第三章 赦しの声
雨が降っていた。
六月の東京。梅雨の匂いが街を包み、アスファルトの上を静かな雨粒が叩いていた。
杉本圭介は、古びた傘を手に、取材ノートを胸に抱きしめながら歩いていた。
向かう先は、杉並の住宅街にある一軒の小さな家だった。
その家に、かつて旧統一教会の地方支部で活動していたという男性が住んでいる――
そう理沙から聞かされたのは二日前のことだった。
男の名前は沢村信也(さわむら・しんや)。
信仰を失った元幹部でありながら、いまだに“赦し”という言葉を口にするという。
「彼は、あなたと話したがっていました」と理沙は言った。
「もう一度、人の声で祈りたいと」
*
木造二階建ての家の玄関先でチャイムを押すと、しばらくしてゆっくりと扉が開いた。
現れたのは、七十歳前後の男性だった。背は低く、痩せている。
しかし、その瞳は驚くほど澄んでいた。
「杉本さんですね。……待っていました」
「沢村さん、お時間をいただきありがとうございます」
二人は狭い廊下を抜け、畳の部屋に通された。
壁には古いカレンダーと、色あせた教会の写真が一枚だけ貼られていた。
湯飲みから立ちのぼる湯気が、湿った空気に揺れている。
「私は、あの団体で三十年、生きてきました」
沢村はゆっくりと語り始めた。
「家も仕事も、家族も失いました。
でも、いまでも“あの祈り”が耳に残っている。
――“我らの罪を赦したまえ”。
あの言葉だけは、どうしても忘れられないんです」
杉本は無言でペンを走らせた。
雨の音が窓の外で静かに響く。
沢村の声は、まるで懺悔のようでもあり、救いを求めるようでもあった。
「私は、たくさんの人を勧誘しました。
“あなたの魂は救われる”と信じて……いや、信じたかったんでしょう。
でも、ある時、息子が私にこう言ったんです。
『父さんは、神様の代わりに“お金”を信じてるだけだ』と。
その言葉が胸に刺さって、抜けなくなった」
沢村はカップを両手で包み、目を閉じた。
「息子は、その後、家を出て行きました。
もう十年以上、会っていません。
でも、最近になって……夢を見るんです。
息子が子どもの頃の夢を。
小さな手で私の指を握って、“お祈りしよう”って言うんです。
その時の私の声が、どうしても思い出せない」
杉本は息をのんだ。
――祈りの言葉を忘れた男。
それは、信仰を失った者の姿ではなく、人間そのものの“赦し”への渇望だった。
*
その夜、杉本は自宅の机に向かい、取材ノートを開いた。
沢村の言葉がページの上で静かに広がっていく。
「赦し」とは何か。
「祈り」とは誰のためにあるのか。
その問いは、彼自身に跳ね返ってきた。
――自分は、何を赦せずに生きてきたのか。
彼は若いころ、報道の現場で多くの人を追い詰めてきた。
スクープのために、誰かの涙を切り捨て、記事にしてきた。
その中には、今でも夢に出てくる女性がいる。
彼女は教団信者の娘で、杉本の記事によって家族が崩壊したのだ。
「あなたの記事は、正義かもしれない。
でも、私にとっては“裁き”でした」
あの時の声が、今でも耳に残っている。
自分の言葉が、人を救うのではなく傷つけた――
その罪を、彼は一度も赦していなかった。
*
翌朝、杉本は理沙に連絡を入れた。
「もう一度、沢村さんに会いたい」
彼女は少し沈黙してから言った。
「……実は、昨日の夜、沢村さんが倒れたそうです。病院に運ばれました」
その瞬間、電話の向こうの世界が遠ざかったように感じた。
杉本は傘も持たずに外へ飛び出した。
雨がまだ残る街を、タクシーを拾い、病院へ向かった。
*
病室は白い光に満ちていた。
沢村は点滴を受けながら静かに横たわっていた。
枕元には、手帳のような小さなノートが置かれていた。
「……杉本さん」
掠れた声で沢村が言った。
「これを……あなたに」
杉本はノートを開いた。
そこには、震える文字でこう書かれていた。
> “赦しとは、忘れることではない。
> 忘れずに、なお祈ることだ。”
涙が滲んだ。
