佐藤愛子を模倣し、野坂昭如の「火垂るの墓」時代を題材にした完全オリジナル長編小説『灰の味――或る少年の季節』第百十四章・第百十五

目次

第百十四章 灯の一滴──影が「与えすぎない水」を選んだ夜

 夜、少年は水の音を聞いた。

 ぽと、と落ちる音。

 大きな流れではない。

 桶をひっくり返すような派手さもない。

 ただ、一滴。

 一滴は、渇きを裏切らない。

 一滴は、渇きを誇張もしない。

 渇いたままの喉に、生きるだけの合図を入れる。

 昼の乾きが身体に残ったまま、夜の湿り気が戻ってくる。

 湿り気は救いに似ているが、救いではない。

 救いと思った瞬間、欲が起きる。

 欲が起きると、飲み干したくなる。

 飲み干せば、また渇く。

 渇きは悪ではないが、渇きに振り回されるのは疲れる。

 灯は戻らない。

 渇きは隠さない。

 その次に必要なのは、与えすぎないことだと少年は思った。

 一滴でいい夜がある。

 一滴で足りないなら、足りないままでいい夜がある。

 夜は、足りないものを無理に満たさなくても、通り過ぎていく。

 ——水ってね、

 ——たくさんあるときほど、

 ——一滴が分からなくなるんだよ。

 節子の声が背骨の奥でそう言った気がした。

 少年は、その声に返事をしなかった。

 返事の代わりに、耳を澄ませた。

 ぽと、ぽと。

 落ちる音は、夜の中で小さく確かだった。

 

  • ■影の道で「濡れた石を踏まない」

 夜の影の道には、雨の名残が残っていた。

 濡れた石は滑る。

 滑れば転ぶ。

 転べば、痛い。

 痛ければ、怒りが起きる。

 怒りが起きれば、欲が起きる。

 欲が起きれば、奪いたくなる。

 少年は、濡れた石を避けた。

 避けることは臆病ではない。

 生活の計算だ。

 痛みを減らせば、余計な欲が起きない。

 少女が言った。

「水の上、行かないんだね」

「今日は、行かない」

「うん。

 水は、

 踏むより聞くほうがいい夜がある」

 少年は頷いた。

 踏めば水は散る。

 散れば、泥になる。

 泥は足を重くする。

 重くなれば、渇きが増える。

 だから、踏まない。

 ただ、音だけ聞く。

 

  • ■黒板の字が「滴」で止まり、「洪」は書かれない

 夜の自習室に入ると、黒板には一字だけ書かれていた。

 ■滴

 滴るの「滴」。

 洪水の「洪」ではない。

 教員は黒板を見て言った。

「今日は、一滴の話をする」

 生徒の何人かが笑いそうになって、やめた。

 一滴は小さすぎて、授業にならないように思える。

 だが生活は、小さすぎるもので出来ている。

「戦争は、

 一滴を無視した。

 一滴の命。

 一滴の疲れ。

 一滴の涙」

 少年の胸が、ひりついた。

 節子の涙は、一滴だった。

 あの一滴を無視した日がある。

「生活は、

 一滴を数えない」

 教員は続けた。

「数えないが、

 見落とさない」

 その違いが、少年には大きかった。

 数えると、管理になる。

 管理になると、奪い合いになる。

 見落とさないだけなら、優しさで済む。

「一滴は、

 与えすぎないための形だ」

 少年は紙に書いた。

 短く。

 ——一滴で止める

 止めることは、拒絶ではない。

 過剰を避ける作法だ。

 

  • ■炊き出しの列で「水が回る」

 夜の炊き出しで、青年が小さな桶を持ってきた。

 中身は水だ。

 椀ではない。

 飲むための水。

 だが、誰もが好きなだけ飲めるわけではない。

 一人、二口。

 青年は量を決めなかった。

 だが、皆が自然に二口で止めた。

 二口目のあと、少しだけ口の端を拭い、桶を次へ回す。

 誰も説明しない。

 説明がないから、誇らない。

 誇らないから、欲が起きない。

 少年は二口飲んで止めた。

 喉はまだ渇いている。

 だが、渇きは暴れない。

 二口は、渇きを消すためではなく、渇きと並んで歩くための量だ。

 少女が小さく言った。

「止めたね」

「うん。

 止めるのも、

 流れだ」

 少年は、止めたことで胸が軽くなるのを感じた。

 飲み干さなかった自分を、今日だけは褒めもしない。

 褒めれば、次はもっとやりたくなる。

 もっとやりたくなると、過剰になる。

 過剰は、生活を壊す。

 

