第十七章 逆流する証言
梅田の喧噪は、昼下がりにも関わらず重く淀んでいた。高層ビルの谷間を抜ける湿った風は、雨上がりの舗道に残る水たまりを波立たせ、その揺らぎが探偵・片桐の胸中を写すようだった。
――これで本当に、真相に近づけるのか。
そんな疑念が、足取りを鈍らせていた。
片桐は、梅田駅近くの小さな喫茶店に入った。昭和の香りを残す店内は、観葉植物と古びた木のテーブルが不釣り合いなほど落ち着きを与えている。奥の席には、今回の事故で一番最初に重要証言をした人物――元運転士の中谷が、姿勢を正して待っていた。
「お忙しい中、すみません」
中谷は軽く頭を下げたが、その眼差しは何かを押し殺しているように硬い。
「いいえ。むしろ、あなたの話を直接聞ける機会は貴重ですから」
片桐は、ゆっくりと席に腰を下ろした。
砂糖もミルクも入れないコーヒーの苦味を口に含みながら、片桐は切り出した。
「先日の供述について……一部、警察が取り下げたと聞きました」
中谷の表情がわずかに揺れる。
「ええ……あれは、私の思い違いだったと」
「思い違い?」
片桐の声が低くなる。
中谷は視線をカップに落とし、指先で受け皿の縁をなぞった。
「事故当日、私は確かにホームで見たんです。運転士が異様に顔色を変えて、携帯電話のようなものをポケットに押し込むのを……でも、後から調べたら、その時間には別の場所にいたことが証明された」
「つまり、あなたの記憶は……」
「作られたものかもしれません」
そう言う声は、ほとんど囁きだった。
店のドアが開き、外のざわめきが一瞬入り込む。
片桐はそこで、これまでの取材メモを思い返していた。証言が変わる――それは珍しいことではない。しかし、この事件では同じような証言の変化が複数人から出ている。まるで、何者かが裏で証言の方向を操作しているように。
「中谷さん、正直に言ってください。誰かに会って、話を変えるよう言われたんじゃないですか?」
中谷は一瞬、息を呑み、そして小さく首を振った。
「言われたわけじゃない……でも、会社の同期から連絡があって……『これ以上、面倒なことに関わるな』と」
同期――その一言に、片桐の中で何かが繋がりかけた。
会計を済ませて外に出ると、再び湿った風が頬を撫でた。
片桐は手帳を開き、ある名前を丸で囲む。鉄道会社の安全管理部に所属し、事故後すぐに別部署へ異動になった人物だ。その男は、中谷の同期であり、さらに事故の一か月前、運転士研修の記録管理を担当していた。
――この線だ。
片桐はその足で、京橋の古い雑居ビルに向かった。そこには鉄道関係者の退職者が集まる小さな会員制クラブがある。昼間から将棋を指す老人たちの奥に、その男――江藤がいた。
白髪交じりの髪、皺だらけの手、それでも眼光は鋭い。片桐が近づくと、江藤は盤上から視線を上げた。
「おや……探偵さんか。こんなところまでご苦労なこった」
「少し、お話を伺いたいんですが」
「話すことなんてないよ。俺はもう引退した身だ」
「では、中谷さんに証言を変えるよう忠告したのは?」
江藤の目が細くなる。
「忠告? そんなの、事故で死人が出てるのに、これ以上仲間を苦しめるなって……そういう気持ちだ」
「事故の真相より、仲間の安寧が大事だと?」
「真相なんざ、掘り返したところで誰も幸せにならん。……あんたもそろそろ引き際を考えたらどうだ」
その口調は淡々としていたが、背後には確かな圧力が漂っていた。
片桐は席を立ち、足早に店を出る。外の空気は、ビルの影でひどく冷たかった。
――やはり、この事件は会社の内部構造と深く結びついている。
その確信と同時に、背中を冷や汗が伝った。
夜、片桐の事務所に一本の電話が入る。受話器越しに聞こえたのは、かすれた女性の声だった。
「あなた……まだ、生きていたいのなら、この件から手を引きなさい」
返答をする間もなく、電話は切れた。
窓の外には、都会のネオンが虚ろに瞬いている。片桐は机上の資料を睨み、ペンを握りしめた。
退くか、進むか――その選択は、もう目の前に迫っていた。
第十八章 封印された記録
夜明け前の大阪駅構内は、まだ人工照明の白さが支配していた。始発前の静けさの中で、片桐はホーム端に立ち、暗がりを見つめていた。
遠くの線路から微かに響く車輪の音。それは、事故当日、乗客たちが最後に耳にした音と同じだと思うと、胸の奥が重くなる。