沢村の目は穏やかで、すでにどこか遠くを見ていた。
「……息子に、会いたかった。
でも、もしこの声が届くなら、
“父さんは、やっと祈れるようになった”と伝えてほしい」
彼の声が、静かに途切れた。
モニターの音が短く鳴り、沈黙が訪れた。
*
病院の外に出ると、雨が上がっていた。
空には薄く虹がかかっている。
杉本は空を見上げながら、ポケットの中のノートを握りしめた。
風が頬を撫でた。
その風の中に、確かに“声”があった。
――赦しなさい。あなた自身を。
それは、沢村の声ではなかった。
けれど、誰の声でもないその囁きが、胸の奥で響いていた。
*
数日後、杉本は沢村の息子を探し出した。
SNSを辿り、地元の連絡網を通して、ようやく連絡が取れた。
「お父さんのことを伝えたい」と告げると、電話の向こうで長い沈黙が続いた。
やがて、若い男性の声が聞こえた。
「……父は、まだ“信じて”いたんですね」
「ええ。でも、信仰ではなく、人を」
「……そうですか」
短い会話だった。
しかし、その一言に、すべてが救われた気がした。
*
夜、杉本は自宅の窓を開けた。
風が部屋に入り、机の上のノートをめくった。
沢村の文字が光のように浮かび上がる。
> “祈りは、声を持たない。
> けれど、それは必ず届く。
> 神にではなく、人に。”
杉本はそっと目を閉じた。
あの雨の日の匂いが、まだどこかに残っている。
自分の中にも、祈る心が生きている――
それに気づいたとき、胸の奥が静かに温かくなった。
*
“沈黙”はもう、恐怖ではなかった。
それは、赦しが語りかけてくる場所なのだ。
誰かを裁くためではなく、
誰かを想い続けるための、優しい沈黙。
杉本はペンを取り、ノートの最後のページに書き加えた。
> “光の声とは、赦しの声である。
> そしてそれは、人が人を想うとき、
> かならずどこかで響いている。”
窓の外では、遠くで教会の鐘が鳴った。
その音は、もう神の声ではなく、
人間の祈りそのもののように聞こえた。
第四章 光の彼方へ

夜明けの東京は、静寂に包まれていた。
街のざわめきが始まる前の、ほんの短い時間。
杉本圭介は、マンションのベランダに立ち、薄明の空を見上げていた。
雲の切れ間から差す光が、ゆっくりと街を照らしていく。
その光の中に、どこかで誰かが祈っているような気がした。
前夜、彼は沢村信也の葬儀に参列していた。
十数人ほどの小さな葬儀だった。
参列者の中には、沢村がかつて勧誘した人々もいた。
誰もが静かに目を閉じ、涙を見せなかった。
その沈黙の中に、確かに“祈り”があった。
理沙は祭壇の隅で手を合わせていた。
彼女の表情は穏やかで、涙ではなく、微笑みに近いものだった。
「彼は、最後に“祈りを取り戻した”のね」と、帰り際に彼女は言った。
杉本はうなずきながら、胸の奥に小さな痛みを感じていた。
――祈りを取り戻したのは、沢村だけではない。
自分自身もまた、知らぬうちに祈っていたのかもしれない。
*
葬儀から数日後、杉本はある手紙を受け取った。
差出人は、見覚えのない名前だった。
封を切ると、便箋に丁寧な筆跡でこう書かれていた。
> 「私は、沢村信也の息子です。
> あなたの記事を読みました。
> 父が“光の中に還った”と書かれていて、涙が止まりませんでした。
> あの人は、私にとって“赦せない父”でした。
> けれど、今は初めて、“赦したい”と思えたのです。」
手紙の最後には、たった一行の言葉が添えられていた。
> 「祈りは、人を生かすのですね。」
その瞬間、杉本の胸に熱いものが込み上げた。
沢村が生前に言っていた――「祈りは声を持たない。けれど届く」――
その言葉が、現実になったのだ。
人は、沈黙のうちに互いの魂を触れ合わせる。
それが、“光の声”というものなのだろう。
*
その日の午後、杉本は理沙に会うために神保町の喫茶店へ向かった。
窓際の席には、すでに彼女の姿があった。
カップの湯気が、ゆらゆらと揺れている。
「来てくれてありがとう」と理沙が微笑む。
