第百六章 灯の余熱──影が「消えたあと」を信じた昼
昼、少年は掌に残る温かさの理由を考えなかった。
火に触れたわけではない。
灯が戻ったわけでもない。
それでも、掌はほんのりと温かい。
その温かさは、触れた記憶ではなく、触れなかった時間から来ているように思えた。
余熱。
燃えている最中の熱ではない。
消えたあとに残る熱。
誰かに見せるためのものでも、利用するためのものでもない。
ただ、そこにある。
灯は戻らない。
だが、戻らない灯のあとに残る余熱が、生活の形をゆっくり変えている。
少年は、その変化を急いで言葉にしなかった。
言葉にすれば、余熱は説明になってしまう。
説明になれば、また役目を負わされる。
——余熱はね、
——使おうとすると冷めるんだよ。
節子の声が、背骨の奥でそう言った気がした。
少年は、その声に答えなかった。
答えないことで、余熱は余熱のまま、掌に留まった。
- ■影の道で「冷えない石」を踏む
影の道を歩くと、夜露で濡れた石が点々と光っていた。
朝の冷えが残るはずの時間だ。
だが、ある石だけが、わずかに温かい。
昨日まで焚き火があった場所だ。
少年は、その石を踏んだ。
熱くはない。
だが、冷たくもない。
足裏に伝わるのは、使われたあとの温度だった。
少女が言った。
「もう、火はないのにね」
「残ってる」
「うん。
でも、残ってるからって、
火を探さなくていい」
少年は頷いた。
余熱は、火を呼び戻す合図ではない。
火があったことを、静かに肯定するだけだ。
- ■黒板の字が「余」で始まり「熱」で終わらない
教室に入ると、黒板には二字が書かれていた。
■余
それだけだ。
「熱」は書かれていない。
教員は、黒板を見ながら言った。
「今日は、余りの話をする」
余り。
足りなかった残りではない。
使われたあとに残るもの。
「戦争は、
余りを切り捨てた。
余った力。
余った時間。
余った命」
少年の胸が、わずかに痛んだ。
余った命。
節子は、余りではなかった。
だが、そう扱われた時間が確かにあった。
「生活は、
余りを拾い上げる」
教員は続けた。
「余りは、
役に立たないから残るのではない。
役に立てようとしないから残る」
少年は、その言葉に救われた気がした。
余熱も、同じだ。
役に立てようとしなければ、残る。
紙に書くことは求められなかった。
余りは、書かれない方が長生きする。
- ■炊き出しの列で「冷めきらない鍋」が置かれる
昼の炊き出しで、
一つの鍋が火から下ろされ、脇に置かれた。
配り終えた鍋だ。
中身はほとんどない。
だが、湯気がかすかに立っている。
誰も、その鍋を急いで洗わない。
洗えば、余熱は消える。
消えれば、次の火入れが荒くなる。
青年が言った。
「少し、置いとけ」
理由は言わない。
理由を言えば、余熱は仕事になる。
仕事になれば、休むことが許されなくなる。
少年は、その鍋を見て、
胸の奥に残る温度を重ねた。
今は、置いておく時間だ。
- ■釜戸の前で、灰を動かさない
家に戻ると、少年は釜戸の前に座った。
火はない。
薪もない。
だが、灰の中に、微かな温かさがある。
少年は、灰をかき回さなかった。
掘り起こさなかった。
余熱を探さない。
少女が言った。
「探すと、
冷めるよ」
「分かってる」
分かっている、という言葉が、今日は重くならなかった。
分かっているから、何もしない。
それが、余熱を守る唯一の方法だった。
- ■影の輪で「冷めない時間」を数えない
夜、影の輪へ向かうと、
輪の中心の空席は、相変わらず静かだった。
灯は戻らない。
だが、輪の内側は、どこか温かい。
少女が輪の外で言った。
「節子、今日はね……
消えたあとの時間を、
信じてみたよ」
少年は、その言葉に深く息を吐いた。
消えたあとは、空白ではない。
余熱の時間だ。
使おうとせず、
数えもせず、
ただ、そこにあると信じる時間。
——冷めるまで、
——ここに居ていい。
節子の声が、
そう言った気がした。
少年は、その声を抱えなかった。
抱えないことで、余熱は自分のものではなくなる。
自分のものではなくなるから、長く続く。
輪の縁に腰を下ろし、背中を影に預ける。
胸の奥に、
消えたあとを信じる静けさがある。
それは希望ではない。
約束でもない。
ただ、残っているという感覚だ。
焼け跡の昼は、
今日も淡く明るい。
少年は、余熱の中で、
次に火を起こす日を急がずに待つことを覚え始めていた。
第百七章 灯の火種──影が「起こさない決意」を守った夜

夜、少年は釜戸の前で、ふいに自分の指が“火を起こす形”になっているのに気づいた。
薪を組む。
紙を丸める。
息を吹き込む。
そういう手つきが、身体に染みついている。
