佐藤愛子を模倣し、野坂昭如の「火垂るの墓」時代を題材にした完全オリジナル長編小説『灰の味――或る少年の季節』第百三十八章・第百三十九章

目次

第百三十八章 灯の風通し──影が「閉めない扉」を残した夜

 夜、少年は扉を閉めなかった。

 閉めれば、安心は得られる。

 だが同時に、外は締め出される。

 締め出されると、境目が硬くなる。

 境目が硬くなると、内と外は対立を始める。

 対立が始まると、言葉が増える。

 言葉が増えると、熱が生まれる。

 熱が生まれると、灯を呼び戻したくなる。

 だから閉めない。

 夜の風通しを残す。

 それが第百三十八章の芯だった。

 空き家に入らなかった夕方のあと、

 少年は屋根のある場所へ戻った。

 戻ったが、住まない。

 住まないから、扉を閉めない。

 扉を閉めないと、風が入る。

 風が入ると、匂いが動く。

 匂いが動くと、時間も動く。

 動く時間は、滞らない。

 滞らない夜は、眠りを浅くしない。

 灯は戻らない。

 空きは保たれ、

 手前は守られ、

 引き潮は満ちすぎを退かせる。

 その積み重ねの上に、

 夜は「風通し」を置いていく。

 風通しは、

 防ぐためではない。

 通すためにある。

 通すことで、

 閉塞は起きない。

 ——閉めないでいるとね、

 ——冷えるけど、

 ——澱まないんだよ。

 節子の声が、背骨の奥でそう言った気がした。

 少年は、その声を確かめなかった。

 確かめると、

 正しい閉め方を探してしまう。

 今夜は、探さない。

 

  • ■影の道で「風の道を塞がない」

 夜の影の道は、

 昼よりも風がはっきりと見える。

 瓦礫の隙間を抜け、

 破れた壁を回り、

 低い音を立てて流れる。

 少年は、

 風の通り道に物を置かなかった。

 置けば、

 一時的に静かになる。

 だが静けさは、

 澱の前触れだ。

 少年は、

 足元の板切れを拾いかけて、

 やめた。

 拾って立てかければ、

 隙間は塞がる。

 塞がれば、

 風は別の弱い場所を探す。

 弱い場所は、

 いつか壊れる。

 少女が言った。

「寒いね」

「通してる」

「うん。

 通すと、

 夜が動くね」

 少年は頷いた。

 動く夜は、

 眠りを妨げない。

 

  • ■黒板の字が「通」で止まり、「閉」は書かれない

 夜の自習室に入ると、

 黒板には一字だけ残っていた。

 ■通

 閉じるの「閉」はない。

 教員は短く言った。

「今日は、通す話をする」

 生徒たちは、

 寒そうに肩をすくめた。

 通すと、

 守りが薄くなると思っている。

「戦争は、

 通すことを恐れた。

 情報も、人も」

 少年は、

 通れなかった道が

 どれほどの命を止めたかを思い出した。

「生活は、

 通すことで守る」

 教員は続けた。

「通らないものは、

 内で腐る」

 黒板の字は、

 それ以上増えない。

 通すことは、

 説明すると誤解される。

 少年は紙に短く書いた。

 ——閉めない

 その言葉は、

 机の端に置かれ、

 風に揺れた。

 

  • ■炊き出しの列で「話題を通す」

 夜の炊き出しでは、

 短い噂話が風のように流れた。

 どこで何があった、

 誰がどうした。

 少年は、

 話を止めなかった。

 止めると、

 責任が生まれる。

 責任が生まれると、

 検証が始まる。

 検証が始まると、

 争いが起きる。

 少年は、

 聞き流した。

 聞き流すことは、

 無関心ではない。

 通すという態度だ。

 青年が鍋の前で言った。

「次」

 それだけで、

 列は動く。

 動く列は、

 熱を溜めない。

 少女が言った。

「聞いてた?」

「通した」

「うん。

 通すと、

 引っかからないね」

 少年は椀を受け取り、

 影の端へ移った。

 端は、

 通り道だ。

 

