第一章 沈黙の街角
あの日から、一週間が経った。
街のざわめきは、まだ鎮まっていなかった。
駅前の大型ビジョンでは、安倍元首相の追悼式の映像が流れ、人々は足を止め、黙祷のように立ち尽くしていた。
花束が積まれ、紙に包まれたペットボトルの水が並ぶ。
だが、その沈黙は哀悼ではなく、どこか“困惑”の色を帯びていた。
記者の杉本は、その人波の少し離れた場所で立っていた。
手帳を開く気にもなれず、ただ風に舞う花の匂いを感じていた。
花の甘さと、アスファルトの熱の匂い。
どちらも、生の証でありながら、同時に死を思わせる。
群衆の中から、年配の女性がつぶやいた。
「神様は、なぜこの人を選んだんやろうねぇ……」
その声に、杉本は思わず振り返った。
“神”――この言葉を、報道現場で聞くことがあるとは思わなかった。
それは信仰を越えた、何か“理解不能なもの”への問いだった。
*
編集部に戻ると、電話が鳴っていた。
北見が受話器を取り、短く頷いてから杉本に手を伸ばす。
「奈良の旧信者から。話をしたいと言ってる」
「名前は?」
「仮名で“明子”。一度取材してるだろ?」
「……ああ、三年前の“家庭破綻取材”の時か。」
「本人が、“事件の後でやっと話せる気になった”って。」
北見の声には、静かな緊張があった。
杉本は受話器を受け取った。
「杉本です」
受話器の向こうで、少し震えた声がした。
「……私、もう怖くないんです。
この国が、何を信じてるのか、知りたくなりました。」
「お会いできますか」
「はい。ただ、場所は奈良ではなく、東京でお願いしたいんです」
「いつ?」
「明日。」
電話が切れたあと、北見が呟いた。
「彼女、何か持ってるんじゃないか?」
「資料か?」
「いや、“赦しの話”をしたいって言ってた」
杉本は短く息を吐いた。
“赦し”――この言葉が、いま最も重い。
*
翌日、杉本は新宿西口の喫茶店に向かった。
駅構内は、連休前の混雑と献花台の人波が入り混じり、異様な熱気に包まれていた。
ビル街の空は鉛色で、雨の気配があった。
喫茶店の隅の席に、明子が座っていた。
黒髪をひとつに束ね、淡いベージュのコート。
表情には疲労の跡が見えたが、目は驚くほど澄んでいた。
「ご無沙汰してます」
「こちらこそ」
杉本が席につくと、彼女は小さなノートを差し出した。
「母が亡くなる前に残したものです」
ノートの表紙には、“祈祷ノート”と金色の文字があった。
ページを開くと、献金の記録、聖句の抜粋、そして手書きの祈りの言葉が並んでいた。
〈主よ、私の息子をお守りください〉
〈献金は我が血の代わりです〉
〈罪を赦したまえ〉
その文字は、淡い筆圧で書かれながらも、どこか切実で、痛々しかった。
「事件のニュースを見たとき、最初に思ったんです。
――“あの人”の銃声は、母の祈りの反響かもしれないって。」
明子の声が震えた。
「母も、あの団体に献金していました。
生活が苦しくても、“神に近づける”って言って……。
私はそれが、母の“信仰”だと思い込んでいました。」
杉本は黙って頷いた。
「でも、違いました。母は、罪悪感から逃れようとしてた。
信じたのではなく、“赦されたい”だけだったんです。」
しばらくの沈黙が流れた。
コーヒーの湯気が二人の間でゆらいでいた。
「あなたは、赦せますか」
杉本の問いに、明子はゆっくり首を振った。
「まだ、無理です。でも……赦したいと思っている自分を、憎みたくはありません。」
*
取材を終えた帰り道、杉本は西口の地下道を歩いた。
雨が降り始め、地上から漏れる光が濡れた床に映っていた。
人々の足音が反響し、遠くでストリートミュージシャンのギターが聞こえた。
歌詞は聞き取れないが、旋律は妙に優しかった。
“赦されたい者”と“赦せない者”。
その境界線は、どこにあるのだろう。
杉本は歩きながら、自分の心に問いかけていた。
事件を「社会問題」として扱う報道が増えている。
