佐藤愛子を模倣し、野坂昭如の「火垂るの墓」時代を題材にした完全オリジナル長編小説『灰の味――或る少年の季節』第百四十二章・第百四十三章

目次

第百四十二章 灯のはしご──影が「上がらない高さ」を残した朝

 朝、少年は“上がらない高さ”に救われた。

 はしごがあった。

 瓦礫の壁に立てかけられた古い木のはしご。

 上へ行ける。

 高いところへ行けば、遠くが見える。

 遠くが見えれば、安心する。

 安心すれば、計画が始まる。

 計画が始まれば、正しさが走る。

 正しさが走れば、遅れが罪になる。

 少年は、上がらなかった。

 上がらないことで、朝は低いまま保たれる。

 低い朝は、争いを呼ばない。

 争いを呼ばない朝は、息を深くする。

 それが第百四十二章の芯だった。

 灯は戻らない。

 欠片は拾われず、余白は埋められず、答えは遅らされている。

 その積み重ねの上に、朝は「はしご」を差し出す。

 はしごは、上がるためにある。

 だが生活には、上がらない選択も要る。

 上がらないことで、足元が守られる。

 足元が守られると、灯は足元で息ができる。

 ——高いところはね、

 ——見えるけど、

——匂いが分からなくなるんだよ。

 節子の声が背骨の奥でそう言った気がした。

 少年は、その声を確かめなかった。

 確かめると、上へ行きたくなる。

 今日は、行かない。

 

  • ■影の道で「見晴らしを求めない」

 影の道を歩くと、はしごが目に入った。

 壁の残骸に掛かり、上の方に空が覗く。

 少年はそこへ近づいた。

 近づくと、木の匂いがする。

 古い汗の匂い。

 煤の匂い。

 手で触れれば、ざらつきが分かる。

 だが、上がらない。

 上がれば、匂いは風に散る。

 散れば、足元の実感が薄くなる。

 少女が言った。

「登らないの?」

「登ると、

 遠くが欲しくなる」

「うん。

 遠くが欲しくなると、

 今が減るね」

 少年は頷いた。

 今が減ると、生活は薄くなる。

 薄い生活は、熱を生みやすい。

 熱は争いの芽になる。

 

  • ■黒板の字が「高」で止まり、「望」は書かれない

 教室に入ると、黒板には一字だけ書かれていた。

 ■高

 望むの「望」はない。

教員は短く言った。

「今日は、高さの話をする」

 生徒たちは、不安そうだった。

 高い話は、夢に繋がる。

夢は、裏切る。

裏切る夢は、怒りを生む。

「戦争は、

高みを語った。

国のため。

勝利のため」

 少年は、語られた高みのせいで足元が焼けたことを思い出した。

高い言葉は、低い現実を燃やす。

「生活の高さは、

低く保つ」

教員は続けた。

「低い高さは、

匂いが分かる。

顔が見える。

足が届く」

 少年は紙に短く書いた。

——低いまま 

 それは諦めではない。

足元を守る作法だ。

 

  • ■炊き出しの列で「目線を上げない」

朝の炊き出しで、少年は鍋を見上げなかった。 
鍋の中身を確かめない。 
確かめると、期待が生まれる。 
期待が生まれると、足りないときに怒りが生まれる。

少年は、椀だけを差し出す。 
受け取った湯気を、鼻で確かめる。 
匂いは足元の情報だ。 
匂いは高みにない。

青年が言った。

「熱いぞ」 

それで十分だ。 
高さの話はいらない。

 

  • ■釜戸の前で「上を見ない火」

家に戻ると、少年は釜戸の前に座った。 
火は起こさない。 
だが灰の中の余熱はまだある。 
少年は、余熱を探さない。 
探すと、上を見たくなる。 
上を見たくなると、火を大きくしたくなる。 
大きくすると、熱が暴れる。

少女が言った。

「低いね」 

「低いまま」 

「うん。 
低い火は、 
安全だね」 

少年は頷いた。 
安全は、贅沢ではない。 
争いを起こさないための最低限だ。

 

  • ■影の輪で「はしごを立てない」

朝、影の輪へ向かうと、輪は低く保たれていた。 
中心の空席も、戻り角も、火種の空きも、どれも高さを持たない。 
高くしない。 
掲げない。 
掲げると標語になる。 
標語になると命令になる。

