第五章 沈黙の果てに
春の終わり、東京の空は淡い光で満たされていた。
杉本圭介は、取材ノートと録音機を鞄に入れ、ゆっくりと足を進めていた。
行き先は、都心の片隅にある古い教会。
そこでは、沢村信也の「追悼の祈り」が、理沙の主催で行われることになっていた。
もう、あの葬儀から一年が経つ。
教会の門をくぐると、薄い香の匂いが漂ってきた。
小さな花壇には色とりどりのチューリップが咲き、静かな午後の風に揺れている。
建物の中からは、ピアノの音がかすかに聞こえていた。
その旋律は祈りのようであり、また赦しのようでもあった。
*
聖堂の奥、白い祭壇の前で、理沙がマイクを持っていた。
彼女はかつての教団被害者の家族を支援し続けており、いまは独立して小さなNPOを運営している。
彼女の背後には、「祈りの集い」と書かれた手書きの垂れ幕。
誰のためでもなく、すべての人のための祈りだ。
「――私たちは、信じることを恐れてはいけません」
理沙の声は、穏やかで力強かった。
「たとえ裏切られても、たとえ沈黙が続いても、祈ることをやめてはいけません。
祈りは、声にならない叫びを、誰かの心に届けてくれるからです」
その言葉に、杉本は胸を突かれた。
――かつて、彼は「信じること」を否定して生きてきた。
報道の世界で、信じる者を疑い、祈る者を分析し、悲しみを記事にしてきた。
だが、沢村の最期、理沙の涙、息子の手紙――
そのすべてが、信仰の表現ではなく、“人の声”だったのだ。
彼は聖堂の片隅で静かに手を合わせた。
祈り方など知らない。
けれど、心の奥で誰かの名を呼ぶことが、祈りであるなら――
いま、自分は確かに祈っている。
*
集会が終わると、理沙が杉本に歩み寄った。
「来てくれて、ありがとう」
「君の話、胸に響いたよ。祈りは声にならない……沢村さんがそう言ってたね」
理沙は頷き、少し遠くを見つめた。
「でも、私は思うの。沈黙の中にも“声”はある。
聞こうとする心があれば、誰でもその声に気づけるのだと」
二人のあいだに、言葉にならない静けさが流れた。
外の空は明るく、窓のステンドグラスに光が反射している。
それはまるで、世界そのものが祈っているようだった。
*
その夜、杉本は原稿机に向かっていた。
新聞社を退いた彼は、今、フリーのジャーナリストとして活動している。
けれど、以前のような「スクープ」や「告発」はもう書かない。
代わりに、人々の小さな声――沈黙の中の祈りを記すことを選んだ。
パソコンの画面には、新しい記事のタイトルが浮かんでいた。
> 『沈黙の祈祷――光の声を聴く』
キーボードを叩く指が、いつになく軽い。
彼は取材で出会った人々の顔を思い出しながら、ひとつひとつの言葉を紡いでいった。
・信じることを奪われた母親
・教団から逃げ出した青年
・父を赦した息子
・そして、祈りの中で再生した自分自身
それは単なる記事ではなかった。
人生の記録であり、人間という存在の証だった。
*
翌朝。
杉本は再び、神保町の喫茶店に立ち寄った。
かつて理沙と何度も語り合った場所。
テーブルの上には、朝刊とノートパソコンが置かれている。
モーニングの湯気がゆっくりと立ち上る。
新聞の社会面には、見慣れた名前があった。
「宗教二世問題、再発防止へ――被害者家族の訴え」
記事の署名欄には、若い記者の名前。
かつて自分が指導した後輩だった。
杉本は微笑んだ。
“声”は受け継がれている。
自分が撒いた小さな言葉の種が、誰かの中で芽を出し、いまも光を求めている。
「沈黙は終わらない。
でも、その沈黙の向こうには、きっと光がある」
彼は小さく呟き、コーヒーを飲み干した。
窓の外では、春の光が街を包み込んでいる。
*
その日、杉本は教会へ向かった。
理沙に頼まれて、沢村信也の墓前に記事のコピーを供えるためだった。
墓地は静かで、風の音と鳥のさえずりだけが聞こえる。
彼は花を手向け、目を閉じた。
> 沈黙の果てに、
> 祈りは声となり、
> 声は光になる。
沢村のノートに書かれていた最後の言葉を、彼はそっと呟いた。
そのとき、空から柔らかな風が吹き抜けた。
木々の間を通り抜けた光が、墓碑に反射してきらめいた。
――まるで、答えるように。
杉本は目を開け、穏やかに微笑んだ。
世界は変わらない。
けれど、人の心は変われる。
祈る心がある限り、沈黙の中にも光は生まれる。
*
帰り道、彼は小さな子どもたちの笑い声を耳にした。
教会近くの公園で、数人の子どもがボールを追いかけている。
その中の一人が転び、泣き出した。
駆け寄った母親が優しく抱きしめる。
杉本はその光景を見つめながら、胸の奥で静かに思った。
――人はこうして、何度でも立ち上がるのだ。
空は澄み、雲の切れ間から柔らかな光が差していた。
それは、誰にも見えない“祈りの声”のように、街全体を包み込んでいた。
*
夜。
杉本は机の上に沢村のノートを置き、最後のページを開いた。
そこには、震えるような筆跡でこう記されていた。
> “沈黙の祈祷は終わらない。
> なぜなら、祈りとは、
> 生き続けることそのものだから。”
彼は深く息を吸い、ゆっくりとノートを閉じた。
窓の外には、月が静かに浮かんでいる。
光は遠く、しかし確かに届いていた。
――沈黙の果てに、光の声が響いている。
それが、人間という存在の証であり、
この物語の終わり、そして新たな祈りの始まりだった。
(完)

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