  • ■釜戸の前で「扉を半分残す」

 家に戻ると、

 少年は扉を半分だけ残した。

 閉め切らない。

 開け放しにもしない。

 半分。

 半分は、

 意思を持たない。

 意思を持たないから、

 責められない。

 風が入り、

 火の匂いが抜ける。

 抜けることで、

 昨日の熱は今日に持ち越されない。

 少女が言った。

「閉めないの?」

「半分」

「うん。

 半分だと、

 考えなくていいね」

 少年は、

 半分という状態を、

 決断にしなかった。

 決断にすると、

 後悔が生まれる。

 

  • ■影の輪で「境目を作らない」

 夜、影の輪へ向かうと、

 輪は風にほどけていた。

 中心の空席は、

 風の通り道になっている。

 今日はそこに、

 境目を作らない。

 境目を作ると、

 守る者と破る者が生まれる。

 生まれると、

 夜は騒がしくなる。

 少女が輪の外で言った。

「節子、今日はね……

 扉を、

 閉めなかったよ」

 少年は頷いた。

 閉めなかった扉は、

 戻り道にもなる。

 戻り道があると、

 眠りは深い。

 ——風、

 ——通してね。

 節子の声が、

 夜の闇に溶けてそう言った気がした。

 少年は、その声を追わなかった。

 追わないことで、

 声は風になる。

 風になれば、

 誰のものでもない。

 輪の縁に腰を下ろし、

 背中を影に預ける。

 冷えはある。

 だが澱はない。

 閉めなかった扉から、

 夜は出入りし、

 時間は流れ続ける。

 焼け跡の夜は、

 完全な守りを約束しない。

 代わりに、

 風通しを残す。

 少年は、その通り道を守ることで、

 明日もまた、

 閉じすぎない生を歩けると知り、

 静かに目を閉じた。

第百三十九章 灯の耳鳴り──影が「聞き切らない沈黙」を置いた朝

 朝、少年は耳鳴りを聞き切らなかった。

 目覚めの直後、

 夜の風が抜けた部屋には、

 薄い音が残っている。

 音とも言えない。

 無音でもない。

 その境目に、

 耳鳴りはある。

 少年は、その音を意味に変えなかった。

 意味に変えると、原因を探す。

 原因を探すと、責任を探す。

 責任を探すと、誰かの名が浮かぶ。

 名が浮かぶと、言葉が刃になる。

 だから聞き切らない。

 聞き切らないことで、朝は静かに始まる。

 それが第百三十九章の芯だった。

 閉めなかった扉の夜が明け、

 風はまだ部屋に残っている。

 残っているが、

 留まってはいない。

 留まらない音は、

 人を追い詰めない。

 少年は、その性質を、

 耳の奥で確かめた。

 灯は戻らない。

 風通しは保たれ、

 空き家は住まれず、

 引き潮は満ちすぎを返している。

 その積み重ねの上に、

 朝は「耳鳴り」を置いていく。

 耳鳴りは、

 聞き取るためにあるのではない。

 聞き切らない練習のためにある。

 少年は、その練習を、

 今日も怠らなかった。

 ——全部、

 ——聞かなくていいよ。

 節子の声が、

 背骨の奥でそう言った気がした。

 少年は、その声を確かめなかった。

 確かめると、

 聞き返したくなる。

 聞き返すと、

 音は言葉になる。

 今日は、ならせない。

 

  • ■影の道で「遠い音を追わない」

 影の道を歩くと、

 遠くで金属が打ち合う音がした。

 規則的でも、不規則でもない。

 何かが落ちたのか、

 誰かが叩いたのか、

 判断はつかない。

 少年は立ち止まらなかった。

 立ち止まると、

 耳が音に向かう。

 向かうと、

 足が遅れる。

 遅れると、

 理由が生まれる。

 理由が生まれると、

 物語が始まる。

 物語が始まると、

 真実を求めてしまう。

 少年は歩いた。

 音は背後に残る。

 残る音は、

 責任にならない。

 少女が言った。

「今の音、

 何だったんだろ」

「知らない」

「うん。

 知らないままで、

 いいね」

 少年は頷いた。

 知らないことは、

 怠慢ではない。

 通り道を塞がない技術だ。

 

