第九十六章 指紋のない朱
- 1 警告のベル
夜半、霞が関の庁舎に緊急地震速報のような短いベルが鳴った。システム管理室からの一斉通達――省内ネットワークに不審アクセス。対象は「外部説明・対話要旨」関連のフォルダ。
西村はソファから跳ね起き、上着を羽織ると執務室の端末にログインした。画面には鮮やかな赤で《アクセス試行拒否》が並び、その隙間に《未定義プロセス検出》の文字が瞬く。
「紙が一度光に当たると、影は必ず動く…」
独り言を呟きながら、彼は昨日綴じ込んだばかりの写しを再確認した。封筒の紙縁に爪を滑らせる。そこにあるのは紛れもない現物の質感だ。ネットは消せても、紙は消しにくい。だからこそ紙を奪いに来る。
- 2 記録室の朝
神戸・「歩廊」。開館前の真っ白な空気の中、舟橋はガラス面を拭きながら、掲示板の新しい付箋を見上げた。
〈黒塗りは問いの地図〉――あの夜誰かが貼った一行は、もう何枚もの共鳴を生んでいる。〈第一次説明は永遠に残る〉、〈読む訓練を〉。
スタッフが駆け込んだ。「舟橋さん、またメールが」
件名は短い。《やめろ》。本文はさらに短い。《家族を守れ》。
舟橋は短く息を吐くと、受信フォルダを印刷に回し、ホッチキスで留めて封じた。
「脅迫も記録だ。これも“事故の続き”です」
言い切る声は震えなかった。
- 3 筆跡の地平
午前九時、東京地検の会議室。白い光が長机に落ち、数冊のノートとルーペ、拡大コピーが整然と並ぶ。
招かれたのは民間の文書鑑定家・三輪。派手さのないグレーのスーツに、細身の眼鏡。
西村は朱書きが入った写しを差し出した。
「この『議事録は残すな』の朱は、誰の手か。わたしたちの持つ“付箋メモ”の筆致と似ている」
三輪はルーペを持ち上げ、朱の線の起筆を追った。
「特徴は三つ。第一に“押し字”。最初の縦画に無意識の圧。第二に“止め”の跳ね。左から右へ僅かに流れ、返しが弱い。第三に…」
彼はルーペを置き、別の紙をめくった。過去の広報テンプレ草稿。端にメモで書かれた〈一次固定〉の文字。
「同一人物である確率は高い。だが、決定打がない。朱は油性、こちらは水性。ペン先も違う。指紋も出ないだろう」
「紙に残る“癖”だけでは足りない、と」
「ええ。ただ、弱い証拠を束にすれば“歩ける橋”にはなる。一本では折れる橋でも、天気さえ良ければ渡れる」
天気――西村は思う。天気を決めるのは世論だ。世論を決めるのは、最初の言葉。一次固定。朱の二文字が胸の内側を刺す。
- 4 停車場の影
その午後、西村は姫路行きの新幹線に乗った。車窓の反射に都会の輪郭が二重写しになる。窓際の席に資料を置き、携帯にイヤホンを差す。
『こちらロンドン。動きが一つ。Rowan & Blakeの役員が、来週東京へ。セミナー名目』
ソニアの声は、霧を通した鐘のように遠いのに、輪郭は鮮やかだった。
「名簿は?」
『公開はされない。けれど、招待状は日本の大手数社と、政府関係の肩書に出ている』
「会場を押さえる」
『あなたが正面から行くなら、彼らは笑顔で迎えて“何も言わない”。必要なのは、彼らが“何を見ているか”の記録よ』
列車は加速し、山裾の線路が蛇のように絡まりほどける。西村は、光を横切るレールの筋が、紙の罫線に重なるのをぼんやり眺めた。
- 5 割れるガラス
その頃、神戸の「歩廊」では突然の破砕音が起きていた。展示室の端、事故当日の時系列パネルのガラスが割れ、床に透明な破片が散っている。入口付近を走り去る黒いパーカー。
スタッフが追う。人波の中で身をひるがえし、パーカーの背中は線路脇の細道へ消えた。
「警察へ」
舟橋は短く指示し、近くの子ども連れに頭を下げる。「怪我はありませんか」
パネルの傷は浅くなかった。だが文字は読める。彼は破片の上に布をかけ、養生テープで固定した。
「破片が光を拾う」
誰かが呟いた。割れた面に蛍光灯が反射し、時刻と秒の行に小さな星を散らしている。