  • ■釜戸の前で「水を一滴だけ」落とす

 家に戻ると、少年は釜戸の前に座り、灰の上に水を一滴だけ落とした。

 ぽと。

 音がした。

 湯気はほとんど立たない。

 灰が少しだけ色を変える。

 少女が目を細めた。

「なに、それ」

「埃が立ちそうだった」

「たくさんかけないの?」

「かけると、泥になる」

 泥は重い。

 重いと、また背負う。

 背負えば、また捨てたくなる。

 捨てたくなれば、乱暴になる。

 乱暴になれば、奪う。

 奪えば、また渇く。

 一滴は、その連鎖を止める。

 止めるが、渇きを消さない。

 消さないから、嘘にならない。

 

  • ■影の輪で「与えすぎない優しさ」を置く

 夜、影の輪へ向かうと、輪は静かに呼吸していた。

 中心の空席。

 火種の空き。

 戻り角。

 静脈の通り道。

 渇きの乾いた空間。

 それらが詰まらずに並んでいる。

 少女が輪の外で言った。

「節子、今日はね……

 与えすぎない水を、

 選んだよ」

 少年は、その言葉を胸に置いた。

 与えすぎない。

 それは冷たさではない。

 生活の温度の守り方だ。

 ——一滴で、

 ——十分な夜があるよ。

 節子の声が、背骨の奥でそう言った気がした。

 少年は、その声を追わなかった。

 追わないことで、声は水の音に混じる。

 水の音に混じれば、誰のものでもない優しさになる。

 輪の縁に腰を下ろし、背中を影に預ける。

 喉はまだ渇いている。

 だが、渇きの中に一滴がある。

 一滴は、渇きを消さない。

 消さないから、明日へ続く。

 焼け跡の夜は冷える。

 それでも、ぽと、と落ちる一滴が、

 生活の続き方を教えていた。

第百十五章 灯の分け前──影が「足りないまま分ける」朝

 朝、少年は昨日の一滴の音を、まだ耳の奥に残したまま目を覚ました。

 音は消えているのに、残っている。

 余熱と同じだ。

 余熱は火のあとに残る。

 音の余熱は、静けさのあとに残る。

 その余熱があると、人は少しだけ落ち着いた手つきで一日を始められる。

 喉の渇きは残っていた。

 だからといって、水を探し回る気持ちは起きない。

 一滴を知った夜のあとでは、渇きは“敵”ではなくなる。

 敵ではないものに、勝とうとしなくていい。

 勝とうとしないと、分け前のことを考えられる。

 分け前。

 奪う前に、分ける前に、まず“足りない”という前提を受け入れること。

 灯は戻らない。

 だが灯が戻らない世界には、足りないものが常にある。

 足りないから争うのではない。

 足りないから分け方が生まれる。

 少年は、足りないまま分ける作法が、戦後の生活を支えているのを、朝の空気の中ではっきり感じた。

 ——分け前ってね、

 ——公平の話じゃないんだよ。

——続けるための話だよ。

 節子の声が背骨の奥でそう言った気がした。

 少年は、その声に返事をしなかった。

 返事の代わりに、今日の空を見て、深く息を吸った。

 続けるため。

 それだけで十分だ。

 

  • ■影の道で「拾われないパン屑」を見る

 影の道の端に、乾いたパン屑のようなものが落ちていた。

 戦前なら誰も見向きもしないような欠片。

 戦中なら奪い合いになった欠片。

 戦後の今は、誰も拾わない欠片。

 少年はそれを見て、拾わなかった。

 拾えば口に入る。

 だが口に入れれば、次も拾いたくなる。

 拾いたくなれば、目が尖る。

 目が尖れば、他人の手元を見る。

 他人の手元を見れば、争いが生まれる。

 少女が言った。

「拾わないんだね」

「拾うと、

 分け前が崩れる」

「うん。

 分け前は、

小さな欲で壊れる」

 少年は、パン屑の近くを避けて歩いた。

 避けることで、欠片は欠片のまま残る。

 残ることで、誰かが“必要なとき”に拾える。

 必要なときは、必ず来る。

 そのときのために、今日の欲を引く。

 