政治、宗教、制度――確かにそれは“原因”かもしれない。
だが、そのもっと奥に、人間の“祈りの歪み”がある。
誰かを赦せない痛み。
誰かを信じたい渇き。
そして、それらを利用する仕組み。
“赦し”は、誰かの責任を軽くする言葉ではない。
むしろ、それを背負って生き延びるための言葉なのだ。
そう考えた瞬間、杉本の胸に微かな熱が灯った。
*
翌朝、編集部に戻ると、北見がデスクに新聞を広げていた。
見出しには《旧統一教会と政治、再び》の文字。
「もう“宗教”の問題じゃないな」
「社会そのものの歪みだ」
「つまり、俺たちが書く番だ」
北見は新聞を閉じて言った。
「お前の記事は、まだ“神”を探してるように見える」
「……神かもしれないし、人かもしれない」
杉本は椅子に腰を下ろし、母のノートを取り出した。
“神は、私を赦してくださるだろうか”――。
その一文を見つめながら、ゆっくりと口の中でつぶやいた。
「今度こそ、沈黙の奥を書いてやる。」
*
夕暮れ。
編集部を出ると、都会のビルの谷間に金色の光が差していた。
歩道橋の上から見下ろすと、無数の人々が行き交い、それぞれの祈りのように動いていた。
ある者は仕事へ、ある者は家へ、ある者は献花台へ。
――それでも、世界は動いている。
杉本は手帳を開き、最初のページに書いた。
〈沈黙の街角で、人々は祈っている。
祈りは信仰ではない。
それは、生きるための記憶である。〉
遠くで電車の音が響いた。
その音は、まるでどこかへ導くように続いていた。
第二章 祈りの断層

奈良の街に、薄曇りの朝が訪れていた。
前日の雨が石畳を濡らし、古い町家の瓦から滴が落ちている。
記者・杉本は、ホテルの窓際でカーテンをわずかに開け、遠くの空を見つめた。
その灰色の空は、まるで誰かの沈黙をそのまま写したように重たかった。
机の上には、新聞が数紙並んでいた。
見出しの文字はどれも黒く太く、紙面全体が悲鳴のように見えた。
《安倍元首相 銃撃事件一週間 容疑者の母、宗教団体との関係明らかに》
――ついに、信仰が“事件”になった。
杉本は、息を詰めながらその言葉を見つめた。
人々の祈りが社会の亀裂を照らし出すとき、それはもはや祈りではなくなる。
それは、痛みを孕んだ「問い」として存在するのだ。
手帳を開き、昨日取材した元信者の言葉を読み返した。
〈神様は、お金を通してしか私たちを見てくれなかった〉
その文字は震えており、紙の上に生々しい絶望の跡を残していた。
杉本は胸の奥に微かな怒りを覚えた。だが同時に、それをどう書けばよいのか分からなかった。
怒りとは何だろう。
それは正義の感情ではない。
もしかすると、人が「自分の無力さ」を見つめたときに湧く最後の祈りなのかもしれない。
*
午前十一時、杉本は奈良駅近くの喫茶店にいた。
重い木の扉を開けると、カランと鈴が鳴った。
壁には古びた時計があり、時間が止まっているかのようだった。
約束していた元信者――山辺が、奥の席に座っていた。
帽子を深くかぶり、目を合わせようとしない。
「……来てくださってありがとうございます」
杉本が言うと、山辺はかすかに頷いた。
「あなた、記者さんですか。……記事になるんですよね?」
「ええ。でも、お名前は出しません」
「なら、話せます。私はもう、“あの場所”には戻りたくないんです」
杉本は、静かに録音機を机に置いた。
「――彼女、容疑者の母親は、同じ教会に?」
山辺は頷いた。
「熱心でした。神を信じるというより、“救われる自分”を信じていた。
でも、あの教会は救いを取引する場所でした。赦しの代わりに献金、幸福の代わりに借金……」
山辺は苦い笑みを浮かべ、コーヒーに砂糖を三杯入れた。
「それでも、誰も止められなかった。家族も、社会も、神も。
そして、残された息子だけが、止めようとしたんです。――銃で。」
杉本は言葉を失った。
その沈黙を破るように、店の外で救急車のサイレンが遠く鳴った。
