第十三章 暗転
十津川警部が京都府警の会議室に入ったとき、空気は張り詰めていた。長机を囲むのは、府警捜査一課、鉄道警察隊、警視庁捜査一課の合同チーム。机の中央には、事故車両のブレーキ制御ログ、運行管理サーバーの復元データ、そして数枚の写真が並べられている。
「昨夜、藤原浩一が自宅で倒れ、意識不明の重体です」
報告したのは、京都府警の白石警部補だった。
「何だと……」
亀井刑事が息を呑む。
藤原は、西田副部長の指示によるログ改ざんの実行者であり、唯一の“肉声証言”を残す人物だ。その彼が、突然倒れた。
「脳出血だそうです。だが、発症のタイミングが妙ですな。前日までは健康診断も異常なしだったと聞きましたが」
「偶然とは思えませんな」
十津川は腕を組んだ。
藤原の証言は、JR西日本上層部の刑事責任を決定づける切り札だ。これが失われれば、捜査の根幹が揺らぐ。
白石が、別の報告を続けた。
「さらに、藤原の自宅近くで、不審な車両が目撃されています。ナンバーは一部しか確認できませんが、関西の建設コンサル会社の社用車と一致する可能性があります。その会社――実は川井啓一氏の甥が役員を務めています」
部屋の空気が一層重くなった。
「政治家ルートからの“圧力”か……」
亀井が低くつぶやく。
「藤原の意識が戻るかどうかは医師にもわからない。ただ、証言の録音データは我々が押収済みだ。だが、それだけでは不十分だ」
十津川の声は硬かった。
その日の午後、警視庁から急報が入った。
事故現場近くの工務店倉庫が放火され、内部から焼け焦げた書類の一部が見つかったという。その中には、JR西日本の施設管理委託契約に関する記録が含まれていた。日付は事故の数年前から直前にかけて。
そして、その契約先の一つが――例の建設コンサル会社だった。
「偶然が重なりすぎですな」
亀井の顔には疲労が浮かんでいた。だが、目は鋭かった。
「これはもう、“個人の過失”や“企業の不備”ではない」
十津川は、手元の資料を机に叩きつけた。
「政治、企業、下請け……全部が絡んでいる構造だ。事故は、その構造が生んだ必然かもしれない」
夜、十津川と亀井は神戸市内のホテルに戻った。
スーツを脱ぎ、カーテンを引き、テーブルに資料を広げる。
「警部、これ……」
亀井が差し出したのは、事故前夜の社内メールのコピーだった。差出人は藤原浩一、宛先は技術戦略本部の別の課長。件名は《指示通り削除完了》。
だが、本文の末尾には不可解な一文があった。
『ただし、別ルートで保管してあります。必要時に渡します。』
十津川は目を細めた。
「別ルート……それがどこなのか突き止める必要があるな。藤原が生きているうちに」
「でも、もし甥っ子ルートから圧力がかかってるなら、場所も危険ですよ」
「危険でも行く。これは、真実への道だ」
翌日、二人は藤原の妻・由美子を訪ねた。
小柄で慎ましやかな女性だったが、その瞳は固く閉ざされていた。
「……夫は、会社のために働いていました。だけど、事故の後、急に口数が減って……ある日、“俺はもう逃げられない”って」
「“逃げられない”?」
十津川が繰り返す。
「ええ。何かのデータを、実家の蔵に隠したみたいです。でも場所までは聞かされていません」
由美子の手が震えていた。
十津川は静かに名刺を差し出した。
「もし何か思い出したら、すぐ連絡を」
三日後。
由美子から電話があった。
『……あの蔵、壊されていました。昨夜のことです。中は空っぽでした』
十津川は受話器を強く握った。
また一歩、真実が遠ざかる――そう感じた。
その夜遅く、京都駅近くの居酒屋で、十津川と亀井は簡単な夕食を取っていた。
カウンター越しにテレビからニュースが流れてくる。
「JR西日本、幹部らの事情聴取を前に、社長辞任を表明」
亀井は箸を置いた。
「……逃げ道を作り始めましたな」
「いや、これは“切り捨て”だ。もっと大きな影が、背後にいる」
十津川は、湯呑みの茶を口に含んだ。
その目は、すでに次の一手を見据えていた。
第十四章 黒い環
その日、十津川警部は京都府警の白石警部補と共に、北浜の高層ビル街を歩いていた。
目的地は、関西経済界の有力団体――関西産業連盟の本部。表向きは経済団体だが、裏では政治家や企業幹部をつなぐ“情報の中枢”とされている。
