第百四章 灯の受け渡し──影が「渡さないまま渡す」夜
夜、少年はふと、自分の中にあるものが誰かへ移っている気配を感じた。
移るといっても、言葉で教えたわけではない。
手渡したわけでも、説明したわけでもない。
ただ、今日一日の立ち方、椀の持ち方、列の並び方、火の見方——そういう細い所作が、誰かの目に触れて、誰かの身体に写っていく。
渡す。
だが、渡したという実感がない。
その不思議が、少年の胸を少しだけ熱くした。
灯は戻らない。
それでも灯が消えたわけではない、という確かさが、いつの間にか「自分だけのもの」ではなくなっている。
少年は気づいた。
灯を独り占めしない作法は、灯そのものだけでなく、灯が作った暮らし方も独り占めしない作法へつながっている。
——渡すってね、
——持ってるって顔をしないことだよ。
節子の声が背骨の奥でそう言った気がした。
少年は頷かなかった。
頷けば、また“教訓”にしてしまう。
教訓にすれば、渡すのではなく押しつけになる。
だから、頷かない。
ただ、夜の湿った空気を吸って、吐いた。
- ■影の道で「真似された歩幅」を見る
影の道を歩くと、前を行く子どもがいた。
背中が小さく、肩が尖っていて、服が少し大きい。
年は少年より下だろう。
その子どもは、瓦礫の多い場所で足を止め、半歩ずつ歩幅を小さくした。
足を置く場所を先に見て、手は余計に動かさない。
転ばない速さ。
急がない歩幅。
少年はその所作に見覚えがあった。
自分が最近、意識せずにやっていた歩き方だ。
少女が小さく笑った。
「真似されたね」
「俺が教えたわけじゃない」
「教えないで渡るのが、いちばん強いよ」
少年は言い返せなかった。
強いという言葉は嫌いだ。
戦争の言葉に似ている。
だが、少女の言う“強い”は、押しつけない強さだ。
生き延びるための作法が、声を使わずに移っていく。
子どもは瓦礫を抜けると、振り返らずに別の道へ消えた。
礼もない。
だが、礼がないほうがいいと少年は思った。
礼があると取引になる。
取引になると、受け渡しは重くなる。
渡す。
渡した感覚がないまま、渡っていく。
それが、夜の影の道の自然な流れだった。
- ■黒板の字が「伝」で止まり、「授」は書かれない
夜の自習室の黒板に、誰かが一字だけ書いていた。
■伝
伝えるの「伝」。
だが、「授」はない。
授ける、という字がない。
教える側と教わる側を分けない字だけが、ぽつんと残っている。
教員は黒板を見て、珍しく眉を上げた。
それから、チョークを取って何かを書き足すかと思ったが、しなかった。
代わりに言った。
「伝えるのは簡単だ。
だが、授けるとなると難しくなる」
少年は、胸の奥で何かが引っかかった。
授ける。
それは上から下へ渡す形だ。
戦時中、授ける言葉は命令と一緒に降ってきた。
疑う余地のない“正しさ”として。
「生活で必要なのは、
授けることではない」
教員は続けた。
「隣に置いておくことだ。
見れば分かる形で、
だが、取るかどうかは相手に任せる」
黒板の「伝」の字は、そのまま残された。
少年は紙に書こうとして、やめた。
今日は余白の日ではないが、書かない行もまた受け渡しの一部だと思えた。
書かないことで、押しつけを避ける。
少女は窓の外を見ている。
その横顔が、何かを“教えない”ままに、教えているように見えた。
- ■炊き出しの列で「置かれた匙」が次の人へ渡る
夜の炊き出しでは、鍋の横に小さな木の匙が置かれていた。
柄が擦り減り、先が少し欠けている。
誰のものか分からない。
だが、誰も持ち去らない。
汁を掬う柄杓は大きすぎるときがある。
一口だけ足したいとき、柄杓では溢れてしまう。
そんなとき、人は黙ってその匙を使う。
使い終わると、元の場所に戻す。
洗う者もいれば、拭くだけの者もいる。
どちらでもいい。
青年が言った。
「それ、持って帰るなよ」
注意ではない。
怒りでもない。
確認の声だ。
列の誰かが小さく笑い、別の誰かが頷く。
匙は、渡されたのではない。
置かれているだけだ。
置かれているから、渡る。
持ち主の名がないから、争いにならない。
