第十一章 告発の連鎖
東京・丸の内の高層ビル群の中にひっそりと構える、国土交通省鉄道局の一室。
窓際のデスクで書類を整理していた課長補佐・木暮正志は、ふと自分のスマートフォンが震えるのに気づいた。画面には「非通知」の表示。嫌な予感が胸をよぎる。
「……はい、木暮です」
受話口から、低く押し殺した声が響いた。
「――あんた、まだ本気で黙っているつもりか?」
木暮の背筋が凍った。声の主は、元同僚で現在は民間鉄道会社に出向している吉田だった。事故当時、現場の保安設備更新計画に深く関わっていた男だ。
「吉田……こんな時間に、何の用だ」
「知ってるだろう。あのATS-Pの設置計画、本来なら福知山線のあの区間にも導入されるはずだった。だが、予算削減で外された。その判断に、あんたも関わっていた」
「やめろ……ここでそんな話をするな」
「遺族たちは真実を求めている。黙っているなら、俺が暴く」
通話が切れた後も、木暮の手は震えていた。
十数年前のあの決定が、今こうして自分の背後から迫ってきている。
同じ頃、十津川警部と亀井刑事は、東京・池袋の小さな喫茶店にいた。
向かいには、顔を伏せるように座る藤原浩一――例のログ削除を証言したJR西日本の元社員だ。
「……これを見てください」
藤原が差し出したのは、一枚の古びたコピー用紙だった。
そこには「福知山線ATS-P設置計画(改訂案)」と印字され、該当区間の設置予定が赤線で消されている。その横には、国交省鉄道局の担当課長補佐の署名があった。
「これが……」
「はい。ATS-Pを外した結果、速度超過時に自動停止が働かなかった。その責任は運転士個人ではなく、組織全体にあります」
亀井が眉をひそめる。
「つまり、この決定が事故の直接的要因の一つだと?」
「そうです。これを警察に渡すことに、迷いはありません」
数日後、警視庁捜査一課の会議室。
机上には、藤原の資料と、木暮課長補佐が関与したとされる予算削減会議の議事録が並べられていた。
「国交省の人間がここまで絡んでくるとはな……」亀井がぼそりと言う。
「省庁と企業の癒着は、事故の責任を個人に押し付ける土壌を作った。だが、それを証明するには“内側”からの証言が必要だ」十津川が答えた。
その“内側”――木暮の心は、すでに揺らいでいた。
夜、木暮は自宅の書斎でパソコンの前に座っていた。
妻は寝室で眠っている。机上には、事故直後に作成した内部報告書が置かれていた。そこには、ATS-P設置計画の削除理由が「予算縮減及び優先路線見直し」と淡々と記されている。
(このままでは、俺も……)
指先が震える中、木暮は警視庁の告発窓口サイトを開いた。
そして、議事録データと自らの署名入りメモを添付する。送信ボタンを押す直前、彼は小さく呟いた。
「……すまない」
送信完了の表示が出た瞬間、胸の奥に重くのしかかっていた何かが、わずかに軽くなった気がした。
翌朝。
十津川のもとに、匿名で膨大な資料が届いた。差出人は明かされていないが、内容から木暮だとすぐにわかった。
「来ましたな……これで省庁の責任も視野に入れられる」
「だが、ここからはもっと政治的圧力が強まる。覚悟はいいか?」十津川が亀井を見た。
「今さら何を言いますやら」
二人は薄く笑った。
その週、衆議院国土交通委員会で「福知山線事故に関する省庁対応」の集中審議が行われた。
テレビ中継される中、野党議員の追及に木暮は証人席でこう答えた。
「当時の判断は、私を含む複数の関係者によるものです。しかし、その判断が結果的に安全を損なったことは事実です」
議場がざわめく。
その瞬間、事故の責任は運転士一人ではないという事実が、公の場に刻まれた。
審議後、議員会館の裏口から出てきた木暮に、亀井が声をかけた。
「よく、言ってくれましたな」
木暮は苦笑した。
「私の家族には、恥じたくなかっただけです。……これで、少しは眠れるかもしれない」
十津川は深く頷いた。
「告発の連鎖は、もう止まりませんよ」
神戸の遺族支援センターでは、そのニュースを見た森本佳織が静かに涙を拭っていた。
「……あの子も、少しは報われるでしょうか」
隣にいた別の遺族が、そっと肩に手を置いた。
「まだ終わってません。でも、進んでます」
秋の風が、窓の外から優しく吹き込んだ。
第十二章 圧力の影
十津川警部が神田署の執務室に戻ると、机の上には一通の封筒が置かれていた。差出人は書かれていない。