前夜の脅迫電話が脳裏を離れなかった。声の主は誰か――女性の声だが、機械で加工された可能性もある。だが、これまでの取材経路を考えれば、関係者である可能性は高い。
午前五時半、片桐は駅を後にし、福島区の外れにある古いマンションへ向かった。そこに住むのは、事故当日、運転士研修のデータ管理をしていた元社員、秋山だ。彼は江藤と同じ部署に在籍していたが、事故直後に退職し、今はほとんど外出しないという。
チャイムを鳴らすと、しばらくして扉がわずかに開き、覗き込むように秋山が顔を出した。
「どなたですか」
「片桐と申します。事故の件で、お話を――」
「……帰ってください」
短く言い捨てようとした秋山に、片桐は即座に言葉を重ねた。
「運転士研修の記録について伺いたいんです。公式発表では全て保管されていることになっていますが、実際には一部が消えている」
秋山の表情が一瞬、凍りついた。沈黙の後、彼は小さくため息をつき、扉を開いた。
室内はカーテンが閉め切られ、埃っぽい空気が漂っている。テーブルの上には未開封の郵便物が山積みになり、生活感よりも放棄された気配が勝っていた。
「……確かに一部は消された。だが、俺じゃない」
「誰が?」
「上からの指示だ。『研修での体調不良や操縦ミスの記録は、当面非公開とする』ってな」
「その記録、まだどこかに残っていますか」
秋山は苦笑した。
「残ってるわけがない……と、普通は思うだろう。でも俺はコピーを取っていた」
そう言うと、押し入れの奥から古びた外付けハードディスクを取り出した。
「これに事故三か月分の研修記録がある。……ただし、見たら引き返せなくなるぞ」
片桐は躊躇せずに受け取った。
帰途、胸の鼓動がやけに速い。こうした“内部資料”は、証言よりも遥かに重い意味を持つ。だが、それは同時に、自分が会社からも警察からも監視される立場になることを意味していた。
事務所に戻り、パソコンにハードディスクを接続する。中には「202X_train_log」というフォルダがあり、日付ごとに細かく区切られたファイルが並んでいる。
ある日付のファイルを開くと、そこには運転士の健康状態、操縦評価、ミスの詳細がびっしりと記録されていた。
――そして、事故を起こした運転士・山崎の名前が頻繁に登場する。
「過去一か月でのミス回数:5回」
「睡眠不足による集中力低下の報告あり」
「先輩社員との口論後、体調不良により早退」
片桐の目は、その一文で止まった。
早退した日付は、事故のわずか二週間前。しかも、口論相手は安全管理部の江藤と記されていた。
――やはり繋がっている。
事故は単なる偶発ではなく、組織内の圧力や人間関係が引き金になった可能性が高い。
その時、パソコンの画面が一瞬揺らいだ。次の瞬間、フォルダ内のファイルが次々と消えていく。
「……なんだ?」
外付けハードディスクはまだ接続されている。それでも、まるで遠隔操作されているかのようにデータが消滅していく。慌ててケーブルを引き抜いたが、既に半分以上が失われていた。
残されたのは、山崎の記録の一部と、事故三日前の研修報告だけだった。
報告にはこう書かれていた。
「運転士山崎、研修中に急ブレーキ操作を二度失敗。本人曰く『ブレーキの効きが遅れる』との訴えあり」
もし本当に車両のブレーキに異常があったなら――事故は避けられなかった。
そして、その事実を知りながら放置していた者がいることになる。
午後九時、片桐は秋山に電話をかけた。しかし、何度呼び出しても応答がない。不安が募り、マンションへ向かうと、建物の前にはパトカーの赤色灯が回っていた。
警官の話によると、秋山は室内で倒れており、意識不明のまま搬送されたという。原因はまだ不明。
現場から離れる途中、片桐のスマートフォンが震えた。
差出人不明のメッセージ――そこには、たった一行だけ書かれていた。
「それ以上は掘るな。次はない。」
片桐は立ち止まり、暗闇の中で画面を見つめた。
この事件の核心は、もう目の前まで来ている。だが、その一歩が、命を懸ける一歩になることもまた、確かだった。
(第十九章につづく)
※この小説はフィクションであり、実在の人物や団体とは一部の史実を除き関係ありません。西村京太郎風のリアリズムを重視し、架空の登場人物を通じて事件の構造に迫っていく構成になっています。
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