第五章 証言者の祈り
夜明け前の東京は、まるで息を潜めているかのようだった。
高層ビルの窓にまだ灯りは少なく、道を行く人影もまばらだ。
杉本は一人、駅前の喫茶店に座っていた。
白い湯気を立てるコーヒーの香りが、夜と朝の境をぼやかしていく。
今日は、ある“証言者”に会う約束があった。
大浦弁護士が紹介してくれた人物だ。
「教団の中枢を知っている」とだけ聞かされていた。
開店から三十分後、ドアのベルが小さく鳴った。
現れたのは、五十代後半の男性だった。
痩せぎすで、黒縁眼鏡の奥に沈んだ目。
「……あなたが杉本さんですか」
「はい。お待ちしていました」
男は小さく頭を下げ、向かいの席に座った。
名前は“高梨”。
旧統一教会の関連団体で、資金管理を担当していたという。
「私が話すことは、記録には残さないでください」
「もちろんです。……すべては、あなたの判断で」
高梨は手を組み、少しの沈黙の後、低く話し始めた。
「私たちは“献金”を神への贈り物だと信じていました。
でも実際は、それがどこへ行くか誰も知らなかった。
献金は教会を経て、財団へ。財団から“文化事業”の名目で政治団体へ。
そして、最終的には“権威”のために使われていた。」
「権威、とは?」
「神の権威じゃない。“人間の神格化”ですよ」
高梨の目がわずかに光った。
「信者たちは、祈りながら組織を支えていた。でも、上にいたのは“神”じゃなかった。
人間が、神の顔をかぶっていたんです。」
その言葉は、重く、しかし奇妙に静かだった。
喫茶店の外では、朝の新聞配達のバイクが通り過ぎる音がした。
*
高梨の話は、二時間に及んだ。
彼は、資金の流れを克明に語った。
それは信仰のシステムというより、完璧に設計された「人間の欲の構造」だった。
「……あなたは、なぜ今になって話そうと?」
杉本が問うと、高梨は少し笑った。
「信仰は怖い。
真実を見ようとする人間を、“背信者”にしてしまうから。
でも、私はもう、神に裏切られることを恐れなくなったんです。」
「それは――神を捨てたということですか?」
「いや。むしろ、神の沈黙を受け入れたんです。」
杉本は、その言葉をノートに書きとめながら胸の奥がざわつくのを感じた。
沈黙を“拒む”のではなく、“受け入れる”――それは信仰の最も深い形かもしれない。
だが同時に、それは孤独という名の十字架を背負うことでもある。
*
取材の後、杉本は教会通りを歩いた。
朝の光が、まだ冷たい。
通りの角には古い十字架を掲げたカトリック教会があり、扉の前に花束が置かれていた。
誰かが祈りを終えたばかりなのだろう。
杉本は立ち止まり、花を見つめた。
白い百合の花びらに朝露が光っていた。
祈りとは、結局このようなものかもしれない――。
誰にも見られず、誰にも届かず、それでも誰かのために捧げられるもの。
それが“沈黙する祈り”だ。
*
午後、大浦弁護士の事務所。
杉本は高梨の証言を報告した。
机の上には分厚い資料の束が積まれ、窓の外では冬の空が青く光っていた。
「……ここまで来ると、もう宗教じゃないですね」
「そうだな。信仰の皮をかぶった“国家事業”だ」
大浦は疲れた声で言った。
「でも、誰も止められない。政治も、メディアも、世論も。
なぜか分かるか? 人は、信仰の名のもとに“罪”を美化できるからだ。」
杉本は静かに言った。
「それでも、書かなくちゃならない。
たとえ、誰も救われなくても。」
大浦は少し笑った。
「記者ってやつは、まるで神の代理人みたいだな」
「いいえ。神の沈黙に、耳を澄ますだけですよ」
*
夜。
杉本はホテルの部屋に戻り、窓を開けた。
冷たい風がカーテンを揺らし、遠くで鐘の音が響いた。
机の上には、母の古いノートが開かれていた。
〈神は私を見捨てたのではなく、私に沈黙を与えた〉
