佐藤愛子を模倣し、野坂昭如の「火垂るの墓」時代を題材にした完全オリジナル長編小説『灰の味――或る少年の季節』第百十八章・第百十九章

目次

第百十八章 灯の影送り──影が「渡して忘れない」夜

 夜、少年は影の輪の外側に立ち、輪の中へ入る前に一度だけ手を見た。

 掌は空だ。

 握っていない。

 持っていない。

 なのに、確かに何かを渡した感覚が残っている。

 昨日の余白を置いてきたはずなのに、その余白が今夜、別の形で戻ってきている。

 戻る、と言っても、灯は戻らない。

 戻るのは、灯そのものではなく、灯が通った跡の温度だ。

 温度は持ち主を選ばない。

 だからこそ、渡せる。

 渡しても、消えない。

 消えないから、忘れなくていい。

 少年は今夜、「影送り」という言葉を思い出した。

 子どもの頃、夕方の土手で、影を踏んで遊んだ記憶がある。

 影は踏まれても怒らない。

 踏まれても壊れない。

 踏んだ者の足元へ、すぐ戻る。

 影を送り合う遊びは、奪い合いにならない。

 奪えないものを、送り合うだけだからだ。

 ——影はね、

 ——渡しても、無くならないんだよ。

 節子の声が、背骨の奥でそう言った気がした。

 少年は、その言葉を“慰め”にしなかった。

 慰めにすると、節子が軽くなる。

 軽くなりすぎると、嘘になる。

 嘘にしたくないから、影送りのまま胸に置く。

 

  • ■影の道で「火のない灯り」を見かける

 影の道を歩くと、壊れた家の窓枠のところに、ガラスの欠片が一枚だけ残っていた。

 そこに月の光が当たり、薄く光る。

 火はない。

 ランプもない。

 ただ反射しているだけだ。

 少年は立ち止まり、光の角度を少し変えるように頭を傾けた。

 光はすぐ形を変える。

 持ち歩けない光だ。

 持ち歩けないから、奪えない。

 奪えないから、争いにならない。

 少女が言った。

「それ、灯みたい」

「灯じゃない」

「うん。

 でも、灯の“ふり”ができる」

 少年は、その言い方に少し救われた。

 灯が戻らないなら、灯のふりをする光が、時々あればいい。

 ふりは嘘ではない。

 生活の呼吸の一部だ。

 少年はガラス片を拾わなかった。

 拾えば“自分の灯”にしてしまう。

 自分の灯にすれば、手放すのが辛くなる。

 辛くなれば、争いの種になる。

 だから置く。

 光は光のまま残す。

 そのまま歩き出すと、光は背中側で消えた。

 消えたのではない。

 自分が角を曲がって、見えなくなっただけだ。

 見えなくなる程度の灯りが、今夜はちょうどいい。

 

  • ■黒板の字が「送」で止まり、「返」は書かれない

 夜の自習室に入ると、黒板には一字だけ書かれていた。

 ■送

 送る。

 だが、返すの「返」はない。

 教員は黒板を見て、しばらく黙ってから言った。

「今日は、送る話をする」

 生徒たちの中に、薄い緊張が走った。

 送る、と言われると、誰かを送り出すことを想像する。

 送り出すのは、別れに似ている。

 別れは、戻らないものを連れてくる。

 教員は、その気配を見て声を落とした。

「戦争は、送ることを命令にした。

 送れ。

 見送れ。

 旗を振れ」

 少年は、見送りの列を思い出した。

 旗は軽いのに、胸は重かった。

 軽い旗で重い別れを隠した日々。

「生活の送るは、

 命令ではない」

 教員は続けた。

「送るとは、

 手元から離すことじゃない。

 “次の人の手元へ届く形”にして、

 そっと置くことだ」

 その言葉は、炭を滑らせた夜の感覚に似ていた。

 与える顔をしない。

 受け取らせる顔もしない。

 ただ、置く。

「そして、送ったものを、

 忘れない」

 教員は珍しく、はっきり言った。

「忘れないというのは、

 抱え続けることではない。

 “そこに送った”という事実だけを、

 手の空いたところに置いておくことだ」

 少年は紙に短く書いた。

 ——渡して、忘れない

 その一行は、胸の奥の静脈に沿って、ゆっくり落ち着いた。

 

