西村京太郎を模倣し、『JR福知山線脱線事故』を題材にした小説、「終着駅の迷宮」(ラビリンス)第九十七章・第九十八章

目次

第九十七章 影の同伴者

  • 1 午前の庁舎

 霞が関の朝は、ガラスの壁に冬の光を跳ね返していた。庁舎の廊下を歩く西村の靴音が、規則正しく響く。

 会議室にはすでに若手検事と鑑定家・三輪がいた。机の上には、朱書きと鉛筆の二つの写しが並べられ、赤と灰色の線が同じ行に重なっていた。

 「“残せ”と“残すな”。正反対の声が同じ紙に宿っている」

 三輪は淡々と語る。

 「朱は命令、鉛筆は躊躇。だが、躊躇は消されずに残った」

 西村は指でその余白を撫で、言った。

 「この余白が迷宮の出口かもしれない。だが、余白は容易に燃える」


  • 2 地下鉄の影

 正午、西村は霞が関駅から地下鉄に乗った。

 車内はビジネスマンで埋まり、誰もがスマートフォンを凝視している。吊革越しに、窓ガラスに映る自分の顔を見つめる。頬の疲労の線が濃く、瞳は暗い。

 (出口は近いのか、それともまだ奥か――)

 停車駅で視線を感じた。黒いコートの男が数メートル先に立ち、視線を逸らさない。次の駅で降りようとしたが、男も同時に降りた。

 背筋に冷たい汗が伝う。

 ――尾行。

 だが振り返る余裕はない。西村は改札を抜け、雑踏の中へ歩を速めた。


  • 3 「歩廊」の夜

 神戸。記録室「歩廊」では、舟橋が次の公開講義の準備を進めていた。

 割れたガラスの展示パネルは修復されず、そのまま残されている。破片をテープで固定した状態が、かえって強烈な存在感を放っていた。

 スタッフが資料を並べながら言った。

 「来場者の中に不審な男が混じっていました。何もせずに帰りましたが」

 舟橋は頷いた。

 「彼らは、私たちが“読む場”を作ることを恐れている。紙よりも、人が読むことを」

 夜、展示室を閉めると、外の路地に黒い車が停まっていた。運転席には動かぬ影。舟橋はそれを横目に、鍵をかけて立ち去った。


  • 4 招待の続き

 翌日、西村のもとに再び封筒が届いた。今度は白い紙に簡潔な文面。

 〈次回会合、非公開。参加するなら連絡を〉

 差出人の署名はなく、ただ外国企業のロゴだけが印刷されていた。

 「行け、と言っているのか。あるいは、来るなと」

 西村は呟き、封筒をファイルに加えた。

 若手検事が問う。

 「参加されますか」

 「行く。だが一人では行かない」


  • 5 新幹線の窓

 西村は翌朝、新幹線で神戸へ向かった。

 窓の外を流れる冬枯れの田園、赤い鉄橋、遠くの工場の煙突。鉄道の車窓は、彼にとって思考の舞台装置だった。

 走行音が頭の奥でリズムを刻むたび、要旨の文言が反響する。

 〈国民への説明は単純化が望ましい〉

 〈議事録は残すな〉

 〈下書〉

 これらの断片は、列車の走る線路のように並んでいる。だが、どこに分岐があるのか、どこで終着するのかはまだ見えない。


  • 6 歩廊の集会

 到着した西村は、その足で「歩廊」に向かった。館内には遺族や市民が集まり、舟橋が壇上で語っていた。

 「要旨に二つの声があった。“残せ”と“残すな”。事故の真実は、その狭間に閉じ込められていたのです」

 会場の一角で西村は立ち止まり、聴衆の眼差しを見渡した。涙を浮かべる母親、真剣な学生、静かに頷く高齢者。

 この視線こそ、隠蔽の壁を砕く力になる――そう思った。


  • 7 不意の襲撃

 集会の帰り道、西村と舟橋は夜の路地を歩いていた。

 突然、背後から靴音が迫り、黒いフードの男が飛びかかってきた。

 「危ない!」舟橋が叫び、西村を突き飛ばす。

 男の手には刃物が光ったが、通行人の叫び声に驚き、そのまま暗がりへ走り去った。

 二人は息を荒げながら立ち止まり、互いに顔を見合わせた。

 「彼らは、証拠を奪うだけじゃない。人の声も消そうとしている」

 西村の声は震えていた。だが眼差しは揺らがなかった。


  • 8 記録の海

 翌日、庁舎に戻った西村は、机に広げられた数十枚の写しを見つめた。

 インクの成分、筆跡の特徴、配布経路、会合の名簿。

 すべての断片は海の波のようで、まだひとつの地図にはなっていない。

 「迷宮を出るには、海を渡らねばならない」

 彼は独り言のように呟いた。


  • 9 夜の電話

 夜更け、西村の携帯が震えた。番号は非通知。

 受話器の向こうから低い声が響いた。

 「紙を読むな。読むと、君も“迷宮”の一部になる」

 その瞬間、通話は切れた。

 静まり返った室内で、西村は暗い窓の外を見つめた。

 そこには、列車の赤いテールランプのような残光が漂っていた。


  • 10 終着駅へ

 翌朝、西村は新しい手帳を開き、短く書いた。

 〈迷宮に同伴する影を記録する〉

 影が常に寄り添っていることを意識しながらも、彼は筆を止めなかった。

 紙は恐怖をも記録する。記録された恐怖は、やがて武器になる。

 窓の外、始発の列車が鉄橋を渡る。

 その音が、迷宮の出口を告げる汽笛のように響いた。


第九十八章 非公開の扉

  • 1 招待状の指紋

 冬の朝、西村は庁舎の自室で白い封筒を見つめていた。

 〈政策対話フォーラム 非公開会合〉とだけ記された招待状。日時と場所は霞が関のホール。だが差出人の署名はなく、裏面には外国系企業のロゴだけが印刷されていた。

 若手検事が小声で言う。

 「来るな、とも、来いとも受け取れる文面ですね」

 「だからこそ、行く」

 西村は指で封筒の縁を撫で、印刷の微かな凹凸を確かめた。

 ルーペで確認すると、ロゴの部分に肉眼では見えない細い線が走っている。印刷のズレではなく、コピー機の内部番号――文書の“指紋”だった。

 (差出した機械を突き止めれば、誰の手か分かる)