その言葉を指でなぞる。
母もまた、神の沈黙に苦しみながら、それを受け入れようとしていたのだろう。
沈黙とは罰ではない。
それは、人が自らの罪と向き合うための余白――。
彼はペンを取り、ノートに書き加えた。
〈信仰の闇の中で、最も人間らしいものは“迷い”だ〉
*
翌朝。
杉本は、高梨の告白を裏付けるため、財団の旧事務所跡地を訪れた。
東京郊外の工業地帯。
看板は外され、窓にはブラインドが閉ざされていた。
隣の倉庫の従業員が、タバコを吸いながら話しかけてきた。
「ここ、昔は夜中でも明かりがついてたよ。黒い車がよく出入りしてた」
「いつ頃まで?」
「去年の夏くらいかな。ニュースが出てから急に静かになった」
杉本は建物の前で立ち止まり、無言でシャッターを見つめた。
そこには、無数の“祈りの残響”が染みついているように感じた。
信仰も、欲望も、赦しも、すべてここに閉じ込められていた。
*
その帰り、車中でスマホが鳴った。
大浦弁護士からのメールだった。
〈高梨氏が行方不明〉
指が止まった。
胸の奥に、冷たいものが落ちた。
窓の外の街が、まるで別世界のように霞んで見えた。
――彼もまた、“沈黙”の中に飲み込まれたのか。
手帳を開き、最後のページにこう記した。
〈沈黙は、時に神の声であり、人の墓碑でもある〉
車の窓を伝う雨が、まるで涙のように光っていた。
*
夜。
杉本はホテルのロビーで、明子に再び会った。
彼女は静かに座っていた。手には古びた十字架のペンダント。
「高梨さん、亡くなったんですか?」
「分かりません。でも、連絡が途絶えました」
彼女は目を伏せ、ペンダントを握りしめた。
「……神様って、どうしていつも見ているだけなんでしょうね」
「沈黙も、祈りの一つかもしれません」
「そんな祈り、もういらない」
明子の声は震えていた。
その涙の中に、祈りと怒りが同居していた。
杉本は何も言わず、ただ頭を下げた。
その沈黙が、言葉よりも重かった。
*
部屋に戻ると、外はすでに夜更けだった。
彼はノートを開き、最後の行にこう記した。
〈神は沈黙している。
だが、その沈黙の中で、人は自分の声を探す。〉
ペンの音が止むと、部屋の中にはただ雨の音だけが残った。
その雨は、まるで天から降る“祈りの残響”のようだった。
第六章 沈黙の果て

東京の夜は、どこまでも青白く光っていた。
冬の冷気が街を包み、人々の足音だけが舗道に残る。
杉本は新聞社の屋上に立ち、遠く霞むビル群を眺めていた。
眼下に広がる光の海は、美しくも虚ろだった。
その中に、どれほどの嘘と祈りが沈んでいるのだろう――そう思った。
高梨の行方は、依然として不明だった。
最後に残された通話履歴。
“非通知”の番号から、わずか三秒の無音。
それが、彼の「沈黙の証言」になっていた。
杉本はポケットの中のICレコーダーを握った。
高梨が残した証言の断片がそこにある。
それを世に出すかどうか――その判断が、彼自身を試していた。
*
編集部の廊下を歩くと、蛍光灯の明かりが白く照り返した。
北見デスクが資料の山に埋もれながら、低い声で言った。
「……上は止めてる。“政治的配慮”ってやつだ」
「つまり、書くなと?」
「そうだ。だが、“書け”と言う声もある。
世論が動き始めてる。けど、お前の身が危うくなる」
杉本は無言で頷いた。
自分が報道の世界に身を置く理由――それは、神の声を聞くためではない。
沈黙の中に、まだ語られぬ“人間の真実”を掘り起こすためだ。
「北見さん、俺は書きます」
「お前、バカだな。神にでもなったつもりか?」
「いいえ。ただ、沈黙の中に埋もれた声を拾いたいんです。」
*
夜。
杉本はひとり、母の実家がある群馬の山あいへ向かう電車に乗った。
幼い頃、夏休みに何度も訪れた村。
