第十章 沈黙の果て
春の雨が細く降っていた。
窓を覆う水の糸が、街灯の光をほどいては結び直し、夜の端をやわらかく濡らしていく。杉本は、編集部の奥でひとり資料の束をめくりながら、濡れた傘から垂れる雫の音を聞いていた。
机の端には、母の古いノート。表紙の摩耗した「みことばノート」という文字は、何度も指で撫でられた痕のように白くなっている。
「明日、出せるか」
背後から北見の声がした。
「“赦しの地図”の初回。お前の署名で行く」
「ええ」
自分の名がそのまま紙面に出ることの心許なさと、やっと内側の沈黙に形を与えられる安堵が、胸のなかで拮抗した。
北見はコーヒーを置き、少し黙ってから言った。
「書くたびに、失う言葉がある。けれど、次に言い出せる言葉もある。そうやって呼吸するしかない」
返事の代わりに、杉本は頷いた。
“沈黙は、祈りの終わりではなく始まりだ。”
数日前、編集部に残してきた自分のメモが、ふっと脳裏をよぎる。
言葉にすれば薄くなると知っていても、置かなければ立っていられない言葉がある。
*
翌日。公共施設の一室では、石坂の呼びかけた小さな集いが始まっていた。
題は「赦しの条件」。部屋の中央に砂時計、壁際には掲示板。白い紙片に、短い言葉がもう何十枚も留められている。
〈赦しは過去を消さない〉
〈忘却は赦しではない〉
〈怒りを抱えたままでも祈ってよい〉
〈“任意”は恐れの反対語ではない〉
「今日は、結論を言い当てないで終わりましょう」
石坂が微笑んだ。「“分かった気がする”も持ち帰らない。代わりに“明日の呼吸”を持って帰ってください」
輪の中で明子が手を上げる。
「赦せたか、赦せないかを自分で決めようとすると、身体が固まるんです。息が止まりそうになる。
――でも、祈っているうちに、勝手に何かがほどける瞬間がある。それを“赦し”と呼びたい」
彼女の声は、小さいのに、部屋の中心を確かに揺らした。
続いて、以前は強く反発していた中年の男性が口を開く。
「怒っているのは相手にではなく、揺れる自分にでした。妻が“祈りの場”から帰るたびに、どこへ行ってしまうのかと怖かった。
――今日、怖がっていいと言われて、やっと座れた気がします」
拍手は起きない。だが、静けさが膨らんでいく。耳鳴りのような沈黙ではなく、呼吸の置き場が増えていく沈黙。杉本はメモ帳を閉じ、ただその沈黙に身を預けた。
会の終わり、石坂が白紙と安全ピンの箱を回した。
「きょうの自分へ、短い一行を」
杉本は少し迷ってから書いた。
〈赦しは、約束ではない。明日の作業〉
ピンの先が指に触れて鈍い痛みが走る。――それは、抽象に沈みすぎないための小さな錘のようだった。
*
夜更け。
河川敷を歩くと、風が冷たさを和らげ、川面が低く光を返していた。掲示板の前で立ち止まり、彼は自分の紙の下に重なるように誰かの一行を見つけた。
〈“作業”の言葉に救われた。きょう出来なければ、あしたすればいい〉
署名はない。
遠くで踏切が二度鳴り、遠い町内の犬が一度だけ応えた。
それだけの音が、奇妙に充分だった。
*
「明日、来ますか」
夜半、明子からメッセージが届いた。
〈母の家を片づけます。手伝ってほしい〉
明子の“母”は、長く病を患い、最近静かに息を引き取ったと聞いていた。献金の封筒が何束も残っているのではないか、と彼女は怯えていた。
杉本は〈行く〉と返し、すぐに眠れない夜へ入った。
翌日、郊外の住宅地。
古い一軒家の玄関を開けると、乾いた木の匂いに混じって、冬の日向のような薄い甘さがした。
「台所からお願いします」
明子は喪服を脱ぎ、作業着に着替えていた。
食器の奥から、包み紙にくるまれた祝福式の写真が出てきた。笑顔が並ぶ。どの笑顔も正面を向き、角度が同じだった。
「ここだと思う」
押し入れの桐箱の底から、封筒の束。墨書きの金額、日付。手の汗で波打った紙の縁が、年月を語っている。
明子は息を吸い、指で一番上の封筒をなぞった。
「これを“母の罪”と呼びたくないんです。ここに、母の祈りが入っていたから」
「呼び名は、あとで決めましょう」
杉本は封筒を一束、別の茶箱に移した。「まずは置き場所を変えるだけ。意味づけは急がない」
彼女は小さく笑い、目元を拭った。
「ありがとうございます。“いま決めない”って、赦しですね」
昼を過ぎ、居間の片隅で一冊のノートが見つかった。
細い罫線、丁寧な文字。
〈神様、私は赦せません。でも、赦せない私が怖いです〉
ページの途中で文字が崩れ、インクが滲んでいた。
「母さん……」
明子の声が小さく揺れ、杉本はノートを閉じた。
「これは、しまっておきましょう。いつでも出せる場所に」
窓の外に短い陽が射し、埃が光に浮いた。
埃は、家の記憶のように見えた。汚れではなく、空間が時を受け取った証のように。
*
片づけを終えると、ふたりは最寄り駅の喫茶店で温かいスープをすすった。
「いつか、母のノートを本に載せたい」
明子はマグカップを両手で包みながら言った。
「“赦せません”と書いた声を、そのまま置きたい。赦しの物語だけが必要なわけじゃないから」
「誰かの“途中”が、ほかの誰かの呼吸を助ける」
杉本の言葉に、彼女はうなずいた。
窓の外では、細い雨がまた降り始めていた。
“途中”という語が、雨の筋に似合った。
*
帰り道、杉本は母の墓へ向かった。
カーネーションを一輪、墓前に置き、手袋を外して両手を合わせる。