  • ■炊き出しの列で「匙が送られる」

 夜の炊き出しでは、昨日と同じ小さな木の匙が鍋の横に置かれていた。

 柄の擦り減り方が、今夜は妙に愛おしく見える。

 匙は誰のものでもない。

 だが誰かが毎晩、ここへ戻している。

 戻す、と言っても“返す”ではない。

 送り直す、に近い。

 少年が列に並んでいると、前の女が匙を手に取り、椀の縁を軽く叩いた。

 汁が一滴、鍋へ落ちる。

 女は匙を洗わずに、布でさっと拭き、元の場所へ置いた。

 その動きが、余計に丁寧ではないのがよかった。

 丁寧すぎると、善行になる。

 善行になると、見返りが生まれる。

 見返りが生まれると、争いが生まれる。

 青年が一言だけ言った。

「送っとけ」

 誰に向けた言葉か分からない。

 だが、皆が分かる。

 匙を“次へ送れ”という意味だ。

 持ち帰るな、という禁止ではない。

 次へ送る、という作法の確認。

 少年は椀を受け取ったあと、その匙を手に取る必要がなかった。

 それでも、通り過ぎるとき、匙の位置をほんの少しだけ整えた。

 次の人が掴みやすい向きに。

 誰にも気づかれない程度に。

 気づかれないほうが、送ることは長持ちする。

 

  • ■釜戸の前で「水の一滴を送る」

 家に戻ると、少年は釜戸の前に座った。

 灰は乾き、渇きはまだ喉の奥に残っている。

 今夜も水をたくさんは使わない。

 一滴でいい。

 だが今夜の一滴は、灰のためではなかった。

 少年は小さな皿に水をほんの少しだけ入れ、戸口の外、軒下に置いた。

 猫のためか。

 子どものためか。

 鳥のためか。

 誰のためかは決めない。

 決めると所有になる。

 所有になると監視になる。

 監視になると争いになる。

 少女が言った。

「それ、誰に?」

「送るだけ」

「うん。

 届けば届くし、

 届かなければ、それでもいい」

 少年は皿を置き、戻った。

 置いた瞬間、もう気にしない。

 気にしないことが、送る作法の半分だ。

 残り半分は、忘れないこと。

 忘れないが、気にしない。

 その矛盾が、生活の温度を守る。

 

