第百十章 灯の輪郭──影が「ぼやけた境」を肯定した夕方
夕方、少年は物の輪郭が少しずつ溶けていくのを感じた。
昼の白さが去り、夜の濃さが来るまでの短い時間。
色は減り、影は伸び、境目は曖昧になる。
この時間帯は、物事にはっきりした答えを与えない。
少年は、その曖昧さに身を置くことを、今日は恐れなかった。
灯は戻らない。
白さは責めも赦しもしなかった。
そのあとに来る夕方は、白でも黒でもない。
少年は、はっきりしない輪郭が、生活にとって必要だということを、ようやく受け入れ始めていた。
輪郭がはっきりしすぎると、人はそれを掴もうとする。
掴もうとすると、傷つく。
ぼやけていれば、手は自然に下がる。
——輪郭はね、
——近づきすぎると痛いんだよ。
節子の声が、背骨の奥でそう言った気がした。
少年は、夕方の空を見上げ、その言葉を風に溶かした。
輪郭を掴まない。
ただ、そこにあることを認める。
- ■影の道で「形を失う瓦礫」を見る
影の道を歩くと、昼間には角ばって見えた瓦礫が、夕方の光の中で丸く見える。
角は消えたわけではない。
だが、影がそれを覆い、尖りを目立たなくしている。
少女が言った。
「昼だと、危ない角だったね」
「夕方だと、
近づきすぎなければ大丈夫だ」
「うん。
輪郭が、
触る距離を教えてる」
少年は、瓦礫に触れずに通り過ぎた。
触れなくても、形は分かる。
分かるだけで十分なものが、この世界には多い。
- ■黒板の字が「界」で止まり、「境」は書かれない
教室に入ると、黒板には一字だけ書かれていた。
■界
境界の「界」。
だが、「境」は書かれていない。
教員は、字を眺めながら言った。
「今日は、境目の話をする」
生徒たちは、静かに聞いた。
境目は、線で引くものだと思われがちだ。
だが教員は、線の話をしなかった。
「戦争は、
境を太く引いた。
敵と味方。
内と外」
少年は、線の外に立たされた人々を思い出した。
線は、安心もくれるが、追放もする。
「生活の境目は、
線じゃない」
教員は続けた。
「夕方のようなものだ。
白でも黒でもない。
ぼやけていて、
だが、確かに分かれている」
少年は紙に書いた。
——触らない距離
それは逃げではない。
守るための距離だ。
- ■炊き出しの列で「順番が曖昧になる」
夕方の炊き出しでは、列がきれいに揃わなかった。
誰が先で、誰が後か、少し曖昧だ。
だが混乱は起きない。
青年が言った。
「前後、
好きなほうで」
曖昧な指示だが、それで十分だった。
人は、自分が入りたい場所を見つける。
押し合いも、怒鳴り合いも起きない。
少年は、曖昧な列の中で、胸が楽になるのを感じた。
はっきりした順番は、競争を生む。
曖昧な順番は、譲り合いを生む。
- ■釜戸の前で「火と影の境」を見る
家に戻ると、少年は釜戸の前に立った。
火はない。
だが、影は残っている。
影は、火があった場所を示す輪郭だ。
少年は、影をなぞらなかった。
なぞれば、火を思い出しすぎる。
思い出しすぎれば、起こしたくなる。
夕方は、なぞらない時間だ。
少女が言った。
「ここ、
火だった場所だね」
「うん。
でも今は、
影だ」
影は、火の不在を責めない。
火があったことを、ただ示すだけだ。
- ■影の輪で「ぼやけた席」を残す
夜に近い夕方、影の輪へ向かうと、
輪の中心の空席が、少しだけ曖昧に見えた。
はっきりした空白ではない。
だが、埋まってもいない。
少女が輪の外で言った。
「節子、今日はね……
輪郭を、
はっきりさせなかったよ」
少年は、その言葉に安堵した。
はっきりさせないことは、逃げではない。
触らないための作法だ。
——それで、
——いい。
節子の声が、夕方の風に溶けた気がした。
少年は、その声を追わなかった。
追わないことで、輪郭は守られる。
