遠藤周作を模倣し、『旧統一教会』を題材にした小説、「沈黙の祈祷(きとう)」第七章

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第七章 灯の揺れる場所

 冬の空気は澄み、音を小さくする。

 杉本が編集部のドアを押したとき、室内のざわめきは予想より静かだった。

 コーヒーの匂い、プリンターの規則的な駆動音、電話の短いコール。

 何も変わらないはずの日常が、記事一本で少しだけ傾いでいる――そんな気配が、空調の風に混ざって漂っていた。

 「おはよう」

 北見が手を上げた。机の上の紙束には赤い付箋がいくつも刺さっている。

 「読者欄、想像以上に来た。賛否じゃ括れない声が多い。“怒りと救いの両方を感じた”みたいな」

 彼女はプリントを一枚、回す。

 “母が同じでした。私は信じられなかったけど、あなたの記事を読んで、母を今度は“読む”ことにしました。”

 活字化された“読む”という動詞は、やわらかい刃のようだった。切りつけずに、形だけを線取る。

 「ただ、法務からも連絡。教団側の代理人から“名誉を毀損した可能性”の申し入れ」

 北見の声は淡々としていた。

 「公開停止の要請は?」

 「いまは“訂正と謝罪”の提示。具体性に欠けるから突っぱねる。こっちの事実整理は、もう一段固めよう」

 「明子さんの身辺は?」

 「注意を促した。石坂さん経由で、対話会の会場にも見張りつけるって」

 北見は一息つき、机の角を指で叩いた。

 「“ひらく”記事は、ひらいたぶん風も入る。覚悟は要るが、風が必要なくらい空気は濁ってた」

 杉本は頷いた。

 覚悟は、書く前よりも書いた後に多く必要になる。

 “次に何を置くか”――それだけが、言葉の側の責任だ。

 その日の夕方、編集部に小さな段ボールが届いた。差出人のない段ボールを開けると、バインダーがぎっしり入っていた。

 献金の封筒の控え、配布物の改訂履歴、指導メモの断片。

 最後にペン書きのメモが一枚。

 〈数の上に祈りを置くのをやめてほしい。名前は伏せてください。内部の者〉

 声なき告白は、冷たい紙に熱を残す。杉本は手袋を外し、ひとつひとつに番号を振り、日付を追い、説明の矛盾を探した。

 “任意”の語が、ある版では太字に、ある版では小さく注釈に回される。下線のあるなしは、祈りの軽重にさえ影響する。

 文言の変遷を年表に引いたとき、一本の細い線が浮かび上がった。

 ――恐れの言語化、恐れの不可視化、そして再可視化。

 組織は言葉で世界を作る。世界の形が変われば、救いの輪郭も変わる。

 (彼らの救いの輪郭は、誰の体温で描かれている?)

 杉本は天井を見上げ、目を閉じた。

     *

 夜、電話が鳴った。番号は表示されない。

 「きみのせいで、妻が動揺している」

 低く、硬い声。

 「いままで安定していた祈りが、ぐらついている。どう責任を取る」

 杉本は沈黙した。

 責任という言葉は、誰もが他者へ押し出したがる。受け止めた瞬間、その輪郭が崩れて自分の内側に沈む。

 「安定という言葉が、彼女を縛っていませんか」

 聞き返すと、電話の向こうで呼吸が荒くなった。

 「きみは宗教を知らない」

 「宗教も人間も、恐れから始まることがある。その恐れを可視化すれば、祈りの形が変わると信じています」

 通話は切れた。

 窓の向こう、夜の雲が低く、街の明かりを吸い込んでいる。

 “祈りの形が変わる”――その変化はいつも痛みを伴う。骨が伸びる痛みと、傷を広げる痛みは、外からは見分けがつかない。

 翌日、石坂からメッセージが届いた。

 〈次回の対話会、“読み方”の前に“沈黙”を五分置きたい〉

 〈反発も増えました。扉の外に立つ人たちの怒りを、場の中の呼吸で受け止められるように〉

 (沈黙を延ばすのか)と杉本は思う。

 沈黙は、逃避にも盾にもなる。だが場が合意した沈黙は、責任の共有でもある。

 杉本は「行きます」とだけ返した。

     *

 当日、会場にはいつもより多い人が集まっていた。

 入口脇の掲示板には、紙が重なり合い、何枚かは端がめくれて風に揺れている。

 〈“信仰の自由”は“恐れの自由”ではない〉

 〈献金を否定しない。だが“恐れのレバー”には触れない〉

 〈沈黙は、逃げないために使う〉

 文字はさまざまな筆跡で同じ場所を目指すかのように集まり、重なっていた。

 石坂が砂時計を置いた。今日は大きい。

 「五分置きます。目を閉じても、開けていても、背筋を伸ばして座っても、壁を見つめても構いません。誰かの中の怒りも、悲しみも、いまは名前をつけないで置いておく時間です」