音は小さくなり、やがて雨音のように消えた。
*
取材を終え、杉本は奈良公園を歩いた。
鹿が濡れた草の上を静かに歩き、寺の屋根に雨水が流れていた。
観光客の笑い声が遠くに聞こえる。だが、その声はこの土地の悲しみを埋めきれない。
彼はベンチに腰を下ろし、傘を閉じて空を見上げた。
――信じるとは、どんなことだろう。
母が死ぬ前に残したノートを思い出す。
〈神は、私を赦してくださるだろうか〉
信じるという行為が、赦しを求めることと同義であるなら、人は永遠に満たされることはない。
赦しを得るために祈り、祈るたびに赦されぬ現実に気づく。
その循環の中で、神はいつも“沈黙”している。
その沈黙の深さを、彼はいま肌で感じていた。
*
夜、東京。
編集部の会議室では、記者たちがテレビの速報を見つめていた。
〈旧統一教会が明日、会見を開く〉
北見デスクが杉本を見た。
「お前、行け」
「……はい」
「ただし、報道じゃなく“観察”してこい。耳でなく、心で見ろ。」
杉本は頷き、手帳を閉じた。
デスクの言葉は、まるで懺悔を促す司祭のように聞こえた。
*
翌日、都内のホテル。
会見場は人で溢れていた。
報道陣、弁護士、一般市民、信者――誰もが「正義」を名乗っていた。
だが、そこに漂う空気は、信仰よりも恐れに近かった。
壇上に立つ広報担当の男は、落ち着いた声で語り始めた。
「事件の報道には多くの誤解がございます。当教団は、平和と家族愛を重んじております」
「では、生活を壊された信者はどうなるのですか?」
「それは“個人の信仰の問題”です」
会場がざわめいた。
「信仰」という言葉が、まるで盾のように使われていた。
杉本はノートに書いた。
〈信仰とは、神を守ることではなく、人を守ることではないのか〉
広報の男が言葉を続けた。
「私たちは、亡くなられた方のために心から祈っています」
――その「祈り」は、誰のための祈りだ?
加害者か、被害者か、それとも自らの罪を覆うためか。
杉本はペンを止め、目を閉じた。
暗闇の中に、無数の人々の祈りが重なり合う音が聞こえた。
その祈りは決して清らかではない。
むしろ、血と涙と絶望の匂いを孕んだ祈りだった。
*
会見の後、ロビーの片隅で、明子が立っていた。
容疑者の母の元信者であり、彼女の娘だった女性。
「杉本さん……来てたんですね」
「はい。話を聞きたくて」
「母は、ずっと“神に許されたい”って言ってました。
でも、あの人を許すのは神じゃなく、私たちだったのかもしれません」
彼女の声は震えていた。
「祈ることに、罪ってあるんですか?」
杉本は答えられなかった。
祈りとは、時に残酷だ。
人は祈ることで自らを赦した気になり、他者を裁く。
――それが、最も深い“信仰の断層”なのだ。
*
夜の街を歩きながら、杉本は考えていた。
人間は、なぜ神を必要とするのか。
それは、愛するためか。
それとも、裁くためか。
街の明かりが、雨粒を反射して滲んでいた。
その光が、まるで無数の祈りの残骸のように思えた。
ホテルの部屋に戻り、杉本は母のノートを開いた。
〈神は、私を赦してくださるだろうか〉
その下に、自分の文字で書き足した。
〈赦しとは、神に求めるものではなく、人が人に渡すものだ〉
その瞬間、彼の中で何かがほどけた。
赦されることを待つのではなく、赦す側に立つ――
その痛みを、ようやく理解し始めていた。
*
外では再び雨が降り出していた。
静かな夜。
雨音が街のざわめきを消していく。
杉本はノートの最後に、こう書き記した。
〈沈黙とは、神の罰ではなく、人が罪を見つめる時間である〉
その文字を見つめながら、彼は小さく目を閉じた。
そして、深く静かに祈った。
――誰もが、この沈黙の中で、自分の神と出会えますように。
(第三章につづく)

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