。
少女が言った。
「汚れたまま?」
「土だから」
「うん。
土だと、
戻れるね」
少年は頷いた。
戻れる床は、
人を追い詰めない。
- ■影の輪で「場所を完成させない」
朝、影の輪へ向かうと、
輪は低く、
まだ形を決めていなかった。
中心の空席は空席のまま。
今日はそこに、
完成を置かない。
完成を置くと、
評価が始まる。
評価が始まると、
遅れが生まれる。
少女が輪の外で言った。
「節子、今日はね……
踏み固めなかったよ」
少年は頷いた。
踏み固めないことで、
誰でも通れる。
通れる場所は、
争いの入口にならない。
——土のまま、
——いいよ。
節子の声が朝の湿りに混じってそう言った気がした。
少年は、その声を追わなかった。
追わないことで、
声は足音になる。
足音は、
揃わなくていい。
輪の縁に腰を下ろし、
背中を影に預ける。
だが寄りかからない。
土間は、
支えではなく、
受け止めだ。
焼け跡の朝は、
道を完成させない。
代わりに、
踏み固めない場所を残す。
少年は、その柔らかさの上で、
今日もまた、
誰かの歩みを妨げずに、
一日を始めていた。
第百四十九章 灯の耳土──影が「聞き分けない音」を抱えた昼

昼、少年は耳を澄ましすぎなかった。
澄ませば、音は分かれる。
分かれれば、名が付く。
名が付けば、正誤が生まれる。
正誤が生まれれば、裁きが始まる。
だから澄ましすぎない。
土の匂いが残る耳で、
ただ、そこにある音を受け止める。
それが第百四十九章の芯だった。
灯は戻らない。
土間は踏み固められず、
夜露は乾かされず、
薄荷の涼は散ったままだ。
その積み重ねの上に、
昼は「耳土(みみつち)」を置く。
耳土とは、
聞き分けの前にある湿り気だ。
湿り気があると、
音は刺さらない。
刺さらない音は、
人を急がせない。
少年は、その耳の状態を、
今日の足元に揃えた。
——全部、
——分けなくていいよ。
——混ざって、
——通れば。
節子の声が、背骨の奥でそう言った気がした。
少年は、その声を確かめなかった。
確かめると、
正確に聞き取りたくなる。
今日は、正確にしない。
- ■影の道で「音の出所を探さない」
影の道を歩くと、
金属の擦れる音、
布のはためく音、
どこかで鍋が当たる音が重なった。
少年は、
どこから来た音かを探さなかった。
探せば、
行き先が生まれる。
行き先が生まれれば、
遅れが見える。
遅れが見えれば、
取り戻しが始まる。
少年は歩き続けた。
音は背後に混ざる。
混ざる音は、
追いかけてこない。
少女が言った。
「今の音、
何?」
「混ざってる」
「うん。
混ざってると、
怖くないね」
少年は頷いた。
怖くない音は、
昼を短くしない。
- ■黒板の字が「混」で止まり、「別」は書かれない
教室に入ると、
昼の光が窓際に溜まり、
黒板には一字だけ書かれていた。
■混
別の「別」はない。
教員は短く言った。
「今日は、混ざる話をする」
生徒たちは、
答えを探す目をやめた。
混ざる話に、
答えは向かない。
「戦争は、
音を分けた。
味方の音、
敵の音」
少年は、
分けられた音が
どれほど人を急がせたかを思い出した。
「生活は、
混ざる」
教員は続けた。
「混ざると、
境目は柔らかくなる」
黒板の字はそれ以上増えない。
混ざりを説明しすぎると、
分類が始まる。
少年は紙に短く書いた。
——そのまま
それは投げ出しではない。
受け止めの姿勢だ。
- ■炊き出しの列で「囁きを数えない」
昼の炊き出しで、
列の後ろから小さな囁きが流れた。
不満か、
相談か、
冗談か、
分からない。
少年は、
耳を立てなかった。
立てると、
誰が言ったかを知りたくなる。
知りたくなると、
味方と敵が生まれる。
少年は、
湯気の音だけを聞いた。
湯気は、
誰の声でもない。
青年が言った。
「次」
短い声は、
列を混ぜたまま動かす。
少女が言った。
「聞こえた?」
「混ざった」
「うん。
混ざると、
列が荒れないね」
少年は椀を受け取り、
影の端へ移った。
端は、
音が尖らない場所だ。
- ■釜戸の前で「耳を洗わない」
家に戻ると、
少年は釜戸の前に座った。
音が残っている。
外の金属音、
人の足音、
自分の呼吸。
少年は、
それらを洗い流そうとしなかった。
洗い流すと、
静けさが欲しくなる。
欲しくなると、
無音を作りたくなる。
無音は、
命令を連れてくる。
少女が言った。
「うるさい?」
「土みたい」
「うん。
土だと、
踏めるね」
少年は頷いた。
踏める音は、
生活の音だ。
- ■影の輪で「音を中央に置かない」
昼、影の輪へ向かうと、
輪は低く、
音が自然に抜けていた。
中心の空席は空席のまま。
今日はそこに、
音を置かない。
音を置くと、
皆が耳を向ける。
耳を向けると、
評価が始まる。
少女が輪の外で言った。
「節子、今日はね……
音を、
混ぜたよ」
少年は頷いた。
混ぜることで、
誰の声も突出しない。
突出しない声は、
刃にならない。
——土の耳で、
——いいよ。
節子の声が昼の空気に溶けてそう言った気がした。
少年は、その声を追わなかった。
追わないことで、
声は地面に吸われる。
地面に吸われた声は、
芽を出さない。
輪の縁に腰を下ろし、
背中を影に預ける。
だが寄りかからない。
耳は、
立てるものではなく、
置くものだ。
焼け跡の昼は、
音を選別しない。
代わりに、
耳土を育てる。
少年は、その湿り気を保つことで、
今日もまた、
言葉が刃になる前に、
一日を通り抜けていた。
(第百五十章につづく)

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