 砂が流れ始める。無音だが、目に見える。

 最初の一分、扉の外のざわめきが耳の縁を叩く。

 二分、椅子の軋みが、互いの存在を知らせる。

 三分、誰かの呼吸が深くなる。

 四分、涙の音が一度だけ、浅く。

 五分目に、時計のような静けさが訪れた。

 沈黙は、誰のものでもないとき、場の所有物になる――杉本はそう思った。

 「話したい方から」

 石坂の合図に、一人の中年男性が手を上げた。

 「私は、怒っている側です。記事に。いや、記事に背中を押されて、妻が“読み方”を変えたことに。

 ……でも、さっきの五分で分かりました。私は怒っているのではなく、怖がっていた。妻が私の“安定”から離れてしまうことを」

 彼は小さく笑った。

 「怒りは、恐れのマスクですね。取るのが下手でした」

 次に、若い女性。

 「私は、母を責めてきました。お金のこと。家のこと。

 でも記事を読んで、ここで話を聞いて、母は“神様に預けた”つもりだったのだと……。

 預けられた私は、預けられたままになっていた。

 今日、預けられたものを自分に取り戻します」

 彼女の声は震えていたが、言葉の最後だけが太かった。

 明子が続いた。

 「私は、抜けました」

 ざわめき。

 「抜けたと言っても、心はまだ行ったり来たりです。

 広報の仕事もやめました。地域の相談窓口で、“聞く”ことから始めます。

 信仰は捨てません。捨てる、という言葉では語りたくない。

 私は、祈る先を“恐れ”から“人”に少しだけ近づけたい」

 そのとき、扉の外の怒声が小さく上がった。

 石坂は目を向けず、砂時計をそっと回し直した。

 会場にまた、音のない重しが下りる。

 明子は深呼吸し、言葉を続けた。

 「怒っている方の気持ちも、分かります。裏切られたと思うでしょう。

 でも私は、生きるための呼吸を取り戻したい。祈りとは、呼吸だと知り直したから」

 彼女の隣で、老婦人がうなずいた。

 「わたしも、今日、息がしやすい」

     *

 会は終わり、掲示板は新しい紙でぎっしりになった。

 杉本は一番端に、自分の一文を留めた。

 〈“赦す/赦さない”の二択をやめる。“赦そうとしている途中”を掲示する〉

 安全ピンが硬い。指に鈍い痛み。

 ふと横を見ると、先ほどの中年男性が紙を留めている。

 〈怒りの正体は恐れ。恐れの正体は孤独。孤独を祈りで隠さない〉

 紙は、言葉の距離を少しだけ縮める。

 距離があることを可視化するからこそ、縮まる――それは、道具の倫理だ。

 廊下に出ると、冷たい空気が頬を撫でた。

 出口の前で、明子が待っていた。

 「……ありがとう」

 「礼を言うのは、こちらです」

 彼女は笑い、すぐ真顔に戻った。

「ねえ、杉本さん。祈りって、どこまでが祈りなんでしょう。

 言葉にする手前の震えも祈りなら、怒鳴り声だって“形を失った祈り”に見えるときがある」

 杉本は答えを持たなかった。

 「祈りの定義は、人の数だけある。だから“読み方”という掲示が要る」

 「掲示は、祈りの“裾野”ですね」

 彼女は小さく笑った。

 裾野。山頂ではなく、そこに至る広がり。

     *

 その夜遅く、杉本は母のノートを開いた。

 “みことばノート”の余白に、小さな紙片が一枚、挟まっているのに気づいた。

 ――見覚えのない紙。

 そこには子どもの字で、短く書かれていた。

 〈おかあさんがわらいますように〉

 (だれの字だ――)

