第一章 再生の街
春の光が、東京の街をやさしく包んでいた。
長く続いた冬が終わり、桜が咲き始めた公園には、人々の笑い声が響いている。
記者・杉本圭介は、その光景を喫茶店の窓越しに眺めていた。
かつて毎日のように通った編集部からは、もう姿を消して数か月が経っていた。
あの日――削除された記事を独自に公開し、世間を揺るがせた「沈黙の祈祷」事件。
結果として、教団と政治家の癒着が明るみに出て、特別捜査班が設置された。
だが、その裏で杉本は、報道の世界から静かに身を引いた。
理由を聞かれたとき、彼はこう答えた。
「もう一度、“言葉の外にあるもの”を見つめたいんです」
喫茶店の店員がコーヒーを置いた。
「ブラックでよろしかったですね」
杉本は軽く会釈し、湯気の立つカップを手に取る。
香ばしい香りが胸の奥に沁みていく。
この穏やかな時間が、彼にとっては“祈り”に近かった。
通りの向こうには、小学校の子どもたちがランドセルを揺らして歩いている。
その光景に、彼はかすかに微笑んだ。
――彼らの未来には、沈黙よりも言葉があってほしい。
その想いが、いまも心の底で燃えていた。
*
午後、杉本は小さな講演会に招かれていた。
テーマは「沈黙と報道の倫理」。
都内の市民センターの会議室、聴衆はわずか三十名ほど。
壇上に立った彼は、原稿を見ずにゆっくりと話し始めた。
「私たち記者は、“真実を伝える”ことが仕事だと思っていました。
けれど、ある事件を取材するうちに気づいたんです。
――真実とは、言葉にできないものの中にこそある、と」
会場が静まり返る。
「沈黙は、逃避ではありません。
それは、言葉を超えて“聴く”ための姿勢なんです。
人が苦しみ、泣き、信じ、裏切る――そのすべての瞬間に、
言葉にできない“声”がある。
記者はその声を聴くために、まず沈黙しなければならない」
最後に一人の若い学生が手を挙げた。
「先生は、今でも神を信じていますか?」
杉本はしばらく沈黙した。
そして、穏やかに答えた。
「信じるというより……“感じています”。
言葉にならない“何か”が、いつも人の心に働いている。
それを、私は神と呼びたい」
拍手が起こった。
だがそれは賛美の拍手ではなく、
静かに“共鳴”する音だった。
*
講演を終えたあと、杉本は近くの河川敷を歩いた。
風が穏やかに頬を撫で、川面が陽にきらめいている。
桜の花びらが流れていく様を見ながら、彼は思った。
――この国もまた、沈黙の中から再び声を上げようとしている。
スマートフォンを取り出すと、見覚えのあるメールが届いていた。
差出人は、牧師の永井だった。
> 「杉本さん。ご無沙汰しています。
> 先週、高梨さんの娘さんが教会に来ました。
> 彼女は、あなたの記事を読んで、“父は救われた”と話していました。
> 神は沈黙していても、人の中で語り続けています。」
杉本は画面を見つめたまま、しばらく動けなかった。
高梨――かつて沈黙の果てに命を絶った、あの男。
その娘が、いま教会で祈りを捧げている。
その事実が、彼にとって何よりの救いだった。
「……神は、やっぱり沈黙の中で働いている」
その言葉が、風に消えていった。
*
夕暮れ。
杉本は、古いカメラを手に街を歩いた。
再び文章を書くかわりに、いまは“光で言葉を残す”ことにしていた。
シャッターを切るたび、
そこには言葉では伝えられない人々の表情が映る。
街角で笑う老夫婦。
パン屋の店先で頬をふくらませる少年。
信号待ちで誰かの手を握る若い母親。
そのすべてが、祈りのように美しかった。
写真を撮るという行為は、沈黙の一形態だった。
ただ“見る”。
そして“感じる”。
そこに、神の気配がある。
*
夜、帰宅すると、部屋の机の上に古いノートが置いてあった。
亡き母の遺品の一つで、
長らく封を開けられずにいたものだった。
