佐藤愛子を模倣し、野坂昭如の「火垂るの墓」時代を題材にした完全オリジナル長編小説『灰の味――或る少年の季節』

目次

第百十二章 灯の静脈──影が「流れを止めない」朝

 朝、少年は自分の身体の中に、細い流れがあるのを感じた。

 音を立てない流れ。

 急がない流れ。

 止めようとしても止まらず、掴もうとしても形を持たない流れ。

 それは血の流れに似ているが、血そのものではない。

 もっと静かで、もっと確かな、生活の静脈のようなものだ。

 灯は戻らない。

 戻り角は外側に置かれ、輪は閉じないまま保たれている。

 その配置が、胸の内側に“通り道”を作った。

 行き先を決めない通り道。

 速度を強いない通り道。

 足さず、掘らず、起こさない通り道。

 少年は、今日の朝、その通り道を塞がないことだけを心に決めた。

 ——流れってね、

 ——信じるって言葉より、

 ——邪魔しないって言葉のほうが近いよ。

 節子の声が、背骨の奥でそう言った気がした。

 少年は、その声に返事をしなかった。

 返事は、流れを止める。

 止めないために、ただ息を続ける。

 

  • ■影の道で「水の跡」を辿らない

 影の道には、夜の雨の跡が残っていた。

 水は溝を作り、瓦礫の隙間を通り、低いところへ集まる。

 誰かが石を動かせば、流れは変わる。

 だが少年は、石に触れなかった。

 少女が言った。

「詰まってるところ、直さないの?」

「今日は、

 直さない」

「うん。

 流れは、

 遠回りでも辿り着く」

 少年は、溝の先を見なかった。

 先を見れば、整えたくなる。

 整えたくなれば、手を出す。

 手を出せば、流れは人のものになる。

 人のものになった流れは、責任を連れてくる。

 今日は、責任を増やさない朝だ。

 水は、音もなく、曲がり角を回って消えた。

 消えたのではない。

 見えないところへ行っただけだ。

 見えないからこそ、信じられる。

 

  • ■黒板の字が「流」で止まり、「向」は書かれない

 教室に入ると、黒板には一字だけ書かれていた。

 ■流

 流れるの「流」。

 向かう先を示す矢印も、目的を示す言葉もない。

 教員は、黒板を見てから言った。

「今日は、流れの話をする」

 生徒たちは、身構えなかった。

 流れは、命令になりにくい。

 命令になりにくいものは、身体に残る。

「戦争は、

 流れを一本にした。

 向かえ。

 集まれ。

 逸れるな」

 少年は、逸れた者が責められた日々を思い出した。

 逸れることが罪になった時間。

「生活の流れは、

 枝分かれする」

 教員は続けた。

「枝分かれは、

 弱さではない。

 詰まりを防ぐための形だ」

 少年は紙に短く書いた。

 ——塞がない

 それだけで十分だった。

 少女は、窓際で光の動きを見ていた。

 光もまた、枝分かれして教室に入ってくる。

 

  • ■炊き出しの列で「遅い人が先になる」

 朝の炊き出しで、列の途中が自然に入れ替わった。

 足の悪い人が一歩前に出る。

 背の高い人が半歩下がる。

 誰も号令をかけない。

 だが、列は滞らない。

 青年が小さく言った。

「流れだ」

 それだけだ。

 誰も反論しない。

 流れは、正しさの議論を必要としない。

 少年は、椀を受け取る位置で一歩ずれた。

 ずれたことで、後ろの人が楽になる。

 楽になることで、前が進む。

 進むことで、全体が温まる。

 流れは、誰か一人の善意ではできない。

 誰もが、少しずつ邪魔をしないことで生まれる。

 

  • ■釜戸の前で、火の通り道を残す

 家に戻ると、少年は釜戸の前に立ち、灰を少しだけ均した。

 掘り起こさない。

 吹き込まない。

 ただ、空気の通り道を塞がないように、指で軽く整える。

 少女が言った。

「起こす気?」

「起こさない。

 通すだけ」

 通す。

 それは起こすための準備ではない。

 余熱があるなら、余熱が呼吸できるように。

 冷えているなら、冷えが逃げられるように。

 少年は、火を管理しない。

 流れを管理しない。

 管理しないことで、事故は減る。

 事故が減ることで、生活は長く続く。

 