舟橋は深く息を吸い、スタッフに言った。「今日の公開講義、予定通りやる。割れたまま見せる。これも“現在”だ」
- 6 招待状
東京。西村の机に、淡いクリーム色の封筒が届いた。差出は〈政策対話フォーラム事務局〉。
内容は穏やかだった。〈国際的ガバナンスの課題とコミュニケーション〉――ロビー的言い換えで満たされた文面の末尾に、QRコードと会場名。「霞が関某ホール」。
「誘ってきたな」
若手検事が呟く。「来れば珍重し、発言の場を与え、“対等な議論”の座組みを作る…」
「そして、対立ではなく“見解の相違”に変える」
紙を指で弾くと、薄い音が出た。
西村は封筒を別のクリアファイルに入れ、参加者名簿の開示請求を素早く記入する。「場へ行く。行くが、記録を連れていく」
- 7 朱の回路
鑑定家・三輪からメッセージ。〈朱の線に含まれた微細な顔料成分が同時期に国内で流通した特定メーカーのロットに近似。入手経路を追える可能性〉
微かに笑みが漏れた。朱のインクにも道筋がある。
「筆跡は人。インクは流通。両方が“地点”を作る」
流通ルートには卸と販路。官庁調達の納入記録、社内購買の台帳――紙の川が地図の上で合流する地点を見つけられる。
西村はメモに赤で小さな円を描き、そこへと矢印を伸ばした。
- 8 交差
夜、オンラインで「歩廊」と接続。割れたガラスの前に三脚が立ち、カメラが静かに揺れる。
舟橋が説明する。「割れは、この行の“遅延の経緯”をまたいでいます。象徴的ですが、偶然です。私たちは修復します。ただ、この状態で一度読みます」
画面越しに、参加者の指が行をなぞる。「人は壊れたものを直そうとする。でも、壊れた瞬間の意味は、壊れたままにしないと見えない時がある」
西村は黙って聞いた。画面の下隅に小さく自分の顔が映り、疲れと決意の線が並んでいるのを見て、ふと笑えた。人は画面の中でも老ける。
- 9 ホール
フォーラム当日。ホールのロビーには無色の笑顔と薄い香水が満ち、艶のある革靴が深い絨毯に跡を残さない。
受付に名刺を差し出すと、スタッフは丁寧に頷いた。胸元の札には企業名、官庁名、大学名――肩書が空気より前に歩く。
基調講演。「グローバル市場における透明性」。“透明”は都合の良い言葉だ、と西村は思う。透明は見えることではない。見せたいものだけを“見えていることにする”技だ。
休憩時間、廊下の端に例のPR会社の女がいた。彼女は相変わらず笑わずに微笑み、氷の入っていないグラスを指で回している。
「お目にかかれて嬉しいわ。検事」
「招いてくれてありがとう。記録も連れてきた」
「あなたの“記録”は人の心を動かす。でも“場”はもっと動く。今日、あなたがここにいるという事実は、いずれ“折衝”という歴史に変わる」
「歴史にする前に、記録を読む」
「ええ、存分に」
女は踵を返し、姿を消した。残されたのは、ガラスに映る自分の姿だけ。透明の中で、自分はよく見える。
- 10 名簿
会の終わり、情報公開窓口から連絡が入る。〈参加者名簿・一部開示〉。
一覧には黒塗りが並ぶ。だが、ところどころに残る肩書の端に、見知った略称が混じっていた。〈運輸・広報〉〈政策企画〉。
――“あの時代”の経路に通じるいくつかの名前。
西村はスマホで「歩廊」に転送し、舟橋に短く告げた。「読み合わせを。要旨と、今日の名簿と」
- 11 走行試験
深夜、新橋の高架下。西村は三輪と会い、インクの報告を受けた。
「官庁調達で使われた朱のロット、当時の納入実績が三箇所に集中している。うち一箇所は“対話要旨”の作成担当セクションと動線が重なる」
「重なるだけか」
「まだ“だけ”。でも、紙を二枚並べると、空白の部分が同じ形で抜けているときがある。そこに橋を架ければ地形になる」
高架を、最終の電車が鉄の息を荒げて駆け抜ける。会話は少しだけ震動した。