少年は思った。
灯も同じだ。
戻らない灯は、誰のものでもなくなりつつある。
だから、誰かの胸に“置かれる”ことができる。
奪われず、独占されず、押しつけられず。
- ■釜戸の前で、少年が「炭」を分ける
家に戻ると、釜戸の灰の中に、まだ形の残った炭がいくつかあった。
少年はそれを集め、紙切れに包もうとした。
包みかけて、手が止まる。
自分のために取っておくのか。
記録のためか。
火のためか。
すると、戸口に小さな影が現れた。
昼間、影の道で見た子どもだった。
同じ子どもかどうかは分からない。
だが、服の大きさと、目の光の弱さが似ている。
「……炭、分けてくれ」
子どもはそう言った。
声は小さい。
頼んでいるのに、命令の形を怖がっている声だ。
少年は、すぐには頷かなかった。
頷けば“与える側”になってしまう。
与える側は、いつの間にか持ち主になる。
持ち主になると、相手の使い方に口を出したくなる。
少年は紙切れを広げ、炭を二つだけ置いた。
多すぎない。
少なすぎない。
それを子どもの前に、黙って滑らせた。
子どもは炭を取り、深く礼をしなかった。
軽く頭を下げただけだ。
それでいい。
礼が深いと、負い目が増える。
子どもが帰りかけたとき、少年は一言だけ言った。
「火、荒らすなよ」
忠告の形をした、生活の注意。
上からの命令ではない。
火を見たことのある者の、同じ側からの声。
子どもは短く「うん」と答え、去った。
少年は、釜戸の前に残った炭を見た。
減った。
だが、減ったことで胸が冷えたわけではない。
むしろ、空気が通った。
——渡したのに、
——奪われた気がしない。
その感覚が、少年には新しかった。
- ■影の輪で「渡した痕跡」を残さない
夜、影の輪へ向かうと、輪の席はいつも通りだった。
余計な席はない。
名のない空きはある。
だが、今日の輪には、少しだけ違う匂いが混じっていた。
たぶん、さっきの子どもの匂いだ。
炭の匂いと、雨上がりの土の匂い。
少女が輪の外で言った。
「節子、今日はね……
渡したのに、痕を残さなかったよ」
少年は、その言葉に頷きそうになってやめた。
頷いてしまうと、“良いことをした”顔になる。
良いことをした顔は、次の受け渡しを汚す。
輪の中心の空席は黙っている。
灯は戻らない。
戻らないまま、どこかで誰かの手元を少しだけ温めているのかもしれない。
それは想像でしかない。
だが、想像で十分だった。
確かめない確かさ。
触らない理解。
足さない暮らし。
それらが、今夜は“渡さないまま渡す”という形になって、輪の上に置かれている。
少年は縁に腰を下ろし、背中を影に預けた。
胸の奥は静かだった。
静かだが、空ではない。
記録の一行。
折られた余白。
置かれた重さ。
合わせた速度。
引いた言葉。
そして、今夜の炭の二つ。
どれも、大きな出来事ではない。
だが、生活は大きな出来事では動かない。
小さな受け渡しが、夜を進める。
——渡しても、減らないものがあるんだよ。
節子の声が、背骨の奥でそう言った気がした。
少年は、その声を追わなかった。
追わないことで、声は“誰のものでもない”まま残る。
影の輪は閉じない。
閉じないから、出入りができる。
出入りができるから、受け渡しが起きる。
少年は、今日の自分の手が、少しだけ別の手になったことを感じた。
掴む手ではない。
教える手でもない。
奪う手でもない。
ただ、置く手。
滑らせる手。
空にする手。
焼け跡の夜は冷たい。
だが、冷たさの中で、人の手が渡し合う小さな熱だけが、確かに続いていた。
第百五章 灯の間(あわい)──影が「名づけない距離」を知った朝

朝、少年は目を覚ますと、胸の奥に名前のつかない距離が生まれているのを感じた。
遠いわけではない。
近すぎるわけでもない。
触れれば崩れ、離れれば冷える、そのあわい。
距離に名前をつけないことで、距離は初めて、働き始める。
灯は戻らない。
受け渡しは、渡した感触を残さずに終わった。
その翌朝に現れたのが、この距離だ。
奪わず、教えず、置くだけの手が、世界との間に作った余白。
