第百三十二章 灯の薄明──影が「名づけない始まり」を迎えた昼
昼、少年は“始まり”に名前を付けないことにした。
始まりに名前を付けると、終わりが先回りする。
終わりが先回りすると、途中が急かされる。
急かされる途中は、息が荒くなる。
荒くなると、正しさが肩を叩く。
正しさに肩を叩かれると、人は走り出す。
走り出すと、見落としは罪になる。
今日は、名づけない。
名づけない始まりは、薄明のまま進む。
薄明は、昼にも夜にも属さない。
属さないから、奪われない。
奪われないから、焦げない。
焦げないから、今日が今日のまま保たれる。
それが第百三十二章の芯だった。
灯は戻らない。
片隅は残され、見取り図は一本にならず、返し口は開き、余白は通り道のまま。
その積み重ねの上に、昼は「薄明」を連れてくる。
薄明は、輪郭が曖昧だ。
曖昧だから、名を欲しがらない。
名を欲しがらないから、約束にならない。
少年は、約束にならない始まりを、両手で受け取らず、ただ見送った。
——始まりってね、
——呼ばれないほうが、
——長持ちするんだよ。
節子の声が、背骨の奥でそう言った気がした。
少年は、その声を確かめなかった。
確かめると、証拠が要る。
証拠が要ると、名が要る。
今日は、要らない。
- ■影の道で「影の境目を数えない」
影の道を歩く。
瓦礫の縁に、明るい面と暗い面が混ざり合う帯がある。
境目は揺れている。
風が吹くと、少し動く。
少年は、その境目を数えなかった。
数えると、ここからここまで、と線を引きたくなる。
線を引くと、越えるときに許可が要る。
許可が要ると、誰かが管理を始める。
少年は、境目を跨いだ。
跨いでも、何も起きない。
起きないことが、薄明の仕事だ。
少女が言った。
「どっち?」
「どっちでも」
「うん。
どっちでも、
歩けるね」
少年は頷いた。
どっちでも歩ける道は、争いを生まない。
- ■黒板の字が「始」で止まり、「終」は書かれない
教室に入ると、黒板には一字だけ書かれていた。
■始
終わりの「終」はない。
教員は短く言った。
「今日は、始まりの話をする」
生徒たちは、少し身構えた。
始まりは、期待と命令を連れてくるからだ。
「戦争は、
始まりに名を付けた。
開戦。
聖戦」
少年は、名を与えられた瞬間に、戻れなくなった列車のことを思い出した。
名は、戻り角を削る。
「生活の始まりは、
名を持たない」
教員は続けた。
「名を持たない始まりは、
終わりを急がない」
黒板の字はそれ以上増えない。
始まりの説明を増やすほど、薄明は消える。
少年は紙に何も書かなかった。
書かないことで、始まりは始まりのまま残る。
- ■炊き出しの列で「一口目を急がない」
昼の炊き出しで、椀を受け取る。
一口目を急がない。
一口目を急ぐと、味を決めたくなる。
味を決めると、評価が始まる。
評価が始まると、比較が始まる。
比較が始まると、争いが始まる。
少年は湯気を見た。
薄い白。
匂いはあるが、強くない。
薄明の匂いだ。
少年は一息置いてから、口をつけた。
決めない味。
決めないから、今日の昼は続く。
青年が一言だけ言った。
「熱いぞ」
「うん」
それで足りる。
注意は名づけではない。
少女が言った。
「どう?」
「まだ」
「うん。
まだ、
でいいね」
まだ、という言葉は、終わりを呼ばない。
- ■釜戸の前で「火を点けない準備」
家に戻ると、少年は釜戸の前に座った。
薪はある。
火を点けることもできる。
だが今日は、点けない準備だけをした。
灰をならし、空気の道を確かめる。
それで終える。
準備に名を付けない。
準備に名を付けると、点火が義務になる。
少女が言った。
「まだ?」
「うん。
まだ」
「うん。
まだ、
が続くと安心だね」
少年は、まだ、という言葉を胸にしまわなかった。
床の影に置いた。
置くと、焦らない。
- ■影の輪で「始まりを中央に置かない」
昼、影の輪へ向かうと、輪は薄く開いていた。
中心の空席は空席のまま。
今日は、そこに“始まり”を置かない。
始まりを中央に置けば、拍手が起きる。
拍手が起きれば、期待が起きる。
期待が起きれば、失望が待つ。
少女が輪の外で言った。
「節子、今日はね……
始まりを、
真ん中に置かなかったよ」
少年は頷いた。
始まりは、片隅で薄く始まればいい。
薄く始まれば、終わりは遠い。
——薄明で、
——いいよ。
節子の声が、昼の風に混じってそう言った気がした。
少年は、その声を追わなかった。
追わないことで、声は名にならず、
名にならないことで、薄明は残る。
輪の縁に腰を下ろし、背中を影に預ける。
昼の光は強い。
だが足元には、まだ薄明が残っている。
名づけなかった始まり。
急がなかった一口目。
点けなかった火。
それらが、今日という一日を、静かに長くしている。
焼け跡の昼は、
号砲を鳴らさない。
代わりに、名づけない始まりを、足元に置く。
少年は、その薄明の中を歩きながら、
始まりを急がない生き方が、
いちばん遠くまで続くことを、
体で覚え始めていた。
第百三十三章 灯の行き違い──影が「会わない選択」を赦した夕方

夕方、少年は“行き違い”を選んだ。
選んだと言っても、相手が見えていたわけではない。
