第百八章 灯の明け方──影が「起きる前」を受け入れた朝
明け方、少年はまだ暗さの残る空を見上げ、夜と朝の境目に立っていた。
立っている、というより、置かれている。
夜が去り、朝が来る、その間に、人の意思が入り込む余地はほとんどない。
火種を起こさないと決めた夜のあと、世界は勝手に、明るさの方向へ傾き始める。
それを見届けるだけでいい朝だった。
灯は戻らない。
だが、余熱は冷えきらず、火種は眠ったまま、生きている。
起こさない決意は、何かを止めるためのものではなかった。
起きる前を信じるための作法だったのだと、少年はこの時間になって理解した。
——起きる前ってね、
——一番、嘘がつけない時間なんだよ。
節子の声が、背骨の奥でそう言った気がした。
少年は、空の色が少しずつ変わるのを見て、その言葉に返事をしなかった。
返事はいらない。
空がすでに答えている。
- ■影の道が「名を持たない明るさ」を連れてくる
影の道を歩くと、影が薄くなっていく。
消えるわけではない。
輪郭が、ほどける。
夜の影は、くっきりと存在を主張するが、明け方の影は、場所に溶ける。
少女が言った。
「影、なくならないね」
「形をやめてる」
「うん。
居るのをやめないまま、
主張をやめるって感じ」
少年は、その言い方が好きだった。
節子も、そうだった。
居ることをやめたのではない。
主張をやめただけだ。
だから、戻らなくても、世界から消えない。
道の瓦礫が、夜よりも穏やかに見える。
危険は減っていない。
ただ、見える範囲が増えた。
見える範囲が増えると、人は急がなくなる。
- ■黒板に「朝」という字は書かれない
教室に入ると、黒板は白いままだった。
「朝」も、「明」も、「起」も、書かれていない。
教員は窓を少しだけ開け、外の光を入れた。
「今日は、
始まりの話をしない」
生徒たちは驚かなかった。
最近は、“しない”授業が増えている。
だが、それは放棄ではない。
余計な始まりを作らないための配慮だ。
「戦争は、
始まりを誇張した。
開戦。
出発。
第一歩」
少年は、号令の音を思い出した。
始まりが大きいほど、戻れなくなる。
「生活は、
始まらないまま、
始まっている」
教員はそう言って、
窓の外を指さした。
「今朝も、
誰の合図もなく明るくなった」
少年は、その光を見て、胸が少しだけ軽くなるのを感じた。
始めなくていい朝。
それは、起きる前を許す朝だ。
- ■炊き出しの列で「朝の湯気」が言葉を奪う
朝の炊き出しでは、鍋から立つ湯気が、まだ白く重い。
匂いが先に届き、味は後から来る。
誰も、今日の出来を評価しない。
朝は、評価に向かない時間だ。
青年が言った。
「熱いぞ」
それだけだ。
うまいとも、薄いとも言わない。
熱い、という事実だけが共有される。
少年は椀を受け取り、湯気に顔を近づけすぎない。
近づけば、急いで飲んでしまう。
急げば、火傷をする。
起きる前の朝は、待つ作法が必要だ。
- ■釜戸の前で、火を起こさない朝
家に戻ると、少年は釜戸の前に立ち、
昨夜の灰をそのままにしておいた。
掘らない。
吹き込まない。
だが、灰は冷たくなりきっていない。
少女が言った。
「起こさなくても、
朝は来たね」
「うん。
来るんだな」
少年は、その事実に少し驚いた。
火を起こさなくても、
灯を呼ばなくても、
朝は来る。
それは残酷でもあり、救いでもある。
朝が来るということは、
夜の作法が間違っていなかったという証拠でもある。
- ■影の輪で「夜と朝の境」を閉じない
朝、影の輪へ向かうと、
輪はまだ解けていなかった。
だが、夜ほど濃くもない。
輪は、夜と朝の両方を含んでいる。
少女が輪の外で言った。
「節子、今日はね……
起きる前の時間を、
そのままにしたよ」
少年は、輪の中心の空席を見た。
灯は戻らない。
だが、戻らない灯が、朝の輪郭を少し柔らかくしている。
——起きなくていい朝も、
——あるんだよ。
節子の声が、
空気の中に溶けるように響いた気がした。
少年は、その声を追わなかった。
追わないことで、朝は急がない。
輪の縁に腰を下ろし、背中を影に預ける。
夜でもなく、完全な朝でもない時間。
そこに居ることが、今日は許されている。
焼け跡の明け方は、
何かを始めろと迫らない。
ただ、明るくなる。
少年は、その明るさの中で、
起きる前の自分を、初めて肯定した。
第百九章 灯の白さ──影が「赦しに似た光」を見た昼

昼、少年は瓦礫の隙間から差し込む光が、いつもより白いことに気づいた。
白い光は、優しいようでいて、容赦がない。
影を薄くし、汚れを浮かび上がらせ、隠していたものを見せる。
それでも、その白さは責めているわけではない。
責める白さと、赦す白さは似ている。
違いは、こちらが身構えるかどうかだ。
灯は戻らない。
火種は起こさない。