  • ■影の輪で「影送り」が始まる

 夜、影の輪へ向かうと、輪の縁に子どもが一人立っていた。

 昼間の子かもしれない。

 違うかもしれない。

 だが、肩の細さが同じ種類の細さだった。

 子どもは輪に入らず、外側に立ったまま、足元の影をじっと見ている。

 少年が近づくと、子どもは小さく足を動かし、自分の影を少年の影にそっと重ねた。

 踏むのではない。

 重ねるだけ。

 それから子どもは半歩引き、少年の影が自分の影に残るのを見た。

 まるで、影を送ったみたいだった。

 少年は何も言わなかった。

 言えば、遊びが儀式になる。

 儀式になれば、重くなる。

 重くなれば、続かない。

 少女が輪の外で、静かに言った。

「節子、今日はね……

 影送りが、始まったよ」

 少年は、輪の中心の空席を見た。

 灯は戻らない。

 だが、影が送られている。

 送られる影は、誰のものでもない。

 誰のものでもないから、皆の足元に戻れる。

 子どもは、少し照れたように笑って、輪の外側の戻り角のほうへ去っていった。

 去り際に礼をしない。

 礼をしないのが、今夜は正しい。

 影は礼を必要としない。

 ——渡しても、

 ——忘れないでね。

 節子の声が、背骨の奥でそう言った気がした。

 少年は、その声を追わなかった。

 追わないことで、声は影に混じる。

 影に混じれば、誰かの足元へも行ける。

 輪の縁に腰を下ろし、背中を影に預ける。

 掌は空のままだ。

 空なのに、温度がある。

 送ったものの温度だ。

 それは誇りではない。

 慰めでもない。

 ただ、生活の静脈を通って流れる、薄い熱。

 焼け跡の夜は冷える。

 それでも、影が影を送る遊びのような時間が、今夜は確かにあった。

 少年は、渡したことを忘れず、抱えず、誇らず、ただ次へ通す。

 その作法が、灯の戻らない世界で、ひとつの新しい灯り方になっていくのを感じていた。

第百十九章 灯の温度差──影が「近づきすぎない温もり」を測った朝

 朝、少年は同じ空気の中に、わずかな温度差があることに気づいた。

 同じ焼け跡、同じ朝日、同じ瓦礫。

 それでも、場所によって、肌に触れる温もりが違う。

 陽の当たり方の違い。

 風の抜け方の違い。

 人が立ち止まった痕の違い。

 温度差は、誤差ではない。

 生活が残した、細い記録だ。

 灯は戻らない。

 影送りは続き、余白は背負われず、分け前は通り道のまま保たれている。

 その中で、朝は「近づきすぎない温もり」を連れてくる。

 温もりは、寄り添えば増える。

 だが増えすぎると、蒸れる。

 蒸れは、次の争いの芽になる。

 少年は、温度差をそのままにしておくことを選んだ。

 均してしまわない。

 均すと、誰かが息苦しくなる。

 ——温度はね、

 ——揃えるものじゃないんだよ。

 ——測って、置いておくもの。

 節子の声が、背骨の奥でそう言った気がした。

 少年は、その言葉を数字にしなかった。

 数字にすれば、管理が始まる。

 管理が始まれば、奪い合いが始まる。

 今日は、測って置く。

 

  • ■影の道で「日向と日陰を分けない」

 影の道には、細い日向と、長い日陰が交互に続いている。

 日向は温かい。

 日陰は冷たい。

 どちらが正しいわけでもない。

 少年は、日向ばかりを選ばなかった。

 日陰ばかりにも入らなかった。

 交互に歩く。

 それだけで、体温は安定する。

 少女が言った。

「寒くない?」

「少し」

「暖かくない?」

「少し」

「うん。

 ちょうどだね」

 ちょうど。

 それは快適とは違う。

 快適は、独占したくなる。

 ちょうどは、通り過ぎられる。

 通り過ぎられる温度が、朝には合っている。

 

  • ■黒板の字が「温」で止まり、「熱」は書かれない

 教室に入ると、黒板には一字だけ書かれていた。

 ■温

 温かいの「温」。

 熱いの「熱」ではない。

 教員は、字を見て言った。

「今日は、温度差の話をする」

 生徒たちは、ほっとした顔をした。

 熱の話は、誰かを焚きつける。

 温の話は、息を整える。

「戦争は、

 熱を煽った。

 熱狂。

 激情」

 少年は、叫び声が重なった日のことを思い出した。

 熱は、一方向にしか進まない。

「生活の温は、

 差を残す」

 教員は続けた。

「差があるから、

 人は入れ替われる。

 差がないと、

 席は固定される」

 少年は紙に短く書いた。

 ——差を残す

 残すのは不公平ではない。

 呼吸の逃げ道だ。

 

  • ■炊き出しの列で「湯気の距離」を守る

 朝の炊き出しで、鍋から湯気が立つ。

 近づけば、顔が熱くなる。

 離れれば、匂いが薄れる。

 少年は、半歩分の距離を保った。

 熱くならない距離。

 冷めない距離。

 青年が小さく言った。

「そこ、

 いい」

 それだけだ。

 いい、という評価は、距離を固定しない。

 褒めないから、欲が起きない。

 椀を受け取るとき、少年は手を伸ばしすぎなかった。

 伸ばしすぎると、こぼれる。

 こぼれると、誰かが滑る。

 滑れば、温度は怒りに変わる。

 半歩が、温度を守る。

 

  • ■釜戸の前で「手をかざす時間」を短くする

 家に戻ると、少年は釜戸の前に立ち、手をかざした。

 温かい。

 だが、すぐに引っ込める。

 長くかざすと、火を起こしたくなる。

 起こしたくなると、管理が始まる。

 管理は、温度差を消す。

 少女が言った。

「もういい?」

「うん。

 これ以上は、

 近い」

 近すぎない。

 それが今日の合言葉だ。

 

  • ■影の輪で「温もりを中央に置かない」

 朝、影の輪へ向かうと、輪は静かに呼吸していた。

 中心の空席は空席のまま。

 その周りに、微妙な温度差がある。

 人が立つ位置によって、少しずつ違う。

 少女が輪の外で言った。

「節子、今日はね……

 温もりを、

 真ん中に集めなかったよ」

 少年は頷いた。

 真ん中に集めると、皆がそこへ寄る。

 寄れば、押し合いになる。

 押し合いになれば、熱になる。

 熱は、争いを呼ぶ。

 ——そのままで、

 ——いい温度だよ。

 節子の声が、背骨の奥でそう言った気がした。

 少年は、その声を追わなかった。

 追わないことで、温度は均されない。

 輪の縁に腰を下ろし、背中を影に預ける。

 肌寒さが少しある。

 だが寒すぎない。

 温かさが少しある。

 だが近づきすぎない。

 焼け跡の朝は、

 同じ温度を約束しない。

 それでも、差を残したまま、穏やかに続く。

 少年は、近づきすぎない温もりが、

 人を長く生かすことを、身体で覚えつつあった。

(第百二十章につづく)

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

コメント

コメントする

目次