静かにページをめくると、
小さな文字で、こう書かれていた。
> 「神は沈黙しているのではない。
> 人が騒ぎすぎて、神の声が聞こえないだけなのだ。」
杉本は息を呑んだ。
母が生前、何度も口にしていた言葉だった。
“沈黙とは、神の拒絶ではない。人の聴覚の鈍さなのだ”。
彼はノートを閉じ、机の上に置かれたカメラを見つめた。
そして、ゆっくりと独り言を呟く。
「母さん、俺はようやくわかったよ。
神の沈黙を責めるより、自分が聴こうとしていなかっただけなんだ」
*
翌朝。
杉本は小さな取材ノートを持って街に出た。
もう新聞記者ではない。
だが、彼の心には変わらず“問い”があった。
――人はなぜ祈るのか。
――祈りとは、誰のためにあるのか。
その答えを探す旅が、再び始まる。
街の片隅で、教団の元信者らしい男女がビラを配っていた。
「私たちは、もう誰も憎まない運動をしています」
杉本は一枚受け取り、軽く頭を下げた。
そのビラには、「和解と再生の祈り」という文字が印刷されていた。
彼はその言葉をしばらく見つめたあと、
ポケットに大切にしまった。
*
夕方。
西日が街のビルを黄金色に染めていた。
杉本は足を止め、空を仰いだ。
雲の切れ間から光が差し込み、
その光がまるで声のように感じられた。
――沈黙の向こうに、確かに“声”がある。
それは誰の声でもない。
この世界そのものの声だ。
杉本は深く息を吸い、微笑んだ。
「神よ、あなたの沈黙の中で、私はようやく聴こえました」
そして、再び歩き出した。
光の方へ。
街の喧騒の中へ。
その足取りは静かだが、確かだった。
第二章 見えざる声

春が過ぎ、初夏の風が東京の街を柔らかく撫でていた。
杉本圭介は、地下鉄の階段をゆっくりと上がり、神田駅前の雑踏に出た。
ビルの壁に反射する陽光が眩しい。
スーツ姿の人々がスマートフォンを見つめながら歩いていく。
誰もが何かを“急いで”いるように見えた。
――この街には、言葉が溢れすぎている。
かつて新聞記者として働いていた頃、杉本はそう感じていた。
あの頃より、さらに世界は“情報”に満ちている。
けれど、声が増えるほどに、心の声は聞こえなくなっていく。
彼が今探しているのは、まさにその“見えざる声”だった。
*
その日、杉本はある女性と会う約束をしていた。
名前は三枝理沙(さえぐさ・りさ)。
宗教二世問題の支援団体で働く30代のカウンセラーである。
「現場で“信仰の後遺症”を見てきました」と彼女は言っていた。
喫茶店の扉を開けると、奥の席に彼女の姿が見えた。
長い黒髪を後ろで束ね、目の奥には静かな光が宿っている。
「杉本さん。お久しぶりです」
「こちらこそ。お忙しいところありがとうございます」
二人は軽く会釈し、向かい合って座った。
テーブルの上には彼女が持ってきたファイルが広げられていた。
そこには、数十人の相談者の手記が綴られている。
「皆さん、口をそろえて“声を上げられない”と言うんです」
「怖いから、ですか?」
「怖い、というより……“裏切り”になるからです」
理沙は苦い笑みを浮かべた。
「教団を離れた人たちは、家族を置いてきた。
だから、“救われた”と公言することが、残された人への罪のように感じるんです」
杉本は黙って聞いていた。
彼女の言葉の一つひとつが、
かつて取材で出会った人々の顔を呼び覚ましていく。
理沙は続けた。
「最近は“信仰を失った人の居場所”をつくろうとしています。
祈ることを奪われた人が、もう一度祈れるように。
信仰を壊したのが宗教なら、
それを癒やすのもまた、静かな“祈り”なんです」
その言葉を聞いたとき、杉本は心の奥で何かが震えるのを感じた。
――祈りは、信者のものではない。
それは、人間が生きるための“呼吸”なのだ。
*
取材を終えたあと、杉本は一人で神保町の古本屋を巡った。