  • ■影の輪で「静脈の位置」を確かめる

 朝、影の輪へ向かうと、輪は静かに呼吸していた。

 中心の空席。

 起こされない火種の空き。

 外側の戻り角。

 それらを結ぶ、見えない線。

 線というより、通り道だ。

 少女が輪の外で言った。

「節子、今日はね……

 流れを止めなかったよ」

 少年は、輪の内側で、自分の脈が落ち着いているのを感じた。

 速くも遅くもない。

 ただ、通っている。

 ——止めないで、

 ——ありがとう。

 節子の声が、背骨の奥でそう言った気がした。

 少年は、その声を追わなかった。

 追わないことで、声は流れに混じる。

 流れに混じれば、誰のものでもなくなる。

 輪の縁に腰を下ろし、背中を影に預ける。

 胸の奥に、静かな静脈がある。

 それは、悲しみを運ぶだけの道ではない。

 息も、温度も、今日の白さも、すべてを運ぶ。

 焼け跡の朝は、

 流れを命じない。

 だが、止めなければ、確かに運ぶ。

 少年は、灯を起こさないまま、

 灯が通った跡を、静脈として生かすことを選んだ。

第百十三章 灯の乾き──影が「渇きを隠さない」昼

 昼、少年は喉の奥がひりつくのを感じた。

 水がないわけではない。

 口を潤すことはできる。

 それでも、渇きは残る。

 渇きは、欠乏とは違う。

 満たせば消えるものではない。

 満たしても、残る感覚だ。

 灯は戻らない。

 流れは止めない。

 その作法を守る朝を越え、昼の熱が身体に触れると、渇きは姿を現す。

 少年は、これまで渇きを“悪い兆候”として扱ってきた。

 渇けば、急いで水を探し、理由をつけ、埋め合わせを考えた。

 だが今日は、渇きを隠さないことを選んだ。

 隠さなければ、渇きは暴れない。

 暴れなければ、生活は続く。

 ——渇きってね、

 ——生きてる証拠なんだよ。

 ——無くすものじゃない。

 節子の声が、背骨の奥でそう言った気がした。

 少年は、その声に水を与えなかった。

 声を潤す必要はない。

 渇いたまま、そこに居させる。

 それが今日の昼の作法だった。

 

  • ■影の道で「乾いた音」を聞く

 影の道を歩くと、靴底が砂利を噛む音が乾いている。

 湿り気のある音ではない。

 ぱり、と短く割れる音。

 耳に残らないが、確かに聞こえる。

 少女が言った。

「音、乾いてるね」

「昼だ」

「うん。

 乾く時間だ」

 少年は歩調を変えなかった。

 音を消そうともしない。

 乾いた音は、昼の印だ。

 夜の湿り気と同じように、時間の輪郭を教える。

 瓦礫の影に入ると、音は少し柔らぐ。

 影は、水ではないが、音を和らげる。

 渇きの中にも、和らぐ場所はある。

 探さなくても、歩いていれば通りかかる。

 

  • ■黒板の字が「乾」で止まり、「渇」は書かれない

 教室に入ると、黒板には一字だけ書かれていた。

 ■乾

 乾く。

 だが、渇くではない。

 教員は、字を指して言った。

「今日は、乾きの話をする」

 生徒の何人かが水筒に手を伸ばしかけて、やめた。

 乾きの話は、喉を刺激する。

「戦争は、

 乾きを隠した。

 喉の乾き。

 心の乾き」

 少年は、行軍の写真を思い出した。

 乾いた顔。

 だが写真には、渇きは写らない。

「生活は、

 乾きを隠さない」

 教員は続けた。

「乾きは、

 欲しがる理由にはならない。

 生きる速度を教えるだけだ」

 少年は紙に短く書いた。

 ——渇いたまま

 それは我慢ではない。

 認める、という意味だ。

 

  • ■炊き出しの列で「一口残す」

 昼の炊き出しで、今日は汁が少なかった。

 少年は椀を受け取り、

 一口分を残した。

 飲めば、全部なくなる。

 なくなれば、渇きが目立つ。

 残せば、渇きは渇きのまま、輪郭を保つ。

 青年が見て、何も言わなかった。

 残すことが許される列。

 それは、争いを生まない。

 少女が小さく言った。

「残したね」

「うん。

 今日は、

 残す日だ」

 残すことは、贅沢ではない。

 渇きを誇張しないための作法だ。

 

  • ■釜戸の前で「水を足さない」

 家に戻ると、少年は釜戸の前に座った。

 灰は乾いている。

 水をかければ、埃は立たない。

 だが水はかけない。

 少女が言った。

「埃、気になる?」

「気になる。

 でも、

 今日は乾かす」

 乾かす時間があるから、

 次の湿り気が生きる。

 すべてを常に湿らせていれば、

 腐る。

 少年は、乾いた空気を吸い、吐いた。

 喉はまだ渇いている。

 だが、息は通る。

 

  • ■影の輪で「渇きの席」を作らない

 昼、影の輪へ向かうと、

 輪は静かに保たれていた。

 中心の空席。

 起こされない火種。

 戻り角。

 静脈の通り道。

 そのどれにも、“渇きの席”はない。

 少女が輪の外で言った。

「節子、今日はね……

 渇きを、

 席にしなかったよ」

 少年は、その言葉に深く頷いた。

 渇きを席にすると、

 人はそこへ座り続けてしまう。

 座り続ければ、渇きは身分になる。

 身分になれば、奪い合いが始まる。

 渇きは、通過するものだ。

 通過するから、流れと同じだ。

 ——乾いたままでも、

 ——歩けるよ。

 節子の声が、

 風に混じってそう言った気がした。

 少年は、その声を追わなかった。

 追わないことで、喉は急がない。

 輪の縁に腰を下ろし、背中を影に預ける。

 胸の奥に、乾いた空間がある。

 だが空虚ではない。

 乾きは、次に何を選ばないかを教える。

 焼け跡の昼は、

 水を約束しない。

 だが、歩けるだけの乾きは残す。

 少年は、渇きを隠さないまま、

 それでも歩けることを、静かに確かめていた。

(第百十四章につづく)

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