西村京太郎を模倣し、『JR福知山線脱線事故』を題材にした小説、「終着駅の迷宮」(ラビリンス)第十五章・第十六章

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第十五章 緊迫の面談

 東京・霞が関。午後三時。

 警察庁捜査一課の一室で、十津川警部と亀井刑事は、JR西日本の元安全管理部長・高瀬雅人の事情聴取に臨んでいた。

 高瀬は六十代前半、痩身で神経質そうな顔立ちをしている。白髪交じりの髪は几帳面に撫で付けられ、目の奥は異様に光っていた。

「――あなたが事故一週間前に“運転士再教育プログラム”の緩和を承認した記録がありますね」

 十津川の言葉に、高瀬は眉をひそめた。

「あれは現場の負担軽減のためです。長時間拘束が士気を下げる、という意見が上がっていた」

「しかし、その結果として当該運転士――天井達也は、十分な運転訓練を受けられず、復帰直後にあのカーブへ差しかかった」

 亀井が机を軽く叩く。

「負担軽減のつもりが、命を奪う負担を作ったんじゃないですか?」

 高瀬は唇を固く結び、やや上ずった声で反論した。

「結果論ですよ。私だって、事故が起こるなんて――」

「本当にそうですか?」

 十津川は間髪入れずに資料を差し出した。それは事故三週間前に安全管理部で開かれた“極秘ミーティング”の議事録コピーだった。

 そこには「日勤教育による精神的負荷」「過密ダイヤ下でのカーブ速度制御困難」などのリスクが、具体的な数字とともに記されている。

 高瀬の目が泳ぐ。

「……これは、社内共有用の内部資料にすぎない」

「だが、あなたはこれを“正式議事録に残さず”破棄させた。なぜです?」

「……会社を守るためだ。あんな文書が外に出れば、株価は暴落し、経営が混乱する。私の判断は、正しかった」

「正しい判断が、百七名の命を奪ったんですよ」

 十津川の低い声が室内を圧した。

 高瀬は、初めて目を逸らした。

 

 事情聴取後、警視庁の廊下で亀井が呟く。

「……あれは自分が正しいと、まだ思ってますな」

「組織に長くいると、守るべきものが変わってしまう。命より、企業の安定を優先するようになる」

「怖いですな……正義のフリをした冷たい合理主義ってやつは」

 

 翌日、兵庫県警の捜査本部に一通の封筒が届いた。

 差出人不明、中には古びたMD(ミニディスク)が入っていた。

 再生すると、音声が流れた。

「――速度超過は、想定内だ。だが事故を起こすまでではない。……何としても、運転士個人の責任にしてしまえ」

 声は間違いなく、高瀬のものだった。

 録音時期は事故翌日。相手は社内の法務担当者とみられる。

 この一枚のディスクが、情勢を一変させた。

 

 三日後、十津川と亀井は再び高瀬の自宅を訪れた。

 玄関前に立つと、カーテンの隙間から鋭い視線を感じる。やがて扉が開き、やつれた高瀬が現れた。

「……あれは盗聴だ。違法だぞ」

「方法の適否は法廷で争ってください。だが、これはあなたの声だ」

 十津川はポータブルプレイヤーで音声を再生した。

 高瀬の顔が一瞬で蒼白になる。

「……あの時は、会社を守らねばと思って……」

「守ったのは、命ではなく立場だ。あなたが署名した“虚偽報告書”が、それを証明している」

 亀井が追い打ちをかけた。

「副部長の西田も、元顧問の川井も、もう口を割ってますよ」

「……!」

 高瀬の膝がわずかに震えた。

 長い沈黙のあと、彼はかすれた声で言った。

「……私は、止められなかったんだ。現場の警告も、運転士の不安も、全部知っていた。でも、あの会社じゃ、立場の弱い者の声は届かない」

「届かない声を、握りつぶしたのは、あなた自身だ」

 十津川の声は冷ややかだった。

 

 数日後。

 警視庁は高瀬を「業務上過失致死」と「証拠隠滅」の疑いで任意同行とした。

 捜査線は、いよいよ最終局面へと突き進んでいく。

 

