西村京太郎を模倣し、『JR福知山線脱線事故』を題材にした小説、「終着駅の迷宮」(ラビリンス)第十九章・第二十章

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第十九章 証言台

 大阪地方裁判所の刑事第2法廷は、開廷前から張り詰めた空気に包まれていた。遺族、報道関係者、傍聴人――その視線はすべて、証言台に立つ男へ向けられている。

 藤原浩一。かつてJR西日本技術戦略本部に所属し、事故後のデータ改ざんに関わったとされる人物だ。

 十津川警部と亀井刑事は、法廷の後方席に腰を下ろしていた。証言の行方が、事件の核心を突くと確信しているからだ。

 裁判長が短く開廷を告げ、検察官が立ち上がる。

「証人、あなたは事故三日後、技術戦略本部のサーバーにアクセスし、ブレーキ作動記録の一部を削除しましたね?」

 藤原はわずかにうつむいた。傍聴席にざわめきが走る。

「……はい。しかし、それは私の独断ではありません」

「誰の指示だったのです?」

 藤原はゆっくりと顔を上げ、裁判長ではなく傍聴席の一点を見つめた。そこに座っていたのは、西田靖副部長だった。

 西田は視線を逸らさない。むしろ挑むような眼差しを返していた。

「西田副部長の指示です。“このデータは外部に出すな”と、はっきり言われました」

 再びざわめき。裁判長が木槌を打ち、静粛を促す。

 検察官が一歩踏み込む。

「証人、そのやりとりを録音した音声データがありますね?」

「はい。事故翌日の会議室での会話です。私は、あの時から迷っていました。指示に従えば会社を守れる。しかし真実は……消える。だから、記録だけは残したんです」

 亀井が小さく息を呑んだ。十津川は視線を前に据えたまま、藤原の口調と間を逃すまいとしている。

「証人、あなたはなぜ今になって証言する気になったのです?」

 藤原は少し笑った。だがそれは自嘲の色を帯びていた。

「私にも子どもがいます。小学生の息子が、ある日、テレビのニュースを見ながらこう言いました。“パパの会社、なんで嘘ついたの?”――答えられませんでした。答えられない父親でいたくなかった」

 傍聴席から、嗚咽が漏れた。遺族の一人がハンカチで目を押さえている。

 

 次に弁護側が立ち上がる。西田の弁護士だ。

「証人、あなたは会社から懲戒処分を受けていますね? その恨みから、副部長を陥れようとしているのでは?」

「違います。私が恨んでいるのは、自分です。あの時、もっと強く拒否できなかった自分を。だからこそ、ここで話すんです」

 弁護士はなおも食い下がるが、藤原は言葉を崩さなかった。証言の端々には、長い葛藤と決意が刻まれている。

 

 証言が終わり、藤原が法廷を去る。その瞬間、彼は十津川の方を一瞬だけ見た。

 十津川は軽くうなずいた。それだけで、互いに伝わるものがあった。

 

 休廷後、廊下で亀井が言った。

「やっぱり……人間、最後は自分の子どもに顔向けできるかどうか、なんですね」

「そうだ。だが、まだ終わりじゃない。西田だけじゃない。背後にいる川井、そして国交省OBの動きも――全部、表に出さなければならない」

「……裁判所でそこまで踏み込めますかね」

「我々が証拠を揃えれば、できる」

 

 その夜、十津川は東京の捜査本部に戻ると、新たな資料を開いた。

 そこには、事故直後の夜に交わされた複数のメールのコピーがあった。差出人はJR西日本の幹部、宛先は国交省の川井啓一――件名は「対応指針」。

 本文にはこう記されている。

「報道は運転士の過失に一本化すること。構造的欠陥や過密ダイヤへの言及は避ける。」

 亀井が資料をのぞき込み、口笛を吹いた。

「……これ、完全にアウトですね」

「これを証拠として出せば、川井も逃げられない」

 

 翌日、検察と警察の合同会議が開かれた。

 十津川は会議室の中央で、証拠ファイルをテーブルに置いた。

「我々が持っているのは、藤原の証言、音声記録、削除ログの復元データ、そしてこのメールです。西田個人の指示にとどまらず、企業ぐるみ、さらに国交省OBまで関わっていた構図が見えてきます」

 検察幹部が頷いた。

「このまま追えば、“業務上過失致死”だけじゃなく、“証拠隠滅罪”でも立件できる可能性があるな」

 その言葉に、室内の空気が少し動いた。

 誰もが、この事件の重みと広がりを再確認していた。

 

 だがその夜、十津川の携帯に非通知の着信があった。

 受話口から、低い声が響く。

「警部、これ以上深入りすると、あなたの立場も危うくなりますよ」

「誰だ?」

「真実は、人を救うだけじゃない。壊すこともある。壊される覚悟はあるのですか?」

 通話はそれだけで切れた。

 十津川はしばらく携帯を見つめ、そして机に置いた。

 ――覚悟なら、とうにできている。

 

 翌朝、十津川は新たな捜査計画書を手に、大阪へ向かった。

 法廷での次の証言は、川井啓一。その証言台が、この事件の核心を決定づけることになると確信していた。

第二十章 最後の証言台

 大阪地方裁判所、刑事第2法廷――

 この日の傍聴席は、これまでにないほどの緊張感に満ちていた。証言台に立つ予定の人物は、川井啓一。かつて国土交通省の幹部であり、事故当時はJR西日本の顧問として影響力を持っていた男だ。