  • ■黒板の字が「分」で止まり、「取」は書かれない

 教室に入ると、黒板には一字だけ書かれていた。

 ■分

 分けるの「分」。

取るの「取」ではない。

 教員は、字を指して言った。

「今日は、分け前の話をする」

 生徒たちは、少し緊張した。

 分け前は、争いに直結する。

 だが教員は、争いの話を先にしなかった。

「戦争は、

分け前を命令にした。

配給。

割当。

規則」

 少年は、配給の列で怒鳴り声が飛んだ日を思い出した。

 命令の分け前は、必ず誰かを恨ませる。

「生活の分け前は、

目線で決まる」

 教員は続けた。

「目線というのは、

欲の目線ではない。

続ける目線だ」

 黒板の「分」の字の横に、教員は小さく線を一本だけ引いた。

 分ける線。

だが太くしない。

太くすれば境界になる。

境界になれば、また敵と味方が生まれる。

「今日は、

“足りないまま分けた経験”を、

思い出せ」

 少年は思い出した。

節子と分けた最後の飴。

半分に割れなかった飴を、舐める回数で分けた。

公平ではない。

だが、続けるためだった。

舐める回数を数えたのではない。

笑った回数を覚えている。

 

  • ■炊き出しの列で「最後の一杯を二つにする」

 朝の炊き出しで、鍋の底が見えた。

 列の最後に、二人の子どもが並んでいる。

片方は昨日、炭をもらいに来た子かもしれない。

違うかもしれない。

それでも、同じ年頃の細い肩が二つ並ぶと、空気が少し重くなる。

 青年が柄杓を沈め、少し考えるように止めた。

掬える量は、一杯分しかない。

だが青年は、柄杓を引き上げず、鍋の縁で静かに揺らした。

揺らすことで、具が均等になる。

均等というより、“偏らない”状態になる。

 そして、二つの椀に、半分ずつ注いだ。

正確な半分ではない。

だが、どちらも同じ湯気が立った。

 子どもたちは、礼を深くしなかった。

深くすると負い目になる。

負い目は、次の争いの種になる。

だから軽く頭を下げ、椀を抱え、黙って去った。

 列は乱れなかった。

誰も拍手もしない。

正しいことをした顔をしない。

それが、分け前を“続けるもの”にする。

 少年はその光景を見て、胸が静かに温かくなるのを感じた。

足りないまま分けることは、善行ではない。

生活の呼吸だ。

 

  • ■釜戸の前で「二つに割れないもの」をそのまま置く

 家に戻ると、少年は釜戸の前に座り、

小さな薪を一本手に取った。

折れば二本になる。

だが折らない。

折ると、燃え方が荒くなる。

荒くなれば、灰が舞う。

灰が舞えば、咳が出る。

咳が出れば、水が欲しくなる。

水が欲しくなれば、渇きが暴れる。

 少年は一本をそのまま置いた。

置く位置を少しずらす。

空気の通り道を塞がない。

分けるのではなく、配置で分ける。

それも分け前だ。

 少女が言った。

「割らないんだね」

「割れないものは、

割らない」

「うん。

割らない優しさもある」

 少年は、その言葉を胸に入れた。

割らない。

それは独占ではない。

荒れないための作法だ。

 

  • ■影の輪で「分け前を席にしない」

朝、影の輪へ向かうと、輪は静かだった。 
中心の空席は空席のまま。 
火種の空きも、起こされないまま。 
戻り角は外側に置かれ、静脈の通り道は塞がれていない。 
渇きの乾いた空間も、まだそこにある。

 少女が輪の外で言った。

「節子、今日はね……

分け前を、席にしなかったよ」

 少年は頷いた。

分け前を席にすると、

人はそこに座って“取り分”を監視する。

監視すれば、疑いが増える。

疑いが増えれば、輪は閉じる。

閉じれば、息が詰まる。

息が詰まれば、灯を呼び戻す熱が生まれる。

分け前は、席ではない。 
通り道だ。 
渡り方だ。 
今日の炊き出しの半分ずつは、 
その渡り方のひとつの形だった。

——足りないままでも、 
——分けられるよ。 

節子の声が、背骨の奥でそう言った気がした。 
少年は、その声を追わなかった。 
追わないことで、声は誰のものでもなくなり、 
分け前の作法の中に溶ける。

 輪の縁に腰を下ろし、背中を影に預ける。

胸の奥に、足りないという事実がある。

だが、その事実は、もう恐怖ではない。

足りないから、分けられる。

分けられるから、続く。

 焼け跡の朝は、

満ち足りることを約束しない。

それでも、半分ずつの湯気が立つ瞬間が、確かにある。

少年は、その湯気の白さを、赦しとも裁きとも呼ばないまま、

ただ、今日の分として受け取った。

(第百十六章につづく)

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