「母さん。俺は、まだ全部を赦せてはいない。でも、赦せない自分を抱えていく方法を、少しずつ学んでいます」
声に出すと、言葉は思ったよりも頼りない。だが、頼りなさを認めることで、かえって足元が固くなる瞬間がある。
風が枝を鳴らし、雲の裂け目から淡い光が一度だけ落ちた。
*
“赦しの地図”の初回原稿は、その夜完成した。
冒頭の一段は、こうなった。
〈赦しは地点ではない。道である。道の両側に、怒りと記憶が並ぶ。歩く者は、ときに立ち止まり、ときに戻る。地図は、その往復の線でできている〉
保存ボタンを押すと、メールの通知が同時に跳ねた。
送信者は、以前「怒り」を名乗って電話をかけてきた男性だった。
〈妻と会に行きました。あの沈黙の三分を、家でもやっています。言い争いの前に。名前は出さなくていい。これだけ、伝えたかった〉
短い文に、生活の時間が濃く折りたたまれている。画面を閉じ、彼は長く息を吐いた。
*
数日後、教団の“対話プロジェクト”の公開座談が開かれた。
会場は前回より広い。壇上には新しい広報担当と、外部の宗教学者、そして司会者。
「誤解を解く場であると同時に、過去の配慮不足を見直す場にしたい」――司会者の言葉は慎重だった。
杉本は記者席から見守り、発言の端々に以前と違う温度を探した。
“任意”の語は、少しだけ柔らかい場所に置かれ、“責任”は抽象ではなく手続きに結びつけられはじめている。
――言葉の置き換えは救いではない。けれど、救いの通路を開くことはある。
終盤、会場の後方から一人の女性が立った。
「わたしは、抜けました。いま、抜けたことを“敵”にされない場所を探しています」
司会者は躊躇い、しかしマイクを渡した。
彼女は続ける。
「謝罪はいりません。説明がほしい。過去の文書が、どのように人の心を扱っていたのかを」
壇上の宗教学者が頷き、静かに言う。
「“赦しの前に記録を”。それができるとき、共同体は成熟します」
拍手が広がり、やがて細く収束した。
“成熟”という言葉は便利すぎるが、いまはそれでもよかった。次に必要な具体は、別の場所で積み重ねるほかない。
*
会の終わり、ロビーの隅で明子に会った。
「いろんな人が、いろんな速度で話していましたね」
「速度を揃えない、という合意が必要なんだと思います」
彼女はコートの襟を整え、鞄から細い冊子を取り出した。
『祈りの形見』――手作りの小冊子だった。
「出来ました。最初の版です。ここに、母のノートの一頁を載せました」
開くと、あの一行が印刷されていた。
〈神様、私は赦せません。でも、赦せない私が怖いです〉
その下に、小さく注記がある。
〈“赦せない”と声に出すことは、祈りである〉
杉本は頁を撫で、冊子を閉じた。
「この注記は、あなた?」
「いいえ。あの会で、匿名の方が掲示板に書いた言葉です」
言葉が、誰のものでもないまま誰かを支えることがある。そういうとき、言葉はやっと言葉になる。
*
その晩、杉本は久しぶりに小さな教会の扉を押した。
平日の夕方、椅子はいくつも空いている。
祭壇の両脇の蝋燭が短く燃え、薄い聖歌が響いては吸い込まれていく。
彼は最後列に座った。
祈り方は分からない。けれど、分からないままで座っていてよいと、今は思える。
膝に置いた手が、自然に組まれていた。
「主よ、赦したまえ」
前列の老人の小さな声が、天井の木目にしみ込むように揺れた。
――赦すのは、誰か。赦されるのは、誰か。
問いは答えに触れず、しかし問い続けること自体が呼吸のように感じられた。
目を閉じると、暗闇の裏側で、母の笑い声がした気がした。あの、台所で鍋をかき混ぜるときの、低く短い笑い。
「母さん」
小さく名を呼ぶと、胸の硬さが少しほどけた。
*
“赦しの地図”は予定どおり掲載され、予想どおり賛否を呼んだ。
賛意は多く、反発もまた多い。
だが、そのどちらにも属さない短い便りが混じった。
〈わたしは結論がいちばん苦手です。だから、地図があって救われました〉
〈地図の“白地”を残してくれてありがとう〉
白地。――記者が恐れてきた余白が、誰かの呼吸となることがある。
杉本は、返信の必要のない礼を、机の木目にそっと押し当てた。
*
夜、ノートを開いた。
“神は、私を赦してくださるだろうか”
“私は、神を赦すことができるだろうか”
その二行の間に、さらに一行を足した。
〈人は、人を赦すことができるだろうか〉
書いてから、ゆっくり息を吐いた。
赦しを「できる」と言い切れない距離を、明日も維持する。その持続自体が、いまの彼の祈りだった。
窓の外で、春の雨が細く続いている。
雨音がやがて薄れ、遠くで踏切が二度鳴った。
彼は目を閉じ、音の先に自分の歩幅を合わせた。
神は、沈黙しているかもしれない。
それでも人が語る限り、沈黙は終わらないまま、始まり続ける。
――宿題のように、明日に手渡される。
机の上のノートを閉じ、部屋の灯りを落とす。
暗闇が形を取り戻し、壁と天井と、椅子の輪郭が静かに整っていく。
彼はベッドに身を沈め、深く呼吸をした。
呼吸の回数だけ、祈りはある。
祈りの回数だけ、赦しは“作業”になる。
そして作業の回数だけ、人は生き延びる。
目を閉じる直前、母の声が聞こえた気がした。
――「それでいいのよ。明日も、同じように。」
(第十章 了)

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