少女が輪の外で言った。

「節子、今日はね…… 
はしごを、 
立てなかったよ」 

少年は頷いた。 
立てないことで、輪は輪のまま残る。 
輪のまま残るから、出入りが自由だ。

——足元で、 
——いいよ。 

節子の声が背骨の奥でそう言った気がした。 
少年は、その声を追わなかった。 
追わないことで、声は匂いになる。 
匂いは低いところに残る。

輪の縁に腰を下ろし、背中を影に預ける。 
朝の光は、はしごの上まで届く。 
だが少年は、上を見ない。 
足元の影と、地面の匂いと、椀の湯気だけで、今日を始める。

焼け跡の朝は、 
見晴らしを約束しない。 
代わりに、低い高さで呼吸を許す。 
少年は、上がらない選択が、 
いちばん遠くまで続くことを、静かに覚えつつあった。

第百四十三章 灯の壁際──影が「寄りかからない支え」を覚えた夜

 夜、少年は壁際に立った。

 立ったのは、隅へ逃げるためではない。

 中心に近づきすぎないためだ。

 中心は、熱が溜まる。

 熱が溜まると、言葉が増える。

 言葉が増えると、正しさが生まれる。

 正しさが生まれると、誰かが遅れる。

 遅れが生まれると、責めが生まれる。

 だから壁際。

 壁際は、背中を預ける場所のようでいて、預けない場所だ。

 寄りかからない支え。

 それが第百四十三章の芯だった。

 灯は戻らない。

 はしごは登られず、高さは低く保たれ、欠片は拾われない。

 その積み重ねの上に、夜は「壁際」を置く。

 壁際は、境界だ。

 だが境界は、押し出すためにあるのではない。

 押し出すと、内と外が戦う。

 境界は、熱を逃がすためにある。

 少年は、壁際にいることで、熱を逃がした。

 ——寄りかからないってね、

 ——冷たいことじゃないよ。

——倒れない練習だよ。

 節子の声が背骨の奥でそう言った気がした。

 少年は、その声を確かめなかった。

 確かめると、背もたれを探してしまう。

 今夜は、探さない。

 

  • ■影の道で「壁の影に入らない」

 夜の影の道は、壁の残骸が多い。

 壁の影は濃い。

濃い影に入ると、目が楽になる。

 楽になると、そこに居たくなる。

 居たくなると、住みたくなる。

 住みたくなると、扉を閉めたくなる。

 扉を閉めると、風通しがなくなる。

 少年は、壁の影のすぐ外を歩いた。

 濃い影に入らない。

 だが遠くもない。

 壁際の温度差だけを感じる位置。

 少女が言った。

「暗くない?」

「暗いけど、

 入らない」

「うん。

 入らないと、

 目が慣れるね」

 少年は頷いた。

 慣れることは、依存ではない。

 壁の影に頼らずに歩ける身体を作ることだ。

 

  • ■黒板の字が「際」で止まり、「端」は書かれない

 夜の自習室に入ると、黒板には一字だけ書かれていた。

 ■際

 端ではない。

 際。

 境目の意味を含む字だ。

 教員は短く言った。

「今日は、際の話をする」

 生徒たちは静かだった。

 際は、追放の匂いを持つ。

 際に追いやられた者が多すぎたからだ。

「戦争は、

 際を作った。

内と外。

敵と味方」

 少年は、際の外へ押し出された人の顔を思い出した。

 押し出された者は、戻れない。

「生活の際は、

戻れる」

 教員は続けた。

「際は、

逃げ場でも、

牢でもない。

熱を逃がす通路だ」

 少年は紙に短く書いた。

——熱を逃がす 

 それだけで、胸が少し軽くなる。

 

  • ■炊き出しの列で「壁際を空ける」

 夜の炊き出しで、列が長くなった。

 中心が詰まり、声が増えかける。

 そのとき、青年が一言言った。

「壁際、使え」

 誰もが半歩ずつずれて、壁際に並ぶ。

 中心が空く。

 空くと、列は荒れない。

 荒れないから、湯気は白いまま残る。

 少年は壁際に立った。

 壁に寄りかからない。

 壁は支えだが、頼りすぎると骨が弱る。

 少年は、自分の足で立ったまま、壁の冷たさだけを背中で感じた。

 少女が言った。

「寄りかからないね」

「寄りかかると、

 倒れるときが来る」

「うん。

寄りかからないと、

長く立てるね」

 少年は椀を受け取り、壁際のまま飲んだ。

 中心へ戻らない。

戻らないことで、中心は熱を溜めない。

 

  • ■釜戸の前で「壁際の風」を入れる

 家に戻ると、扉は半分開いていた。

 閉めない扉の夜。

 風通しを残す夜。

 少年は扉をそのままにし、壁際に座った。

 釜戸の前ではなく、少し離れた壁際。

 火の匂いが薄い場所。

余熱の誘惑が届かない場所。

 少女が言った。

「離れたね」

「壁際だと、

 起こさなくて済む」

「うん。

壁際は、

熱を薄めるね」

 少年は頷いた。

熱を薄める場所があると、夜は長持ちする。

 

  • ■影の輪で「際に座る」

 夜、影の輪へ向かうと、輪は薄く開いていた。

中心の空席は空席のまま。

今日は、中心に寄らない。

際に座る。

際に座ることで、輪の熱は逃げる。

 少女が輪の外で言った。

「節子、今日はね……

際に、

座ったよ」

 少年は頷いた。

際は追放ではない。

際は通路だ。

通路に座れば、誰も押し出されない。

——寄りかからなくて、 
——いいよ。 

節子の声が背骨の奥でそう言った気がした。 
少年は、その声を追わなかった。 
追わないことで、声は壁際の風になる。 
風になれば、熱を逃がす。

 輪の縁に腰を下ろし、背中を影に預ける。

だが寄りかからない。

預けるようで預けない。

自分の骨で座る。

影はただ、倒れる方向を塞がないだけ。

 焼け跡の夜は冷える。

だが壁際にいると、冷えは刺さらない。

中心の熱も届かない。

少年は、寄りかからない支えの中で、

今夜もまた、争いを生まない距離を保っていた。

(第百四十四章につづく)

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