それは余白というより、間だった。
——間ってね、
——埋めるためにあるんじゃないんだよ。
——呼吸が通るためにある。
節子の声が背骨の奥でそう言った気がした。
少年は、今日はその声を否定もしなかった。
肯定もしない。
名づけない距離は、肯定と否定の外に置くのがちょうどいい。
- ■影の道で「並ばない並び方」を覚える
影の道を歩くと、前にも後ろにも、人がいる。
だが、並ばない。
列を作らない。
一定の間隔で、ばらばらに進む。
それぞれが、誰かの背中を目印にしない歩き方だ。
少女が言った。
「今日は、
間が揃ってるね」
「揃ってるのに、
同じじゃないな」
「うん。
名づけない距離は、
勝手に整う」
少年は、歩幅を意識しなかった。
速度も数えなかった。
前の人を追いもしない。
後ろの人を待ちもしない。
それでも、瓦礫の角でぶつからない。
ぶつからないための合図が、距離そのものに含まれている。
誰かが咳をした。
誰かが足を止めた。
だが、流れは乱れない。
距離に名前がないから、誰も指示を出さない。
指示がないから、責任が偏らない。
- ■黒板の字が「間」で止まり、読み方を示さない
教室に入ると、黒板には一字だけ書かれていた。
■間
読み仮名はない。
「あいだ」か、「ま」か、「あわい」か。
どれでもいい。
教員は、字を指さして言った。
「今日は、間の話をする」
生徒たちは、身構えなかった。
間は、試験にならない。
点数にならない。
だから、怖くない。
「戦争は、
間を嫌った。
詰めろ。
縮めろ。
急げ」
少年は、間が詰められた日々を思い出した。
列と列の間。
命令と命令の間。
考える余地が消えた時間。
「生活は、
間を残す」
教員は続けた。
「間は、
責任を分ける。
息を分ける。
沈黙を分ける」
黒板の「間」は、そのまま残された。
説明は足されない。
足されないことで、字は働く。
少年は紙に、書かなかった。
今日は、書かないことが学びだった。
少女も同じだ。
二人の前に、同じ字があるが、読みは違う。
違っていて、いい。
- ■炊き出しの列で「一歩分の空き」が守られる
朝の炊き出しでは、列と鍋の間に、
一歩分の空きが保たれていた。
詰めれば、二人は入れる。
だが、詰めない。
青年が言った。
「そこ、空けとけ」
命令ではない。
作法の確認だ。
空きがあると、
鍋を持つ人が動きやすい。
椀を差し出す人が、焦らずに済む。
こぼれても、怒りにならない。
少年は、その一歩分を見て、胸が軽くなるのを感じた。
距離は、冷たさではない。
事故を防ぐ温度だ。
- ■釜戸の前で、火と自分の間を測る
家に戻ると、少年は釜戸の前に立ち、
火に近づきすぎない位置を選んだ。
暖かい。
だが、顔は熱くならない。
手を伸ばせば届く。
だが、触らない。
少女が言った。
「いい間だね」
「近いと、
急いでしまう」
「遠いと、
忘れる」
少年は頷いた。
名づけない距離は、
忘れさせないし、急がせない。
灯が戻らない場所に、
適切な間が生まれている。
- ■影の輪で「近づかない近さ」を保つ
夜、影の輪へ向かうと、
輪の中心の空席は、
前より少しだけ広く感じられた。
席は増えていない。
だが、周りが詰めていない。
少女が輪の外で言った。
「節子、今日はね……
近づかない近さを、
残したよ」
少年は、その言葉を胸に置いた。
近づかない。
だが、離れない。
その距離は、名前を持たないから、壊れない。
——そのままで、
——大丈夫。
節子の声が、
風に混じってそう言った気がした。
少年は、
その声を追わなかった。
追わないことで、
距離が保たれる。
輪の縁に腰を下ろし、背中を影に預ける。
胸の奥に、
名づけない間がある。
それは、空虚ではない。
満ちすぎてもいない。
ただ、呼吸が通る。
焼け跡の朝は、
今日も音を立てずに進む。
少年は、世界との距離を、
名前なしで扱えるようになり始めていた。
(百六章につづく)

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