封を切ると、中から一枚の写真が滑り落ちた。夜の料亭の個室、木暮課長補佐と与党の国土交通委員会理事が肩を寄せ合って笑っている姿が写っている。
「……こういうのを送りつける連中は、必ず“裏”の思惑を持っている」
亀井が腕を組み、写真を覗き込んだ。
十津川は写真の裏に走り書きされた短い文章を見つけた。
――「これが圧力の入口だ。続きが知りたければ、明日午前十時、虎ノ門の地下通路。」
警察官としての勘が、これは単なる嫌がらせではないと告げていた。
翌朝、十津川と亀井は指定された地下通路に立った。通勤ラッシュが過ぎ、人通りはまばらだ。
背後から近づいてきた男が、小さな封筒を十津川のコートのポケットに滑り込ませ、そのまま去っていく。顔はマスクと帽子で隠され、特徴はつかめない。
封筒の中には、国交省とJR西日本の間で交わされた非公式会談の議事メモが入っていた。日付は事故の半年ほど前。そこにはこう書かれている。
「ATS-P設置は優先度を下げる。予算は別路線に振り分ける。
代替として速度制御は運転士教育の強化で対応する。」
亀井が低く唸った。
「教育で事故が防げるなら、そもそも自動制御なんていらないですな……」
十津川は頷き、封筒の奥からさらに一枚のメモを取り出した。そこには、「議事録は正式記録に残さないこと」と明記されていた。
「これが……本丸かもしれん」
同日午後、国会内の一室。
与党の重鎮・神谷代議士は、部下からの報告を受けながら深いため息をついた。
「十津川……あの男は厄介だ。省庁と企業の間に踏み込む気か」
部下が恐る恐る問う。
「いかがなさいますか?」
「とにかく時間を稼げ。証拠が表に出る前に、木暮を国外の事務所に異動させる」
神谷の目は冷たく光った。
事故の真相は、政治的な思惑と利害の渦に巻き込まれ、さらに深い闇へと沈もうとしていた。
一方、神戸の遺族支援センター。
森本佳織はテレビニュースで「証人異動」の速報を見て、手にしていたコーヒーカップを机に置いた。
「……やっぱり、こうなるのね」
同席していた遺族の一人、佐川が苦い笑みを浮かべる。
「連中は、時間が経てば俺たちが諦めると思ってる。でも――諦めるわけないだろ」
佳織は黙って頷いた。その目には、静かな怒りが宿っていた。
夜、十津川は都内のホテルラウンジで木暮と再会した。
木暮は以前よりやつれ、スーツの襟元も乱れていた。
「……国外勤務の辞令が出ました。これで、私をこの件から切り離すつもりです」
「断ることは?」
「無理です。家族の生活もありますから。ですが……これだけは渡しておきます」
木暮は鞄から、小型の録音機を取り出した。
「事故前の会議音声です。議事録に残さなかったやり取りが入ってます。……これで、全部です」
十津川はそれを受け取り、短く礼を言った。
翌日、捜査一課の会議室で音声を再生した。
スピーカーから流れるのは、明らかに緊張した声のやり取りだった。
『ATS-Pは高すぎる。営業収益に見合わない』
『だが、現場は危険を訴えている』
『現場の声は表に出すな。予算は優先路線に回せ』
『もし事故が起きたら?』
『その時は……運転士のミスだと発表する』
室内の空気が一瞬にして凍りつく。
亀井が深く息を吐いた。
「これ、完全に意図的じゃないですか……」
「ええ。これで彼らの“安全軽視”は証明できる。だが――」
十津川は録音機を握りしめたまま、窓の外を見やった。
「これを出せば、必ず反撃が来る」
その夜、十津川のスマートフォンに一通のメールが届いた。
件名は「警告」。本文は一行だけだった。
「命が惜しければ、これ以上関わるな。」
しかし、十津川の決意は揺るがなかった。
彼は送信者を特定するための手配を即座に部下に指示し、机の上に録音機を置いた。
「ここまで来たら、引くわけにはいかん」
亀井は苦笑した。
「ええ、どうせ俺たちはそういう性分ですから」
秋雨がしとしとと降る東京の夜。
遠くで雷鳴が響き、次なる嵐の到来を予感させた。
(第十三章に続く)
※この小説はフィクションであり、実在の人物や団体とは一部の史実を除き関係ありません。西村京太郎風のリアリズムを重視し、架空の登場人物を通じて事件の構造に迫っていく構成になっています。
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