「川井啓一が、ここに顔を出しているそうです」
白石の声は低かった。
「甥が例の建設コンサル会社の役員を務めている件、やはり偶然じゃない」
「川井が動いているなら、事故は単なる鉄道会社の過失じゃ済まない」
十津川の口調も重い。
階段を上がると、受付前には高級スーツ姿の男たちが行き交っていた。彼らの視線は冷ややかで、外部の人間を拒むような雰囲気があった。
会議室に通されると、川井啓一がゆったりと椅子に座っていた。白髪混じりの髪を後ろに流し、薄く笑みを浮かべている。
「わざわざ東京からご苦労さん。だが、私は事故とは無関係だよ」
「我々はあなたを疑っているわけではありません。ただ、藤原浩一の倒れる前に、彼の周囲で不審な動きがあった。あなたの甥の会社もその一つです」
十津川の言葉に、川井はわずかに眉を動かした。
「甥は勝手に動いたんだろう。私は知らん。それに、あの事故は運転士の未熟さが原因じゃないのかね?」
「表向きはそうです。しかし、運行管理システムの改ざん、保守契約の不正、データ隠蔽……これらは偶然には起こらない」
十津川は川井を真っ直ぐに見据えた。
沈黙が数秒続いたのち、川井は笑みを消し、低く言った。
「君は危険な道を歩いている。忠告はしたぞ」
会談の帰り道、白石が口を開いた。
「警部……今のは脅しですな」
「脅しというより、宣戦布告だな」
十津川の表情は変わらない。
「だが、こういう時ほど証拠を固める必要がある」
数日後、兵庫県警から連絡が入った。
事故現場近くの古い貸倉庫で、火災の跡から半焼けの段ボール箱が発見されたという。中には外付けハードディスクが数台。
鑑識の解析で、その一部に運行管理サーバーのバックアップデータが保存されていることがわかった。
「これが藤原の言っていた“別ルート”の保管先かもしれません」
兵庫県警の担当者は興奮気味だった。
しかし、喜びも束の間、ハードディスクの大半は破損が激しく、データの復元は容易ではない。
それでも、技術班は数日間の集中作業の末、あるフォルダを復元した。
フォルダ名は《緊急用》。中には、事故直前の列車運行状況ログと、社内メールのコピーが大量に残されていた。
十津川と亀井は復元データを確認した。
そこには、運転士の交代指示や、ATS(自動列車停止装置)の作動履歴だけでなく、驚くべきメールが含まれていた。
『契約の件、政治ルートから了承。現場への説明は不要。例の件は事故後に処理すること』
送信者は技術戦略本部長、西田副部長の上司にあたる人物。
そして“政治ルート”の名の横に、川井啓一のイニシャルがあった。
「これでつながりましたな……」
亀井が息を吐く。
「まだ断片だ。これだけでは直接の責任を問えない」
十津川は、紙を机に置いた。
「だが、黒幕の輪郭は見えた」
その夜、十津川は東京の本部に極秘回線で連絡を入れた。
「これから大阪、兵庫、東京の合同捜査本部を立ち上げる。対象は政治家、企業幹部、下請け。事故の背後にある“黒い環”を全部洗う」
受話器の向こうで、上層部は沈黙を保ったままだった。
そして一言――
『やれるのか? 本当に全部暴くつもりか』
「やらなければ、また同じ事故が起こる」
十津川の声は揺るがなかった。
翌朝、捜査員たちは川井の甥が経営する建設コンサル会社に一斉に踏み込んだ。
押収されたのは、契約書類、送金記録、そして事故前後にやりとりされた封筒の控え。
その中の一枚のメモには、こう書かれていた。
『報酬は事故後、形を変えて』
形を変えて――。
金か、ポストか、それとも別の利権か。
捜査は、もはや単なる企業不祥事の枠を超えていた。
十津川は、ふと窓の外を見た。
夕暮れの大阪の街に、赤く染まるビル群。その光景は、美しくもどこか不穏だった。
(真実は、もうすぐそこまで来ている。だが――)
その時、内線電話が鳴った。
受話器を取った十津川の表情が、次第に険しくなる。
「……何だと? 亀井が、襲われた?」
(第十五章へつづく)
※この小説はフィクションであり、実在の人物や団体とは一部の史実を除き関係ありません。西村京太郎風のリアリズムを重視し、架空の登場人物を通じて事件の構造に迫っていく構成になっています。
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