第八章 赦しの条件
冬の終わり、雪混じりの雨が東京の街を薄く濡らしていた。
杉本は傘を持たず、灰色の雲を仰ぎながら歩いた。
記者を三十年近くやってきたが、今ほど「言葉の重さ」を測りかねた時期はなかった。
記事は読まれ、議論を呼び、そして波紋を広げた。
だが、波紋の中心に立っているのは彼自身ではない。
中心にいたのは、あの“声を失った人々”――信じ、裏切られ、それでも祈ろうとする者たちだった。
編集部に着くと、北見がデスクで資料をまとめていた。
「来週、教団が“公式の記者会見”を開くらしい」
「会見?」
「“透明性を確保するため”だそうだ。実際は火消しだろうけど」
北見の口調には、職業的な皮肉とわずかな希望が混じっていた。
「出るんですか?」
「出ない理由もないでしょ」
「記者席、狭いですよ」
「そのほうがいい。息が詰まるくらいが、ちょうど真実に近い」
杉本は笑い、席に着いた。
机の上には、あの内部資料のコピーがまだ山のように残っている。
ふと、その中に見覚えのない封筒を見つけた。差出人はなく、中には短い手紙が一枚。
〈あなたの記事で、母は初めて泣きました。
“怒っていいのだ”と。
それを教えてくれて、ありがとうございます。〉
文末には名前がなかった。
――怒りは祈りの裏返しだ。
彼はその手紙を封筒に戻し、引き出しの奥にそっとしまった。
翌日、教団の記者会見が行われた。
会場は都内のホテルの一室。壁際にはマスコミ関係者が詰めかけ、中央に教団の広報部長と弁護士が座っている。
「私たちは、信仰の自由を守りながら、過去の誤解を解くための努力を続けております」
広報部長の声は柔らかく、しかしどこか台本のようだった。
「献金についても、“信徒の自主的意思”であり、強制ではありません」
その言葉に、数人の記者が同時にペンを走らせた。
杉本も静かにメモを取りながら、別のことを考えていた。
――彼らは、罪を認めるよりも、語りを管理している。
“赦し”を語るための言葉を、予め書き換えているのだ。
質問の時間になった。杉本は挙手した。
「杉本です。質問させてください」
会場が一瞬、静まり返る。
「先ほど“自主的意思”とおっしゃいましたが、内部資料には“家庭内の葛藤を信仰指導の対象とする”という記述があります。
これは個人の自由な意思とは言えないのでは?」
広報部長はわずかに眉を動かした。
「その資料がどの時期のものか分かりませんが、現在では指導方針を見直しております」
「では、過去に“見直すべき方針”が存在したことは認めますか?」
「……ご想像にお任せします」
その一言に、会場の空気が変わった。
北見が隣で小さくつぶやいた。
「これが、彼らの“沈黙”の形だね」
*
会見が終わると、ロビーには冷たい空気が流れた。
記者たちは原稿の電話連絡を取り合い、弁護士たちは低い声で話し込んでいた。
その中に、見覚えのある女性が立っていた。
――明子だった。
彼女はマフラーを首に巻き、沈んだ表情のまま、ひとりロビーの隅にいた。
「来てたんですね」
杉本が声をかけると、彼女はわずかにうなずいた。
「ええ。ここで見ていないと、前に進めない気がして」
「どうでした?」
「……彼らの言葉、祈りのように聞こえました。でも、それは“自分を守る祈り”」
「あなたの祈りは?」
「私は、誰も憎まない祈りを、まだ探しています」
彼女はそう言って、微笑んだ。
だがその笑みは、痛みを抱えた人だけが持つ静けさを帯びていた。
駅に向かう途中、二人は無言で歩いた。
交差点の信号が赤に変わる。
「杉本さん、赦すって何でしょうね」
明子が不意に口を開いた。
「赦しは、加害を忘れることじゃない。
覚えていながら、それでも前へ進むことです」
「……難しいですね」
「難しいですよ。でも、だから人間なんです」
信号が青になった。
二人は横断歩道を渡り、群衆に紛れた。
その瞬間、杉本の頭の中で、母の声がよみがえった。
――「神さまは、きっと赦してくださる」
だが今の彼は、違う言葉を信じていた。
“赦しとは、神が与えるものではなく、人が差し出す勇気だ。”
*
数日後、北見から新しい企画が持ち込まれた。
「“赦し”をテーマにシリーズを組もうと思う。タイトルは『祈りの残響』」
「宗教だけでなく、家族、犯罪、政治まで?」
「そう。人が人を赦す瞬間を取材していく」