輪の縁に腰を下ろし、背中を影に預ける。
白と黒の間。
はっきりしないが、落ち着く場所。
少年は、境がぼやけたままでも、生活が続くことを、身体で覚え始めていた。
焼け跡の夕方は、
答えを出さない。
だが、答えを急がなくていいことを、確かに教えていた。
第百十一章 灯の戻り角──影が「振り返らない振り返り」を覚えた夜

夜、少年は道の角で立ち止まり、胸の奥がふっと“後ろ”へ引かれるのを感じた。
引かれる、といっても、足が戻ろうとしたわけではない。
身体は前を向いたまま、呼吸も乱れない。
ただ、視線の内側だけが、ほんの少し過去へ触れた。
触れたと思った瞬間に、もう離れている。
それは振り返りではなく、戻り角に似ていた。
角。
道が折れる場所。
曲がれば見えなくなる。
見えなくなるが、消えるわけではない。
角の向こうに、さっきまで歩いてきた道が残る。
残るからこそ、人は安心して曲がれる。
灯は戻らない。
白さも黒さも、夕方のぼやけた境も、今日は一度胸にしまわれている。
代わりに夜が、角ばった影を連れてくる。
夜の影は輪郭をはっきりさせる。
はっきりさせるのに、掴ませない。
その矛盾が、少年にはちょうどよかった。
——振り返るのってね、
——戻るためじゃないよ。
——曲がるためだよ。
節子の声が、背骨の奥でそう言った気がした。
少年は、今夜はその言葉に軽く頷きそうになって、やめた。
頷くと“正しい教え”になってしまう。
正しい教えになると、角は直線に戻る。
直線に戻れば、また急がされる。
だから、頷かない。
ただ、角に立ち、風の匂いを嗅いだ。
- ■影の道で「角だけが濃い」
影の道を歩くと、道の角だけがひどく濃い。
瓦礫が影を集め、壁の残骸が風を止め、そこに夜の湿り気が溜まる。
角は、影のたまり場だ。
人も、角で立ち止まりやすい。
だから角には、言葉にならないものが集まる。
少年は角の手前で、足を止めた。
戻るためではない。
曲がるための呼吸をひとつ置く。
少女が横で言った。
「角、好き?」
「好きじゃない」
「うん。
でも、逃げないね」
少年は肩をすくめた。
好き嫌いで生活は回らない。
角があるから、道は続く。
角の影の濃さは、恐怖に似ている。
だが恐怖と違うのは、角は必ず、先へ続く線を持っていることだ。
影が濃いからといって、そこで終わらない。
終わらない影。
それが角の影だ。
- ■黒板の字が「戻」で止まり、「帰」は書かれない
夜の自習室に入ると、黒板には一字だけ書かれていた。
■戻
戻る。
だが、帰るではない。
帰は書かれていない。
帰と戻は似ているが、違う。
帰るには家が要る。
戻るには角が要る。
教員は黒板を見て、短く言った。
「今日は、戻る話をする」
生徒の何人かが顔をこわばらせた。
戻るという言葉は、戦後の空気にとって危険だ。
戻れないものが多すぎる。
戻ると言った瞬間、戻れない者は責められる。
教員はその気配を見て、声の調子を落とした。
「戦争は、
戻ることを奪った。
戻る家を燃やし、
戻る人を失わせ、
戻る言葉を壊した」
少年は節子の小さな手を思い出した。
握り返せなかった手。
戻れない手。
教員は続けた。
「だから今日は、
戻ることを“目的”にしない」
黒板の「戻」の字を、指でなぞりかけて、やめる。
「戻るのは、
曲がるためだ。
曲がるために、
一度だけ後ろを思い出す。
それでいい」
少年の胸の奥が、少しだけほどけた。
目的にしない戻り。
それなら、怖くない。
「“戻ったのに戻らなかったもの”を一つ、心に置け」
教員はそう言った。
少年は心の中で選んだ。
——節子の声。
声は戻ったように聞こえる。
だが、節子は戻らない。
戻らないまま、角でだけ、風に混じる。
それが、今夜の戻り角だ。
- ■炊き出しの列で「最後尾が角になる」