  • ■黒板の字が「聞」で止まり、「答」は書かれない

 教室に入ると、

 朝の光が斜めに差し込み、

 黒板には一字だけ書かれていた。

 ■聞

 答えの「答」はない。

 教員は短く言った。

「今日は、聞く話をする」

 生徒たちは、

 ノートを開きかけて、やめた。

 書けば、

 答えが要るからだ。

「戦争は、

 聞き切れと命じた。

 疑問を残すな、と」

 少年は、

 聞き切れなかった声が

 切り捨てられた日を思い出した。

「生活は、

 聞き切らない」

 教員は続けた。

「聞き切らないことで、

 沈黙は生き残る」

 黒板の字は、

 それ以上増えない。

 聞くことを説明しすぎると、

 尋問になる。

 少年は紙に短く書いた。

 ——途中まで

 その言葉は、

 紙の端で止まった。

 

  • ■炊き出しの列で「話の続きを求めない」

 朝の炊き出しで、

 二人の大人が小声で話していた。

 言葉の端だけが聞こえる。

 地名と、

 数字と、

 ため息。

 少年は、

 続きを求めなかった。

 続きを求めると、

 耳が前に出る。

 前に出ると、

 聞き手が当事者になる。

 当事者になると、

 責任が生まれる。

 少年は、

 椀を受け取る。

 それで会話は切れる。

 切れることで、

 誰も困らない。

 青年は鍋の前で言った。

「次」

 それだけで、

 話は流れる。

 流れる話は、

 滞らない。

 少女が言った。

「気にならない?」

「途中で、

 止める」

「うん。

 止められると、

 楽だね」

 少年は、

 影の端で椀を口に運んだ。

 味は決めない。

 決めると、

 感想が要る。

 

  • ■釜戸の前で「自分の音を聞き切らない」

 家に戻ると、

 少年は釜戸の前に座った。

 胸の奥で、

 小さなざわめきがある。

 疲れか、

 不安か、

 区別はつかない。

 少年は、

 それを聞き切らなかった。

 聞き切ると、

 名を付けたくなる。

 名を付けると、

 対処が要る。

 対処が要ると、

 急ぐ。

 少年は、

 ざわめきを

 息に混ぜた。

 混ぜると、

 どこから来たか分からなくなる。

 分からない音は、

 刃にならない。

 少女が言った。

「何考えてる?」

「途中」

「うん。

 途中なら、

 置いていいね」

 少年は、

 途中のまま、

 座り続けた。

 

  • ■影の輪で「沈黙を完成させない」

 朝、影の輪へ向かうと、

 輪は静かに広がっていた。

 中心の空席は、

 今日も空席のまま。

 今日はそこに、

 沈黙を完成させない。

 完成させると、

 意味が生まれる。

 意味が生まれると、

 誰かが解釈を始める。

 少女が輪の外で言った。

「節子、今日はね……

 聞き切らなかったよ」

 少年は頷いた。

 聞き切らないことで、

 声は残る。

 残る声は、

 誰のものでもない。

 ——途中で、

 ——いいよ。

 節子の声が、

 朝の光に溶けてそう言った気がした。

 少年は、その声を追わなかった。

 追わないことで、

 声は耳鳴りになる。

 耳鳴りは、

 生きている証だ。

 輪の縁に腰を下ろし、

 背中を影に預ける。

 朝の音は、

 はっきりしない。

 だが不安ではない。

 聞き切らなかった分だけ、

 世界はまだ、

 少年の手前に余白を残している。

 焼け跡の朝は、

 答えを急がせない。

 代わりに、

 途中で止める耳を育てる。

 少年は、その耳を持つことで、

 今日もまた、

 争いの入口を通らずに、

 一日を歩き出していた。

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