 夜。

 十津川はホテルの一室で資料を見返していた。

 窓の外には、東京駅の赤レンガ駅舎がライトアップされている。

 そこへ亀井が缶コーヒーを持って入ってきた。

「高瀬を押さえたら、次は……」

「経営トップだ。だが、ここからは相手も全力で逃げるだろう。政治も絡む」

「長い戦いになりそうですな」

「――だが必ず、辿り着く。真実は、必ず形になる」

 窓の外の光が、二人の横顔を照らしていた。

第十六章 包囲網

 兵庫県警捜査本部の会議室に、重苦しい空気が漂っていた。

 壁一面に貼られた事故現場の写真、時刻表、関係者の顔写真。

 その中央に、JR西日本社長・村岡俊明のポートレートが無言で存在感を放っている。

「高瀬元部長の供述と、例の録音……これで村岡社長を追い詰める土台は整った」

 十津川警部の低い声に、室内の刑事たちが頷いた。

 しかし、亀井刑事だけは眉間に皺を寄せる。

「ただ、村岡本人は安全対策の細部までは関与していないと主張してますな。責任を現場に押しつけるつもりでしょう」

「だからこそ、包囲網を築く。直接命令を下した証拠がなくても、彼が事故の危険性を知っていた事実を積み上げればいい」

 

 翌日、十津川と亀井は大阪・梅田の高層ビル群へ向かった。

 村岡が執務するJR西日本本社の応接室。

 広々とした空間に、重厚な応接ソファと大理石のテーブル。壁には風景画が飾られ、窓の外には曇天の大阪湾が広がっている。

 村岡は六十代後半、髪は真っ白だが背筋は伸びている。

 目は一見穏やかだが、奥底には老獪な光が潜んでいた。

「――事故の件でお時間をいただきありがとうございます」

 十津川が名刺を差し出すと、村岡は微笑みながらも視線を逸らさなかった。

「警察には全面的に協力しますよ。ただ……当社は被害者でもあるのです。現場判断の誤りを会社全体の罪とするのは、いささか酷では?」

「被害者、ですか。百七名の命が失われた事故で、加害者が“被害者”を名乗るのは不自然ですね」

 亀井が間髪入れずに言うと、村岡の笑みが一瞬固まった。

「現場の運転士に過度のプレッシャーを与えた“日勤教育”について、あなたは知らなかったと?」

「ええ。安全管理部の運営は一任していました。私は経営の大局を見ておりましたから」

 十津川は、テーブルの上に一枚のコピーを置いた。

 それは事故二カ月前の社内メール。差出人は安全管理部副部長・西田、宛先は村岡。

“カーブ速度制限遵守は困難。教育方針の見直しを要望します”

 村岡は一瞥し、ふっと鼻で笑った。

「……こういう文書は毎日届きます。全てを覚えてはいませんよ」

「記憶がないだけで、知らなかったわけではないですね?」

 その問いに、村岡は答えなかった。

 

 面談を終えた帰り道、梅田の地下街で亀井が呟く。

「……あれは完全に、腹の中で笑ってますな」

「ええ。直接命令の証拠を握られない限り、自分は逃げ切れると踏んでいる」

「じゃあ、こっちも腹をくくりますか」

 

 三日後。

 捜査本部に一本の電話が入った。

 名乗ったのは、JR西日本の元運行管理センター職員・吉岡。事故当日、運行スケジュールを調整していた人物だった。

「……あの日、社長から電話があったんです。“遅れは許すな、どんな手を使っても定時運行を守れ”って」

 十津川は身を乗り出した。

「録音、ありますか?」

「ええ……ただ、命が惜しいので、直接はお渡しできません。夜、神戸港の第三倉庫に来てください。ひとりで」

 

 その夜、十津川は単独で港へ向かった。

 海風に混じって、かすかな潮の匂いと油の臭いが漂う。

 倉庫のシャッターは半分開き、中から足音が響いた。

 しかし――。

 背後から乾いた音がした瞬間、視界が暗転した。

 

 目を覚ますと、十津川は倉庫の椅子に縛られていた。

 目の前には吉岡、そして黒いスーツの男が二人。

「……悪く思わないでください。私は家族を守らなきゃならないんです」

 吉岡の手には、小さなICレコーダーが握られている。

 だが次の瞬間、それは黒服の男に奪われ、床に叩きつけられた。

 カチリ、と踏み潰される音が響いた。

「村岡社長から伝言です。“警部殿も無駄な詮索はおやめなさい”と」

 

 翌朝、亀井が港近くで十津川を発見した。

 軽い脳震盪と打撲だけで済んだが、証拠は失われた。

「……あいつら、本気で潰しにきてますな」

「ええ。だが、こうなれば腹を据えるしかない」

 十津川の瞳には、これまでになく鋭い光が宿っていた。


(第十七章につづく)

※この小説はフィクションであり、実在の人物や団体とは一部の史実を除き関係ありません。西村京太郎風のリアリズムを重視し、架空の登場人物を通じて事件の構造に迫っていく構成になっています。

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