明け方を受け入れたその次に、昼の白さが来る。
白さは、始まりを誇張しない代わりに、今あるものをそのまま照らす。
少年は、その照らされ方に耐えられるかを試されている気がした。
だが、試されていると思った瞬間、白さは試験になる。
試験になると、また点数を取りたくなる。
点数を取りたくなると、灯を呼び戻したくなる。
だから少年は、白さを“赦し”と呼ばないことにした。
呼べば、その言葉に寄りかかってしまう。
寄りかかれば、また何かを足す。
足さない暮らしの中で、白さは白さのままに置くのがちょうどいい。
——白いってね、
——正しいって意味じゃないんだよ。
——隠さないってだけ。
節子の声が背骨の奥でそう言った気がした。
少年は、その声にも名前をつけなかった。
赦しでも、慰めでも、裁きでもない。
ただ、隠さない光の中で聞こえた気配だ。
- ■影の道で「埃が光る」
影の道を歩くと、光の筋の中で埃が舞っていた。
埃は汚れだ。
だが光に照らされると、埃は汚れというより粒になる。
粒は、責められない。
粒は、ただそこにある。
少女が言った。
「汚いのに、きれいだね」
「光のせいだ」
「うん。
光は、
汚れを“汚れのまま”見せるんだよ」
少年は、埃の粒を目で追った。
掴めない。
止められない。
でも、見える。
見えるだけで、十分だと思えた。
白さは、過去を消さない。
過去の灰を洗い流さない。
ただ、灰が灰であることを見せる。
それが、赦しに似ている。
- ■黒板の字が「白」で止まり、意味を付けない
教室に入ると、黒板には一字だけ書かれていた。
■白
教員は、字を指さして言った。
「今日は、白について話す」
白は、善悪の色だと思われがちだ。
だが教員は、善悪の話をしなかった。
「戦争は、白を利用した。
正しさの白。
清さの白。
潔白の白」
少年は、潔白という言葉が嫌いだった。
潔白を証明しろと言われると、人は嘘をつく。
嘘をつけば、また誰かが責められる。
「生活の白は、
もっと卑近だ」
教員は続けた。
「湯気の白。
米の白。
骨の白。
埃の白」
骨の白、という言葉に、教室が一瞬、冷えた。
だが教員は言葉を足さなかった。
足さないことで、白は白のまま残る。
「白は、
赦しではない。
裁きでもない。
ただ、隠れない状態だ」
少年は紙に書かなかった。
白は書くと濁る気がした。
少女も書かなかった。
二人はただ、黒板の「白」を見た。
- ■炊き出しの列で「白い湯気」が沈黙を作る
昼の炊き出しで、鍋から立つ湯気が白かった。
白い湯気は、人の口を塞ぐ。
うまいとも、まずいとも言う前に、
鼻の奥が熱くなり、目が潤む。
それを涙と呼ぶと、また意味が足される。
だから、誰も言わない。
青年は鍋を見て、短く言った。
「今日は、白いな」
それだけで、皆が頷いた。
白い湯気は、評価ではなく共有だった。
少年は椀を受け取り、湯気の向こうの人の顔をぼんやり見た。
顔の輪郭が溶ける。
人は、人として主張を減らす。
その減り方が、今日の白さに合っていた。
- ■釜戸の前で「灰の白」を見て動かさない
家に戻ると、釜戸の灰が白くなっているのが見えた。
黒い炭が白くなるのは、燃え尽きた証拠だ。
だが燃え尽きたから終わりではない。
灰は土に混ざり、次の火の下地になる。
少年は灰を動かさなかった。
白さを崩さない。
崩せば、また黒が出てくる。
黒が出てくれば、何かを掘り起こしたくなる。
掘り起こせば、火種を起こしたくなる。
起こしたくなれば、灯を呼び戻したくなる。
今日の白さは、掘らないための合図だ。
少女が言った。
「白は、
“ここまで”の印だね」
少年は頷いた。
ここまで。
それは諦めではない。
区切りだ。
- ■影の輪で「赦しと呼ばない光」を置く
夜、影の輪へ向かうと、輪は昨日より薄い。
昼の白さが、まだ残っている。
中心の空席は変わらない。
灯は戻らない。
だが、空席の周りの空気が、少し澄んで見えた。
少女が輪の外で言った。
「節子、今日はね……
赦しって言わない光を、
置いてみたよ」
少年はその言葉を胸に入れた。
赦しと呼ばない。
呼ばないことで、光は誰のものにもならない。
誰のものにもならないから、押しつけにもならない。
——白いだけで、
——十分。
節子の声が、背骨の奥でそう言った気がした。
少年は、その声を追わなかった。
追わないことで、白さは濁らない。
輪の縁に腰を下ろし、背中を影に預ける。
影は薄い。
だが消えてはいない。
白さの中で影が残ることが、
今日は不思議と心強かった。
焼け跡の昼は、
赦しを名乗らずに、ただ照らす。
少年は、隠さない光の中で、
隠さずに生きる練習を続けていた。
(第百十章につづく)

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