夜の炊き出しの列は、途中で折れ曲がっていた。
人が多いから、列は角を作る。
角の内側に立つ者は前が見えない。
外側に立つ者は、鍋が見える。
見え方が違うだけで、不安の量が変わる。
少年は角の内側に立った。
鍋が見えない。
だが、見えないことで焦らない。
見えない時間が、呼吸を整える。
青年が角に来て、一言だけ言った。
「ここで一回、止まれ」
列が止まる。
角の人間だけが止まる。
前の直線は進む。
進むが、角が詰まらないから、全体が荒れない。
角は、列の余白だ。
余白は、争いを減らす。
少年はその仕組みを見て、胸の奥の角も同じだと思った。
心の列が折れ曲がる場所。
そこで一度止まれれば、前は進める。
配られた椀を受け取るとき、少年は量を見なかった。
今日は、見えないまま受け取る日だ。
見えないことに意味を足さない。
それが角の作法だ。
- ■釜戸の前で「戻り角の息」を置く
家に戻ると、少年は釜戸の前に座った。
火は起こさない。
灰も掘らない。
余熱は、あるかもしれない。
だが探さない。
探さないまま、息だけ置く。
息を置く。
それは何もしないのとは違う。
“ここに居る”を、身体で確認することだ。
少女が言った。
「今日は、戻った?」
少年は少し考えてから答えた。
「戻ってない。
でも、思い出した」
「うん。
それでいいよ。
思い出すのは、曲がるため」
少年は掌を膝の上で開いた。
掴まない。
触れない。
持たない。
その手が、今夜は“角で止まる手”になる。
節子のことを、名前のまま思い出すと苦しい。
だから、灯として思い出してしまいそうになる。
灯として思い出すと楽だ。
楽だが、楽すぎると作り物になる。
今夜は、その間を選んだ。
節子。
灯。
どちらでもない、角の風の匂い。
その匂いだけを吸って、吐いた。
- ■影の輪で「戻り角」を輪に入れない
夜、影の輪へ向かうと、輪はいつも通り、閉じないまま保たれていた。
中心の空席は空席のままだ。
火種の席も、起こされないまま空いている。
名づけない距離が、輪の内側に息を通している。
だが今夜、輪の外側に、ひとつ濃い影ができていた。
道の角のような影。
輪の中に入らない影。
入らないが、離れてもいない。
少女が輪の外で言った。
「節子、今日はね……
戻り角を、輪に入れなかったよ」
少年は、その言葉の意味をすぐに理解した。
戻り角は、輪の中心に置くと、目的になる。
目的になれば、皆がそこへ集まってしまう。
集まれば、影が重なり、空気が詰まる。
詰まれば、息ができない。
息ができなくなれば、灯を呼び戻す熱が生まれる。
戻り角は、外側に置く。
外側に置くことで、必要なときだけ立ち寄れる。
立ち寄っても、そこに住まない。
住まないから、角は角のまま保たれる。
——そこ、
——住まなくていいんだよ。
節子の声が、背骨の奥でそう言った気がした。
少年は返事をしなかった。
返事をしないことで、角は固定されない。
固定されない角は、自由だ。
少年は輪の縁に腰を下ろし、背中を影に預けた。
輪の中心は空席。
輪の外側に戻り角。
その配置が、胸の内側にもできている。
思い出す場所がある。
だが、そこに居続けない。
居続けないから、生活が前へ進む。
前へ進むから、角が意味を持つ。
焼け跡の夜は冷たい。
けれど、冷たさの中に、角の湿り気が残る。
湿り気は涙に似ている。
だが涙ではない。
涙と呼ばない湿り気が、少年の目の奥にほんの少しだけ生まれ、すぐに消えた。
消えたから、嘘にならない。
嘘にならないから、明日も歩ける。
少年は、振り返らない振り返りを、今日ひとつ覚えた。
戻らない灯のために、角だけを残し、角でだけ息をし、角を住処にしない。
その作法が、夜の影の中で静かに形になっていった。
(第百十二章につづく)

コメント