「お手紙を読みました」
「ええ。私にも届きました」
二人はしばらく黙ってコーヒーを飲んだ。
沈黙は気まずくなかった。
言葉よりも深く、互いに何かを感じ取っていた。
「杉本さん、あの人が最後に言った“赦し”って……」
理沙はゆっくり言葉を選ぶように続けた。
「もしかしたら、神に対するものじゃなくて、“人間”そのものに向けた祈りだったのかもしれませんね」
杉本は頷いた。
「ええ。神を探すのをやめた時、人は初めて“人間”を見つめる。
神の沈黙は、人の声を聴くための余白なんです」
理沙は目を閉じて、その言葉を噛みしめるように息を吐いた。
「……余白。いい言葉ですね」
*
その夜、杉本は久しぶりに教会を訪れた。
以前、取材で何度も足を運んだ神田の小さなカトリック教会だ。
木の扉を押し開けると、内部は薄暗く、蝋燭の炎だけが揺れていた。
ベンチに座り、静かに目を閉じる。
祈るつもりはなかった。
だが、心の奥から自然に言葉が浮かび上がってきた。
――どうか、赦しを。
それは誰に向けたものでもない。
過去の自分に、そしてこの国に。
“信じること”を忘れ、“祈ること”を恐れ、
沈黙を罪だと思い込んで生きてきた人々。
その沈黙こそ、実は神が最後に残した“声”だったのかもしれない。
鐘が静かに鳴った。
低く、深く、空間を震わせるような音だった。
その響きの中で、杉本はゆっくりと息を吐いた。
*
翌朝。
新聞社時代の後輩から、久しぶりに連絡が入った。
「杉本さん、今度のドキュメンタリー企画、ぜひ参加してほしいんです」
テーマは、「信仰と社会」だった。
杉本は少し迷った。
もう過去の現場に戻るつもりはなかった。
だが、電話口の向こうの若い記者が言った一言が、彼の心を揺らした。
「杉本さんの記事で、宗教問題を勉強しようと思ったんです。
“沈黙を聴く勇気”って、あの記事に書かれていた言葉が忘れられなくて」
沈黙を聴く勇気――。
それは、いつか沢村が教えてくれたものだ。
杉本は静かに微笑んだ。
「……わかった。もう一度、現場に戻ろう」
*
取材のため、彼は長崎へ飛んだ。
海の向こうに霞む島々、潮の香り、石畳の坂道。
遠藤周作が「沈黙」を書いた土地でもある。
旅の途中で、ふと立ち寄った教会の壁に、一枚の古い写真が飾られていた。
戦後間もない時期、瓦礫の中で十字架を拾い上げる少年の姿。
その顔には、絶望ではなく、希望の光が宿っていた。
杉本は立ち尽くした。
――人は、どれほど壊れても、再び光を探す。
信仰も報道も、人間の営みも、その一点でつながっている。
彼は取材ノートを開き、ゆっくりと書き始めた。
> “光とは、神の証ではなく、人の証である。
> 人が誰かを想い続ける限り、その光は消えない。”
*
旅の最終日。
港のベンチで、杉本は潮風を受けながら空を見上げた。
空には白い雲が浮かび、光が波の上できらめいている。
その瞬間、遠くから教会の鐘の音が聞こえた。
――光の声。
それは、耳ではなく心で聴く音だった。
沈黙の奥から響くその声は、彼の胸の奥に静かに染み込んでいった。
杉本はノートを閉じ、ペンを置いた。
これで終わりではない。
光は続いていく。
人の祈りとともに。
「……ありがとう、沢村さん」
小さく呟くと、海からの風が頬を撫でた。
その風はどこか懐かしく、そして優しかった。
*
夕陽が沈む頃、杉本は港を後にした。
彼の背中にはもう、かつてのような孤独の影はなかった。
代わりに、静かな確信があった。
――沈黙の祈祷は、終わらない。
それは、誰かが誰かを想う限り、
永遠にこの世界のどこかで、光となって響き続けるのだ。
海に沈む夕陽が、最後の光を放っていた。
その光の彼方に、彼は確かに“声”を聴いた。
それは、赦しの声であり、再生の声であり、
人間が生きる限り、決して消えない“光の声”だった。
(第五章につづく)

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