 そう考えつつも、彼は封筒をクリアファイルに入れ、胸ポケットに収めた。持っていくべきは証拠ではなく、目と耳だ。


  • 2 霞が関ホール

 当日、霞が関の一角にある中規模のホールは、薄いカーペットと静音照明に覆われていた。案内板には何の表示もなく、入口の係員が名刺を受け取った者だけを通す。

 西村は控えめに身分証を示した。係員の目がわずかに動き、しかし言葉はなかった。そのまま彼をホールへ通す。

 中には、円卓が五つ並び、それぞれに官庁、企業、学者と肩書を持つ者たちが着席していた。名札は小さく、議題は掲示されていない。

 空気は奇妙な沈黙に包まれていた。誰もが笑顔を作りながらも、声を潜め、視線を泳がせている。

 (これは会議ではない。劇だ)

 西村はそう直感した。ここでは議論ではなく、“雰囲気”が取引されている。


  • 3 氷の微笑

 休憩時間、ロビーで例の女が現れた。黒いスーツに淡いスカーフをまとい、グラスを指先で回している。

 「来てくださって嬉しいわ、検事」

 「呼ばれたから来た。聞く耳を持つ場だと思っている」

 女は微笑んだが、瞳は冷たかった。

 「ここで交わされるのは“選択肢”よ。あなたが求めているのは“答え”かもしれない。でも答えは、この国の外にある」

 「外にあるものが、なぜこの国の紙に朱を入れた」

 女は言葉を返さなかった。ただグラスを置き、背を向けて去った。

 残されたのは、氷の溶ける水音だけ。西村は小さく息を吐いた。


  • 4 耳に残る単語

 午後の会合は「分科」と呼ばれる小グループに分かれて進んだ。

 西村が座らされたのは「インフラ安全と国際信頼」と題された卓。

 出席者のひとり、外資系顧問会社の男が、抑揚のない声で言った。

 「事故原因の国際的説明には、明快さが重要だ。複雑な管理の不備や組織構造は説明を難しくする。一次情報の段階で“単純化”することが、国民の理解を得る鍵になる」

 その言葉に、西村の耳が鋭く反応した。

 ――単純化。要旨に書かれていた言葉と同じ。

 さらに別の人物が言った。

 「国際投資家の心理は繊細だ。国内の安全文化よりも、説明の整合性を重視する。だから、議事録の細部は残さず、要点だけを抽出すべきだ」

 ――議事録は残すな。

 紙に刻まれた言葉が、今ここで音として繰り返されている。西村の背筋に冷たいものが走った。


  • 5 影の同席者

 会合が終わると、参加者たちは散っていった。西村は廊下を歩きながら、背後に再び視線を感じた。

 振り返ると、昨日地下鉄で見かけた黒いコートの男がいた。彼は数歩下がって立ち止まり、やがて人混みに紛れて消えた。

 (尾行ではない。監視だ。ここで誰が何を聞いたかを見届けに来ている)

 西村はポケットの中の封筒を握り締めた。冷たい紙の感触が、皮膚の内側まで沁みた。


  • 6 歩廊の声

 その夜、神戸の「歩廊」では公開講義が開かれていた。

 舟橋は二枚の写しをスクリーンに映し、指し示した。

 「ここに“残せ”と“残すな”の二つの声があります。今日、私は第三の声を持ち帰りました。“単純化”と“議事録不要”を繰り返す声です」

 聴衆の間にざわめきが広がる。学生が立ち上がり、声を震わせた。

 「つまり、あの朱の言葉は、日本だけで決まったものではなかったのですか」

 舟橋は頷いた。

 「国外の声が混じり、国内の紙に落ちてきた。これが迷宮の出口か、それとも新しい入口かは分かりません。ただ、私たちが読むことで、その形が見えるのです」


  • 7 赤いカフスのない影

 翌日、ロンドンの弁護士ソニアから連絡があった。

 『例の男が東京に入った。だが、赤いカフスは外していた』

 「記号を捨てたか」

 『記号はもう不要。物語が彼を指すから』

 西村は無言で受話器を置いた。


  • 8 黒い封筒

 庁舎の机に、再び黒い封筒が置かれていた。中にはコピーの一枚。

 要旨の余白に、赤い線で新たな言葉が書き加えられていた。

 〈出口は作るもの〉

 西村はしばらくその文字を見つめた。朱でも鉛筆でもない。赤ペンの鮮烈な色。

 「迷宮は、まだ続く」


  • 9 列車の窓

 深夜、新幹線で神戸に戻る。

 窓の外に、街の灯りが流れる。点と線が繋がり、夜の地図を描いていく。

 西村は手帳を開き、一行を書き足した。

 〈答えは紙にない。だが紙がなければ、答えに届かない〉

 列車は速度を落とし、ホームの灯りが近づく。

 その光が、迷宮の出口を照らすものか、それとも新しい入口を示すものかは、まだ分からなかった。


(第九十九章につづく)

※この小説はフィクションであり、実在の人物や団体とは一部の史実を除き関係ありません。西村京太郎風のリアリズムを重視し、架空の登場人物を通じて事件の構造に迫っていく構成になっています。

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