- 12 赤い箱
翌日夕刻、神戸へ戻った西村は「歩廊」に立ち寄った。入口の脇に、小さな赤い投函箱が置かれている。〈あなたの紙〉と手書きのプレート。
舟橋が説明する。「見たこと、もらった紙、家に眠っているチラシ、議事メモ――何でもいい。コピーで構いません。紙を集めて“地形”を描く」
箱の中には、古い新聞の切り抜きや、誰かの手紙、社内回覧のコピーらしきものがもう詰まり始めていた。
西村は箱の赤を見つめる。朱と違い、これは多くの手が触れて色づいた赤だ。
- 13 揺れる車内
最終の快速で市内へ戻る。窓ガラスに映る自分の輪郭の横を、闇に沈んだ住宅の窓が流れていく。
(一次固定を壊すには、二次・三次の言葉を重ねるしかない。だが、重ねるたびに“物語”の色も濃くなる。事実の地図から言葉がはみ出す)
吊革に手を掛けながら、彼は自分の中で答えを探す。
(だから、紙だ。紙は最初から“余白”を連れている。余白は、はみ出すためにある)
車内アナウンスが流れ、ブレーキのきしみが床から脛へ上ってきた。列車が止まる。降りていく人、残る人。その繰り返しの中に、物語の速度が潜む。
- 14 封筒
庁舎のポストに、切手のない茶封筒が差し込まれていた。中身は要旨の“別版”。紙質が僅かに違い、末尾の朱書きがない。代わりに、余白の右下に鉛筆で書かれた三文字。
〈下書〉
指が熱くなる。朱が書かれる前の“地形”。その行の位置は、朱の文言と一致していた。
――誰かが、朱の前で止めた。あるいは、止めようとした。
封筒の底から、もう一枚、薄い紙片が滑り落ちる。〈会合・簡記 ※破棄指示〉。
西村は深く息を吸い、時計を見た。夜はまだ途中だ。
- 15 指紋のない朱
翌朝、鑑定室。三輪が鉛筆の筆圧の揺れ、走り癖をルーペで追う。
「鉛筆の“下書”は、朱の書き手とは別の手だ。同じ会合の場に“ブレーキ”をかけようとした人間がいた」
「名前はない」
「ない。指紋も、まず出ない。だが、紙は順番を覚えている。朱は“上書き”だ。鉛筆の下にある」
西村は両のこめかみを指で押さえた。
(朱は命令、鉛筆は躊躇。命令は残れと言い、躊躇は残すなと言われ、しかし残った)
「この“躊躇”を、橋にする」
呟きが、部屋の乾いた空気に溶けた。
- 16 風向
ロンドンから短い連絡。〈影、東京入り。赤いカフスを外している〉
“彼”はもう赤を必要としない。名乗る必要も、記号も。物語が勝手に彼を指すからだ。
西村は予定を詰め直し、監視と記録の線を重ねた。こちらも記号はいらない。必要なのは、紙だ。
- 17 “読む”日程
記録室では、次の公開講義の準備が進む。テーマは〈要旨を読む2:躊躇の鉛筆、命令の朱〉。
舟橋は新しいスライドに、二枚の写しを並べて置いた。
「同じ場所に、二つの声がある。片方は太く、片方は細い。事故の後、私たちがどちらの声で語られてきたか――一緒に確かめたい」
彼の声は静かだったが、会場の椅子がひとつひとつ、わずかに前へ寄る音がした。
- 18 終着駅の掲示
夜、ホームの発車標に「終電」の表示が灯る。
西村はホーム端の黄色い点字ブロックの内側で立ち、入線してくる電車のライトを正面から受けた。眩しさに目を細めると、光は一本の線に変わり、まっすぐこちらへ伸びてくる。
――終着駅の迷宮。
出口は、まだ見えない。
だが、ここまで来れば分かる。出口は、誰かが“読んだ”あとにしか現れない。
彼は胸ポケットから小さなメモを取り出し、一行を書き足した。
〈朱に触れる前の鉛筆を、守る〉
(第九十七章につづく)
※この小説はフィクションであり、実在の人物や団体とは一部の史実を除き関係ありません。西村京太郎風のリアリズムを重視し、架空の登場人物を通じて事件の構造に迫っていく構成になっています。
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