 記憶の奥から、幼い自分の筆圧が浮かび上がる。

 病室のベッド脇、母が眠る合間に、父のボールペンで震えながら書いた。

 “祈り”という言葉を知らなかったころの祈り。

 彼はノートをそっと閉じ、額に押し当てた。

 祈りは、言葉の前にあった。言葉のあとにも残る。

 その中間で、人は定義を試み、しばしば失敗する。

 スマホが震えた。北見からだ。

 「追加の資料、見た?」

 「見ました。文言改訂の年表にした。明日渡す」

 「助かる。法務にも通す」

 少し間があって、北見が続けた。

 「……きょう、対話会、どうだった?」

 「静かで、深かった。怒りが“言葉のかたち”を見つける瞬間があった」

 「いいね。記事にしよう。“怒りの読み方”」

 北見の声が柔らかく笑いへ傾いた。

 「うちの紙面、ジャンルが増えた。“社会”“政治”“暮らし”“祈り”」

 「最後は枠外に書いてください」

 電話を切ったあと、杉本はしばらく笑い続けた。

 笑いは、祈りの遠縁かもしれない。

 誰かを責めず、何かを救おうともせず、ただ“生き延びた”という事実に与えられる音。

     *

 翌朝、編集部に一通のメールが届いた。

 件名は「面会のお願い」。差出人は教団の広報室、別の担当者名。

 〈記事について意見交換をしたい。公開の場でも構わない〉

 北見は眉を上げた。

 「風通しを作る気になったか、火消しに来るのか。どっちでもいい。場をひらこう」

 数日後、公共施設の会議室で“読み方”の公開対話が行われることになった。

 壇上に、教団広報二名、弁護士一名。対する側に北見と杉本、石坂。

 会場の後方には、信者も市民も入り混じって椅子が並び、掲示板が持ち込まれている。

 「今日は、断罪もしないし、釈明の要求もしません。言葉の置き場所を互いに確認したいだけです」

 石坂の冒頭の一言が、場の温度を一度下げた。

 教団の広報は、落ち着いていた。

 「われわれは“任意”を強調してきた。だが、現場での運用に歪みがあったことは否定しない」

 「“恐れ”という語が出ているが、恐れで信仰は持続しない。もし恐れで持続しているとしたら、それは信仰ではなく従属だ」

 弁護士が割って入る。

 「ただし、個別の事例で“強要”があったと断ずるなら、具体性を求めます」

 杉本はマイクを取った。

 「断ずるために来たのではありません。

 “読み方”を可視化するために来ました。

 “任意”という語が人をどう縛り、どう救うか。文言の変遷、現場の温度差、そこで生まれた沈黙の正体」

 彼は、年表と配布物のコピーを示した。

 「ここにいる誰も、きょう“勝たない”でください。勝ち負けは、場を閉じます」

 会場の空気がふっと抜けた。

 勝つために来ていない――その確認は、人を椅子に座らせる。

 後方から手が上がる。年配の男性。

 「わたしは信者です。家族を連れてきました。正直言えば、怒っています。

 ですが、怒りを“読み方”に変える場があるなら、ここにいます」

 彼の妻が続ける。

 「私は抜けました。夫は残っています。家の中で“勝ち負け”をやめるのに、何年もかかりました。

 今日、やっと並んで座れた気がします」

 石坂が砂時計を置いた。

 「三分だけください。いま、それぞれの呼吸に戻します」

 砂は、会議室でも、祈りの部屋と同じ速さで落ちていく。

 沈黙のあと、拍手が自然に起きた。誰のためでもなく、場のために。

     *

 対話の翌夜、杉本は河川敷を歩いた。

 水面に街の明かりが揺れ、風が頬の皮膚を薄く撫でる。

 遠くで踏切が二度鳴り、犬が一声だけ応じた。

 胸ポケットには、母のノート。

 取り出して、ひらく。

 “神は、私を赦してくださるだろうか”

 ページの端に、自分の小さな字がある。

 〈おかあさんがわらいますように〉

 彼は微笑み、ゆっくり閉じた。

 赦しは、誰かに与えられる前に、自分の中で毎朝確かめ直す“仕事”だ。

 祈りは、定義ではなく、分度器のようなものだと今は思う。

 感情の角度を測り、過不足を知り、調整する道具。

 角度のつけ方は人それぞれだが、測ろうとする意思が祈りの最小単位だ。

 帰り道、明子からメッセージが入った。

 〈相談窓口、初日終わりました。怒りの言葉の中に、笑いが混ざる瞬間がありました〉

 〈笑いは、祈りの遠縁ですね〉

 杉本は“同意”のスタンプを送り、短く返した。

 〈明日も、同じように〉

 送信してから、これは母の声の借用だと気づいて、少しだけ照れた。

 照れは、生の側に戻るための梯子だ。

 空に雲が薄く走り、星がひとつだけ見える。

 見えるものより、見えないもののほうが多い夜。

 それでも人は、そのひとつに向けて願いを投げる。

 届くかどうかは、いつも分からない。

 けれど、投げる腕を静かに上げられる夜がある限り、人は生き延びられる――杉本はそう信じてみることにした。

 彼は歩幅を少し広げた。

 足音が一定のリズムを刻み、そのリズムが胸の鼓動と重なる。

 今のところ、神は沈黙している。

 だが、沈黙のままでも、灯は揺れ続ける。

 揺れる灯の下で、人は互いの“読み方”を差し出し、取り戻し、また差し出す。

 その不器用な往復運動が続く限り、世界は少しだけ呼吸しやすい。

 遠くで、また踏切が鳴った。

 彼は立ち止まらず、音の先へ歩いていった。

 歩みの先に、祈りの定義はない。

 ただ、明日の“仕事”があるだけだ。

(第八章につづく)

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