 十津川警部と亀井刑事は、法廷の後方で静かに開廷を待っていた。

 川井はこれまで一度も公の場で発言しておらず、報道陣も彼の肉声を求め続けてきた。

 傍聴席には遺族、メディア、そして国交省関係者らしき姿も混じっている。

 

 裁判長の入廷。木槌の音が響くと、川井がゆっくりと証言台に立った。

 背筋は伸び、年齢を感じさせない鋭い目が法廷内を見渡す。

「証人、あなたは事故直後、JR西日本の危機管理会議に出席していましたね?」

 検察官の質問に、川井は落ち着いた声で答える。

「はい。しかし私は顧問という立場で、決定権はありませんでした」

「ですが、その会議の議事録には、“運転士個人の過失を強調すべき”とあなたが発言した記録があります」

 川井は眉ひとつ動かさない。

「それは一般論です。報道や世論が混乱すれば、企業は立ち直れなくなる。私はあくまで混乱回避のための提案をしただけです」

 十津川はその冷静さを見つめながら、内心で警戒を強めた。川井は経験豊富な官僚だ。追及の波をかわす術を熟知している。

 

 検察官が次の証拠を提示する。

 事故翌日に川井が受け取ったメール。差出人はJR西日本の危機管理担当部長、宛先は川井。

 そこには、こう書かれていた。

「構造的問題に関する資料は全て本社の金庫に移す。外部への開示は厳禁。」

「証人、このメールについて説明してください」

 川井は軽くため息をついた。

「そのメールは私の了承を得るために送られたものですが、私は開示を禁止する指示は出していません」

「では、なぜ削除や隠匿が行われたのです?」

「知りません。現場判断でしょう」

 検察官の眉間に皺が寄った。だがここで畳み掛けるように、傍聴席後方から証人申請が行われた。

 立ち上がったのは――藤原浩一だった。

 

 裁判長が異例の許可を出す。藤原が証言台に立ち、川井をまっすぐ見据えた。

「川井さん。あの時、会議室であなたは言いました。“国も困る。だから真実は表に出すな”と」

 川井は一瞬だけ目を細めた。

「覚えていません」

「覚えていない? では、この音声を聞いても?」

 法廷内に藤原の録音データが再生された。

 低く落ち着いた川井の声が、はっきりと響く。

『真実は人を救うだけじゃない。国をも揺るがす。だから封じるんだ』

 傍聴席がざわめき、裁判長が木槌を叩く。

 川井はなおも表情を崩さなかったが、首筋にうっすらと汗が滲んでいた。

 

 休廷。廊下で亀井が小声で言う。

「警部、これで川井も観念しますかね」

「いや、あの男は最後まで否認するだろう。だが世論は動いた。ここからは証拠の積み上げが勝負になる」

 十津川はそう言いながら、ポケットから一枚のメモを取り出した。

 それは匿名で届いた封筒の中に入っていたコピーで、事故発生前の国交省内部会議の記録だった。

『過密ダイヤの是正要望は、JR西からの要請により棚上げとする』

 これが本物なら、事故の背景は国交省レベルでの怠慢、いや共犯だったことになる。

 

 その夜、十津川はホテルの部屋で資料を並べ、ひとつひとつ確認していった。

 電話が鳴る。亀井からだ。

「警部、今夜、大阪駅近くの喫茶店で会いたいという人がいます。元国交省の職員らしいです。例の会議に出てたと」

「わかった。すぐ行こう」

 

 喫茶店は人通りの少ない路地にあった。

 窓際の席に、背の曲がった中年男性が座っていた。顔色は悪く、落ち着きなく指を動かしている。

「……あなたが十津川警部ですか」

「ああ。あなたが元国交省の――」

 男はうなずき、封筒を差し出した。

「これが……あの日の会議録です。川井さんは“過密ダイヤを改めると、運行本数が減って国会で叩かれる”と言っていました」

「なぜ今になって?」

「娘が……あの事故で亡くなったんです。ずっと黙っていましたが、もう限界です」

 十津川は封筒を受け取り、深く頭を下げた。

 

 ホテルに戻ると、封筒の中身を確認した。

 それは複数ページにわたる詳細な会議録で、川井の発言が逐語で記されている。

 そこにははっきりと――「国益のため真実を伏せる」という言葉があった。

 十津川は静かに息を吐いた。これで、川井を法廷に釘付けにできる。

 

 翌朝、再び法廷。

 十津川は検察席の背後に立ち、証拠として会議録が提出される瞬間を見届けた。

 川井は初めて動揺を見せた。視線が泳ぎ、言葉が詰まる。

「証人、この発言はあなたのものですね?」

 しばしの沈黙。そして、かすれた声で――

「……はい。しかし、それは……」

 その先の言葉は、傍聴席のざわめきにかき消された。

 

 十津川は心の中で呟いた。

 ――これで、ようやく終わりが見えてきた。

(第二十一章へつづく)


※この小説はフィクションであり、実在の人物や団体とは一部の史実を除き関係ありません。西村京太郎風のリアリズムを重視し、架空の登場人物を通じて事件の構造に迫っていく構成になっています。

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