余熱が残っているときほど、人は次の火を起こしたくなる。
余熱は誘惑だ。
温かいから、続けたくなる。
続ければ、温かさは確かに増える。
だが、増えた温かさは、ときに荒れる。
灯は戻らない。
だが余熱はある。
余熱があるから、火種を起こせる気がする。
火種を起こせば、灯を呼び戻せる気がする。
少年は、その連想の危険さを知っていた。
呼び戻す熱は、臨界を越えやすい。
臨界を越えれば、生活はまた命令の形に戻る。
——火種ってね、
——起こせるから起こすんじゃないんだよ。
——起こさない日があるから、火種は生きるんだよ。
節子の声が背骨の奥でそう言った気がした。
少年は、今日はその声に少しだけ従ってみることにした。
起こさない。
起こさないことで、火種を殺さない。
矛盾のようで、生活の矛盾はいつもそういう形で成り立っていた。
- ■影の道で「焚き火跡」を踏み壊さない
夜の影の道には、昼に見た焚き火跡がまだ残っていた。
灰が丸く、中心が少し黒い。
踏めば簡単に崩れる。
崩せば、明日の誰かが迷わなくて済むかもしれない。
だが、踏み壊さない。
少女が言った。
「残すんだね」
「使える跡は、残す」
「うん。
壊さないのも、守ることだよ」
少年は焚き火跡の縁を避けて歩いた。
避ける距離は、名づけない距離と似ている。
近づかないが、無視しない。
焚き火跡は、ここで火があったという記録だ。
記録は、壊さないほうがいい日がある。
- ■黒板の字が「種」だけになった
夜の自習室の黒板に、誰かが一字だけ書いていた。
■種
火種の種。
種は、育てようとしすぎると枯れる。
放っておけば消える。
その間(あわい)に、種は生きる。
教員は黒板を見て言った。
「今日は、種の話をする」
生徒たちは不思議そうな顔をしたが、誰も笑わなかった。
種は、笑うには近すぎるものだった。
次の季節の生活が、種にかかっている。
「戦争は、種を燃やした。
未来の種を燃やし、
子どもの種を燃やし、
考える種を燃やした」
少年は、胸の奥が少し痛むのを感じた。
節子の命も、未来の種だった。
「生活は、種を起こさない日を持つ」
教員は続けた。
「起こさない。
掘り返さない。
急いで芽を出させない。
それが、種を生かす」
少年は紙に書いた。
短く。
——今日は、起こさない
それだけで、胸が少し楽になった。
書いたのは決意ではなく、作法の確認だ。
- ■炊き出しの列で「明日のための残り火」を守る
夜の炊き出しで、青年が火のそばに立っていた。
鍋は空だ。
配り終えている。
だが火は完全には消していない。
小さな赤が残っている。
誰かが言った。
「もう、消しちまえ」
青年は首を振った。
「明日の火入れが楽になる」
その言葉に、誰も反論しなかった。
だが青年は、残り火に薪を足さない。
起こさない。
守るだけだ。
少年は、その手つきを見て、胸の内側が静かになるのを感じた。
起こすことと、守ることは違う。
守るためには、起こさない日が必要だ。
- ■釜戸の前で、少年が「息を吹き込まない」
家に戻ると、少年は釜戸の前に座り、灰の中の温度を感じた。
探さない。
掘らない。
ただ、あることを認める。
息を吹き込めば、火は起きるかもしれない。
だが吹き込まない。
吹き込まないことで、余熱は余熱のまま保たれる。
少女が言った。
「吹き込みたかった?」
少年は少し黙ってから答えた。
「うん。
でも、
吹き込まないほうが、
節子が楽そうだ」
少女は頷いた。
呼び戻される灯は、働かされる灯だ。
戻らない灯は、休める灯だ。
- ■影の輪で「火種の席」を空ける
夜、影の輪へ向かうと、
中心の空席の近くに、小さな空きが一つあった。
席というより、灰のような空き。
ここに火種が来てもいいし、来なくてもいい。
そういう場所。
少女が輪の外で言った。
「節子、今日はね……
火種の席を、
起こさないまま空けたよ」
少年は、その空きを見つめた。
起こさない空き。
足さない空き。
名づけない空き。
それらが、輪の中で静かに呼吸している。
——起こさないでくれて、
——ありがとう。
節子の声が、風に混じってそう言った気がした。
少年は、返事をしなかった。
返事を足すと、火が起きてしまう気がした。
輪の縁に腰を下ろし、背中を影に預ける。
胸の奥に、
起こさない決意がある。
決意というほど硬くはない。
作法としての柔らかさ。
それが、火種を殺さない。
焼け跡の夜は冷える。
だが、冷えの中で、火種は眠る。
眠る火種を起こさないでいられることが、
少年の新しい強さ——いや、
新しい“静けさ”だった。
(第百八章につづく)

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