今は廃線寸前のローカル線で、乗客はわずか三人。
窓の外を、雪が静かに降っていた。
白い闇の中に、点々と家々の灯が浮かぶ。
列車のリズムが心臓の鼓動と重なり、遠い記憶を呼び覚ます。
母が祈っていた小さな礼拝堂――そこにもう一度、行かなければならない気がした。
*
深夜。
無人駅で降りると、空気は凍るように冷たかった。
吐く息が白く漂い、雪が足元を柔らかく包んだ。
懐中電灯を頼りに、山道を登る。
やがて木立の間から、古びた教会の屋根が見えた。
扉は半ば壊れ、風が内部を吹き抜けている。
祭壇の上の十字架は錆び、キャンドルスタンドには埃が積もっていた。
だが、その静けさは、都会のどんな聖堂よりも深い。
杉本は祭壇の前に膝をつき、目を閉じた。
何も祈らなかった。ただ、沈黙を聴いた。
その沈黙は、まるで“神の呼吸”のようだった。
〈神よ、なぜ語らないのですか〉
心の中で問う。
だが、答えはなかった。
代わりに、雪の音が降り積もっていく。
*
翌朝。
村の外れにある古い家を訪ねた。
そこには、母の旧友・小林が暮らしていた。
年老いた女性で、かつて同じ教団にいた信者だった。
「お母さんがね……最後まで“神を信じた”というより、“人間を信じようとした”のよ」
小林の声は震えていた。
「信仰を捨てることは怖かった。でも、もっと怖かったのは、人を信じられなくなること。
あなたのお母さん、よく言ってた。“神よりも人が怖い”って」
杉本は唇を噛んだ。
母が抱えていた恐れ――それは、神の沈黙ではなく、人間の偽りだったのかもしれない。
「小林さん、母は最後に何か言ってましたか?」
「“あの子は、きっと神の沈黙を理解できる”って。」
静かな雪の音が、会話を包んだ。
*
その夜、杉本は再びホテルに戻り、ノートパソコンを開いた。
画面の光が部屋を照らす。
高梨の証言を文字に起こしながら、彼の指は震えていた。
「真実を書くということは、誰かの祈りを裏切ることでもある」
その矛盾を、彼は知っていた。
〈報道は、神の代弁ではない。沈黙の証明である〉
そう書き記して、彼は目を閉じた。
*
翌日。
記事は匿名でネット上に掲載された。
タイトルは《沈黙の神々 ― 信仰の名の下に消えた真実》。
記事は瞬く間に拡散した。
人々は驚き、怒り、そして――再び沈黙した。
夜遅く、杉本の携帯に非通知の電話が鳴った。
受話器の向こうから、かすかな息遣い。
「……見ていましたよ、杉本さん」
女の声だった。
「あなたの記事、救われた人もいます。でも……沈黙を壊した代償は、あなたにも来ます」
通話はそれきり途絶えた。
杉本は電話を握りしめ、窓の外を見た。
街は雨に濡れ、ネオンが滲んでいた。
神は語らない。
だが、沈黙の中に人は生き、そして選ばねばならない。
*
数日後。
教団の元幹部が逮捕されたという速報が流れた。
しかし、それは事件の終わりではなく、始まりだった。
報道各社が一斉に動き出し、国会でも議論が起きた。
けれど杉本の胸には、安堵よりも空虚が広がった。
母のノートを開く。
〈人は神の沈黙を恐れ、やがて自分自身の声を失う〉
その言葉が、まるで預言のように思えた。
彼は静かにノートを閉じ、天を仰いだ。
「神よ、あなたの沈黙は、罰ではなく赦しなのか?」
答えはなかった。
しかし、その沈黙の中に、かすかな温もりがあった。
*
夜明け。
杉本は屋上に立ち、東の空を見つめた。
曙光がゆっくりと街を照らしていく。
その光は、沈黙の中に差し込む小さな祈りのようだった。
彼は深く息を吸い、呟いた。
「……沈黙の果てにこそ、言葉は生まれる。」
遠くで教会の鐘が鳴った。
それは誰のための鐘でもなく、すべての人間のための鐘だった。
信じる者にも、疑う者にも、沈黙を選ぶ者にも――。
(第七章につづく)

コメント