長年の記者生活の癖で、彼は無意識に“記録”を求めていた。
宗教社会学、心理学、戦後史。
だが、どんな書物にも“答え”はなかった。
店を出ると、通りの向こうで学生らしき若者が募金活動をしていた。
手書きのプラカードには「宗教被害者の支援を」と書かれている。
杉本は財布を取り出し、千円札を箱に入れた。
「ありがとうございます!」
青年が頭を下げる。
その目はどこか澄んでいた。
「……君も、何か信じてるのか?」
思わず尋ねると、青年は少し考えてから答えた。
「信じてます。“人の善意”を」
短い会話だったが、その言葉が杉本の胸に残った。
神を失っても、人を信じられる――それもまた、祈りの形だ。
*
その夜。
杉本は、郊外の小さな集会所を訪れた。
理沙から紹介された「元信者たちの語り合いの場」だ。
会場に入ると、十人ほどの男女が輪になって座っていた。
年齢も職業もさまざまだ。
司会の理沙が彼を紹介した。
「この方は、かつて教団問題を取材されていた記者の杉本さんです」
数人が静かに頷いた。
誰もがどこか怯えたような表情をしている。
最初の一人が口を開いた。
「私は、二十歳まで信仰の中で育ちました。
“外の世界は地獄”だと教えられていました。
でも今、こうしてここにいると……外の世界も、悪くないですね」
笑いが起こった。
涙をこらえながら笑うその姿に、杉本は胸が熱くなった。
別の男性が続いた。
「俺は家族を置いてきた。
いまだに母が“あなたは悪魔に憑かれている”って言う。
でも、それでもいいと思う。
母の中では“神”が生きてるんだ。俺がそれを否定したら、母も死ぬ」
その言葉に、場の空気が静まった。
杉本はノートを開くのをやめ、手を組んだ。
この空間そのものが、祈りだった。
誰も神を見ていない。
だが、確かに“赦し”が存在していた。
*
集会のあと、理沙と二人で外に出た。
夜風が優しく吹き、街灯の下を花びらが舞っている。
「どうでしたか?」
「……言葉が出ませんでした」
「それが、いちばん正しい反応ですよ」
理沙は笑った。
「沈黙もまた、祈りの形です。
あなたがそこにいてくれただけで、みんな救われたと思います」
杉本はしばらく空を見上げた。
星がいくつか瞬いている。
その光は遠く、しかし確かに存在している。
――光は声を出さない。
それでも、人はその光に導かれる。
「理沙さん。あなたはまだ、神を信じてますか」
彼女は少し考えてから答えた。
「ええ。
でも、もう“神の沈黙”に怯えません。
沈黙の中にも、ちゃんと“声”があるから」
その言葉が、夜の風に溶けていった。
*
帰りの電車の窓に映る自分の顔を見つめながら、杉本は思った。
――この国は、神を失ったのではない。
神の声を聴く耳を、失ったのだ。
ニュースも政治も、経済も、人々の暮らしを照らすはずの“光”を失い、
ただ大きな音で騒ぎ続けている。
その喧騒の中で、誰かが泣き、誰かが祈っている。
だが、その祈りは誰にも届かない。
杉本は胸の内で、そっと祈った。
――どうか、もう一度この国に“聴く力”を。
――沈黙を恐れない心を。
電車が静かにトンネルに入った。
窓の外は闇に包まれ、音が消える。
その沈黙の中で、彼は確かに“何か”を聞いた気がした。
それは、人の声ではなかった。
光のような、あたたかい気配だった。
*
駅に着くと、空には薄い月がかかっていた。
杉本はカメラを取り出し、夜空を見上げてシャッターを切った。
レンズ越しに見える月の光は、柔らかく滲んでいる。
「光の声……か」
小さく呟くと、胸の奥で静かな確信が芽生えた。
神は沈黙している。
だが、その沈黙の中にこそ、
人が生きる理由が隠されているのだ。
(第三章につづく)

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