ただ、向こうから来る足音に気づき、
その足音が角を曲がる前に、
自分が一本脇の道へ入っただけだ。
会えば挨拶が要る。
挨拶をすれば、言葉が要る。
言葉が要れば、意味が要る。
意味が要れば、説明が要る。
説明が要れば、正しさが出てくる。
正しさが出てくると、
行き違いは失敗に変わる。
だから今日は、会わない。
会わないことは、避けることではない。
衝突を起こさないための、
夕方なりの礼儀だ。
それが第百三十三章の芯だった。
灯は戻らない。
薄明は名づけられず、片隅は守られ、
見落としは罪にならず、
戻り角は残されている。
その積み重ねの上に、
夕方は「行き違い」を差し出す。
行き違いは、誤解の種にもなる。
だが同時に、
争いを芽のまま終わらせる力も持つ。
少年は、その後者を選んだ。
——会わないってね、
——冷たいことじゃないよ。
——熱を生まない方法なんだよ。
節子の声が、背骨の奥でそう言った気がした。
少年は、その声を確かめなかった。
確かめると、理由が要る。
理由が要ると、正解が要る。
今日は、要らない。
- ■影の道で「足音を数えない」
影の道は、夕方になると音が増える。
瓦礫を踏む音。
乾いた布が擦れる音。
遠くで、鍋が当たる音。
それらが混ざり合い、
誰の足音か分からなくなる。
少年は、足音を数えなかった。
数えると、近づく距離が見えてしまう。
見えてしまうと、
会うか会わないかを決めなければならない。
今日は、決めない。
決めないために、
数えない。
少女が言った。
「誰か、来てた?」
「来てたかも。
でも、
会ってない」
「うん。
会わないと、
余熱が残らないね」
少年は頷いた。
余熱は、後から火になる。
火になる前に、
行き違いで冷ましておく。
- ■黒板の字が「違」で止まり、「正」は書かれない
教室に入ると、
夕方の光が差し込む黒板に、
一字だけ書かれていた。
■違
正しいの「正」はない。
教員は短く言った。
「今日は、違いの話をする」
生徒たちは、身構えた。
違いは、責められるものだと
長く教えられてきたからだ。
「戦争は、
違いを見つけて、
揃えさせた」
少年は、
揃えられなかった声が
どこへ消えたかを思い出した。
「生活の違いは、
揃えない」
教員は続けた。
「行き違いは、
間違いじゃない。
ただ、
交わらなかっただけだ」
黒板の字は、
それ以上増えない。
増やすと、
違いが説明に変わり、
説明は裁きに変わる。
少年は紙に短く書いた。
——会わない選択
それは逃げではなく、
通行の作法だった。
- ■炊き出しの列で「目を合わせない礼」
夕方の炊き出しでは、
混み合う時間帯があった。
少年は、
知っている顔を見つけたが、
目を合わせなかった。
目を合わせれば、
話が始まる。
話が始まれば、
近況が要る。
近況が要れば、
比べが要る。
少年は、
椀だけを前へ差し出した。
それで十分だった。
青年は何も言わず、
静かに注いだ。
その沈黙は、
拒絶ではなく、
行き違いの了承だった。
少女が言った。
「気づいてた?」
「たぶん。
でも、
渡した」
「うん。
渡せば、
会わなくても済むね」
少年は、
渡す動作が、
行き違いを完成させることを
知り始めていた。
- ■釜戸の前で「言い訳を作らない」
家に戻ると、
少年は釜戸の前に座った。
会わなかった理由を
考えそうになって、
やめた。
理由を作ると、
後で説明したくなる。
説明したくなると、
会わなかったことが
負債になる。
負債になると、
返済が始まる。
返済が始まると、
生活は重くなる。
今日は、理由を作らない。
行き違いは、
理由のいらない現象だ。
少女が言った。
「気になる?」
「ならない。
ならないように、
してる」
「うん。
気にならないのも、
技術だね」
少年は、
ため息をひとつ吐いた。
返し口を通って、
理由にならない息が外へ出る。
- ■影の輪で「交差点を作らない」
夕方、影の輪へ向かうと、
輪は少しずつ散っていた。
中心は空いたまま。
今日はそこに、
“交差点”を作らない。
交差点を作ると、
必ず信号が要る。
信号が要ると、
待ち時間が生まれる。
待ち時間が生まれると、
不満が生まれる。
少女が輪の外で言った。
「節子、今日はね……
行き違いを、
そのままにしたよ」
少年は頷いた。
行き違いを整理しない。
整理しないから、
誰も責められない。
——それで、
——十分だよ。
節子の声が、
夕方の風に混じって
そう言った気がした。
少年は、その声を追わなかった。
追わないことで、
声は行き先を失わず、
ただ空気になる。
輪の縁に腰を下ろし、
背中を影に預ける。
今日、会わなかった誰かの存在が、
遠くで薄く残っている。
だが、それでいい。
会わない選択が、
衝突を起こさなかったという事実だけが、
夕方の空に静かに沈んでいく。
焼け跡の夕方は、
和解を強要しない。
代わりに、
行き違いを赦す。
少年は、その赦しの中で、
今日もまた、
誰とも争わずに
一日を畳むことができたのだった。
(第百三十四章につづく)

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