杉本は少し考えてから、うなずいた。
「やりましょう」
北見は笑った。
「でも、あんたにとっては自分の物語でもあるんでしょ?」
「たぶん、そうです」
彼は窓の外を見た。
春が近い。灰色の雲の向こうに、薄い光の層が見える。
それは、冬の終わりを告げる光だった。
夕方、杉本は河川敷に出た。
対話会の掲示板が、まだ残っていた。
風で紙がめくれ、誰かの書いた言葉が目に留まる。
〈赦しは、誰かのためではなく、自分のため〉
その下に、小さな字でこう続いていた。
〈でも、自分のためだけでは、祈りにならない〉
彼は立ち止まり、目を閉じた。
赦しとは、他者との距離を測るための物差しなのかもしれない。
近づきすぎれば傷つき、離れすぎれば忘れてしまう。
その中間を探す作業こそ、祈りの真ん中にあるのだ。
*
夜、帰宅してノートを開く。
母の字が、そこにあった。
“神は私を赦してくださるだろうか”
ページの隅に、若い日の自分の書き込みが重なっていた。
〈おかあさんがわらいますように〉
杉本はペンを取り、新しい行に書き加えた。
〈人が人を赦せますように〉
ペン先が震えた。
その震えが、彼の中の“恐れ”と“希望”をつないでいた。
書き終えると、外から風の音が聞こえた。
窓の外では、街灯が淡く揺れている。
彼は立ち上がり、窓を少しだけ開けた。
冷たい風が部屋に入り、ノートのページをめくった。
その一瞬、光がノートの白い紙を照らし、母の文字と自分の文字がひとつに重なったように見えた。
*
翌朝。
携帯に明子からのメッセージが届いた。
〈あの祈りの場、今度は“赦しを考える会”に変えようと思います。
あなたの記事を、冒頭で読み上げてもいいですか?〉
杉本は短く返信した。
〈もちろん〉
そして続けて打った。
〈赦しの形は、人の数だけあります〉
送信ボタンを押した瞬間、胸の奥に温かいものが広がった。
そのぬくもりは、神からのものではなく、確かに人から人へ渡されたものだった。
それを「信仰」と呼ぶか、「祈り」と呼ぶかは、もうどうでもよかった。
*
夜、再びノートを開いた。
そこには、母の筆跡と子どもの字と、そして今の自分の文字が並んでいる。
――三つの祈りが、一本の線になっていた。
「神よ、沈黙していてもいい。
でも、私たちが話すことを、どうかやめさせないでください」
彼は小さくつぶやいた。
その声は、誰にも届かなくてもよかった。
それでも確かに、祈りはそこにあった。
そして杉本は、ゆっくりとノートを閉じた。
部屋の外では、夜明け前の風が街を撫でていた。
静けさの中で、彼は確かに聞いた気がした。
――祈りは、沈黙の中にこそ息づくのだと。
第九章 言葉の果てに

春が訪れようとしていた。
街の空気には、かすかな湿り気と花粉の匂いが混じり、電車の窓から差し込む光が柔らかくなっていた。
それでも杉本の胸の奥には、まだ冬の冷たさが残っていた。
記事を書き、会見を経て、彼の周囲は静かだった。
いや、“静けさ”という言葉では足りない。
それはむしろ、嵐の後の、音を吸い込むような空白だった。
その朝、編集部のドアを開けると、北見がコーヒー片手にパソコンの画面を見つめていた。
「教団側、動きましたよ」
「訴訟か?」
「いや、違う。“対話プロジェクト”を発足したそうです。被害者や家族とも向き合うって」
「……皮肉ですね」
杉本は苦笑した。
「あなたの記事がきっかけでしょうね」
「彼らは火を消すのが上手い。燃え残った灰を“和解”という言葉で包んでいく」
「それでも、言葉を出したという事実は大きい」
北見は、少し微笑んだ。
「あなたも、そろそろ“自分の言葉”を出す番じゃないですか?」
杉本は返事をしなかった。
“自分の言葉”――それは記者にとって最も危うい言葉だ。
自分を消して他人を書くことに慣れた者ほど、内側に沈黙を抱えている。
だが今、彼の沈黙は膨らみすぎて、形を持ち始めていた。
*
その夜、杉本は再び河川敷に足を運んだ。
あの掲示板はまだ残っていた。
風に揺れる紙の中に、見覚えのある筆跡を見つける。
〈赦しとは、記憶を棄てずに、光を選ぶこと〉
――明子の字だった。
彼はポケットからペンを取り出し、下にそっと書き加えた。
〈光を選ぶには、闇を知らなければならない〉
その文字を見つめながら、ふと母の顔を思い出す。
祈るときの母は、いつも苦しそうだった。
それでも彼女は、神を恨むことなく“赦し”を口にしていた。
あの沈黙の奥に、どれほどの痛みがあったのか。
――自分はまだ、その手前で立ち止まっているのだ。
*
翌週、杉本は石坂から連絡を受けた。
「“沈黙の会”を正式に再開します。あなたの記事をきっかけに、話をしたいという人が増えました」
「まだ、反発もあるでしょう」
「ええ。ですが、“対話”という言葉がひとり歩きしているうちに、沈黙を破ろうとする声も出てきたんです。
沈黙は怖い。でも、沈黙の中にしか聞こえない声がある。あなたの記事が、それを掘り起こした」
「……俺は、まだ書けていない気がします」
「何を?」
「自分の“赦し”です」
電話の向こうで、石坂は静かに笑った。
「書けないものこそ、書く意味があるんですよ」
*
会場には、見覚えのある顔がいくつも並んでいた。
明子、以前怒鳴り声を上げていた男性、そして新しく参加した若者たち。
中央には砂時計。
石坂が開会を告げた。
「今日は、“言葉の果て”について話したいと思います。
赦しも、信仰も、怒りも、すべて言葉で表そうとする。でも、本当のところは、言葉の外にある。
その“外”を、どう扱うか――今日は、それを考えたい」
杉本はメモ帳を閉じ、ただ耳を澄ませた。
最初に話したのは、若い男性だった。
「僕は、家族を“信者”と“非信者”で分けてきました。でも、もうやめます。
どちらの側にも“人”がいることを、忘れていた」
次に、老婦人が続いた。
「祈りの言葉は、神に届かなくてもいい。
届かなくても祈る――それが、生きている証だから」
そして明子が、ゆっくりと立ち上がった。
「私は、赦したいと思っていました。でも、今日気づいたんです。
赦しを“目的”にしてしまうと、また苦しくなる。
赦すために祈るんじゃなくて、祈るうちに赦しが“起こる”のかもしれません」
彼女の言葉に、場の空気が柔らかく揺れた。
杉本は、その瞬間を忘れまいと心に刻んだ。
――赦しは、意志ではなく出来事だ。
*
対話会が終わった後、明子が杉本に声をかけた。
「今度、小さな本を作るんです。“沈黙の記録”として」
「それは、あなたの言葉で?」
「みんなの言葉です。怒りも涙も、そのまま残す」
「素晴らしい」
「でも、タイトルが決まらなくて……」
杉本は少し考えた。
「“祈りの形見”なんてどうですか」
「……いい言葉ですね」
明子は静かに微笑んだ。
その笑みには、かつての怯えも、罪悪感もなかった。
ただ、祈りを生きる人間の穏やかな光が宿っていた。
*
帰り道、杉本は携帯を見た。
北見からメッセージが届いていた。
〈新連載、“赦しの地図”どうでしょう?〉
〈あんたの名前、署名で出していい?〉
彼はしばらく指を止めた。
記者としての匿名性――それは鎧でもあり、祈りの壁でもあった。
だが今、もう隠れる理由はなかった。
〈いいですよ。名前を出しましょう〉
送信してから、胸の奥にかすかな震えが走った。
それは恐れではなかった。
むしろ、長い沈黙の後にようやく訪れた“声”の感覚だった。
*
夜、彼は自宅の机に向かい、ノートを開いた。
母の古びた字がそこにある。
“神は、私を赦してくださるだろうか”
杉本はペンを取り、下に書き足した。
〈私は、神を赦すことができるだろうか〉
書き終えると、胸の奥が熱くなった。
“赦す”という言葉は、人から神へ向けて放たれることが少ない。
だが彼は、ようやく気づいたのだ。
――信仰とは、赦されることを待つだけではなく、赦す覚悟を持つことでもある。
母は、その覚悟を沈黙の中に抱いていたのかもしれない。
ノートを閉じると、窓の外から雨音が聞こえた。
彼は立ち上がり、ガラス越しに街を見つめた。
雨は静かに街灯を滲ませ、光がゆらゆらと揺れている。
その揺れは、まるで祈りの呼吸のようだった。
声にはならないが、確かにそこに“いのち”があった。
*
翌朝、杉本は小さな封筒を編集部に残して出かけた。
中には手書きのメモが一枚。
〈この仕事をしてきて、ようやく分かりました。
沈黙は、祈りの終わりではなく始まりです。
私たちが語る限り、神は沈黙していていい。〉
窓の外、薄曇りの空の下で、街はゆっくりと動き始めていた。
祈りの残響が、遠くで微かに聞こえる気がした。
(第十章につづく)

コメント