西村京太郎を模倣し、『JR福知山線脱線事故』を題材にした小説、「終着駅の迷宮」(ラビリンス)第九十二章

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第九十二章 霧の街で

 ロンドン上空で機体が旋回を始めた頃、窓の外には鉛色の雲が層を成し、時折、その裂け目から濁った銀の川がのぞいていた。テムズ。蛇のようにうねる水脈の縁に、光沢を押し殺した鋼とガラスの塔が群れている。

 西村は小さく息を吸った。肩に掛けたコートの襟を指先で直し、カバンの中をもう一度確かめる。日本でかき集めた断片――会合ログ、復元議事録の抜粋、田嶋と北里の各供述要旨、そして匿名のUSB。どの紙にも、あの三つの文字が幽霊のように貼り付いている。「L.M.」。

 入国審査を抜けると、頬に霧の気配がまとわりついてきた。加湿器の熱気に似た湿った空気ではない。音を吸い取っていく冷ややかな粒。耳の奥で靄が鳴り、足元の感覚がすこし鈍る。

 ヒースローからピカデリー・ラインに乗り、地下鉄の緑色の座席に腰を沈める。車窓の闇に自分の顔が揺れ、その背後で、白い文字が浮かんだ。広告だ。。収据を取っておけ。ふと、滑稽な一致に口元が緩む。――収据。ここへ来たのは、名前の領収書を取りにきたのだ。

 最初の目的地は、日本大使館近くのビジネス街にある小さなカフェだった。席の端に座っていたのは、在ロンドンの弁護士、ソニア・クラーク。薄い金縁の眼鏡の奥で、黒曜石の瞳がチカチカと光を弾く。

 「あなたが西村検事ね。メールは拝見したわ」

 日本語は流暢だったが、子音の端がわずかに硬い。

 「ご協力に感謝します。こちらが事情です」

 西村はファイルを開き、議事録の断片に付箋を散らして見せた。ソニアは指先で紙の端を一度だけ撫で、短くうなずく。

 「“L.M.”、マクスウェル。英国籍、コンサル会社〈ラングレイ・マネジメント〉の共同創業者。近年は“ガバナンス改革”を旗に新興国市場の案件を回してきた人物よ。ここ数年は対面を避ける傾向が強いと聞くわ」

 「住所は」

 「公簿上は三つ。実際に出入りがあるのは二つ。ひとつはシティのオフィス、もうひとつはカナリー・ワーフのサービスアパート。彼は霧に似てるの、形が掴めない。だけど霧にも風上はある」

 コーヒーの薄い匂いと、人いきれと、遠くでバスがブレーキを鳴かせる音。ソニアは紙ナプキンの裏に素早く地図を書き、いくつかの名前を並べた。

 「彼の周辺にいる人たち。守秘義務の壁は高いわ。でも、元スタッフの中に“話したがっている人”が一人いる。解雇を恨んでるの。今日の夕方、リーモハウス前」

 「助かる」

 西村は立ち上がり、礼を言った。扉を押すと、霧の匂いが濃くなり、街路樹の裸の枝が黒いインクを滲ませた線のように空へ伸びている。迷宮の線と似ていた。

     *

 地下鉄を乗り継ぎ、シティの外縁へ。黄土色の煉瓦が積み上がった古い建物の前に、人影がひとつ、コートの襟を立てて立っていた。

 「ジェイソン・ベインズ」

 ソニアが紹介すると、彼は硬い笑みを浮かべた。マフラーの隙間から覗く喉仏が、話すたびに上下に跳ねる。

 「“元”アナリストだ。L.M.の会社で三年。君が探してる男は、できるだけ自分の指紋を残さない」

 「日本の事故への関与は」

 ベインズは周囲を一瞥し、革の鞄から折り目だらけのノートを取り出した。

 「公式な議事録は残さない。残すのは“メモラベル”。案件管理用にコード化された付箋をデジタルで貼り、期限が来たら自動消去だ。だが、ひとつ見落としがあった」

 西村の視線がわずかに動く。

「“時間”。自動消去のスクリプトは英国時間基準だが、日本とのやり取り用に一部の端末はJSTに合わせていた。タイムゾーンの狭間で、消去の窓がずれた。君が持っているその“二四番の続き”、あれはこぼれたパンくずだ」

 ベインズの声は低く、湿り気を帯びていた。

 「L.M.は“運転士過失の強調”を提案したか」

 「“過失”という言葉は使わない。『最も消化されやすい物語を前に出せ』だ。消費者心理を“事故直後の言説”でロックする。たいていの人はその後の訂正を読まない。これを『一次固定』と呼んでいた」

 喉の奥に苦いものが張り付いた。西村はメモを取りながら、わずかに拳を握る。

 「証拠はあるか」

 「あれば僕はもうここにいない」

 ベインズは自嘲気味に笑い、視線をカナリー・ワーフの摩天楼へ投げた。

 「でも、“影”は形を選ぶ。今夜、彼はあのアパートで誰かと会う。習慣は武器だ。毎週木曜の二十時、地下のラウンジに顔を出す。名前は残さない。代わりに、赤いカフスボタンだ。趣味が悪い」

 ソニアが時計を見た。十九時十二分。

 「行きましょう。霧が味方する夜よ」

     *

 カナリー・ワーフ。冷たいガラスの峡谷に、ネオンが薄く血管のように流れている。吹き抜けの中庭を渡る風が、頬を刺し、耳の中で笛を鳴らした。

 サービスアパートのロビーは、ホテルのように無機質で親切だった。西村はソニアのあとに続き、フロントの横を通って階段を降りる。地下ラウンジ。低い天井、鈍い革張りの椅子、照明は琥珀色。

 彼は、いた。

 赤いカフスボタン。白髪は完璧に整えられ、頬の肉は薄く、眼差しは氷のように澄んでいる。向かいに座るのは、中年の女――PR会社の重役だろう。

 ソニアが耳打ちした。「強行はダメ。ここは彼の庭。視線だけで十分よ」

 西村は椅子の陰から男を見つめる。男の指が空中でしばし踊り、輪郭のない言葉がテーブルの上に並べられていく。身振り。抑制のきいた微笑。相手の肩が一度、落ちる。説得は終わったらしい。

 男が立ち上がる。カフスが灯りを弾き、血の滴のように光る。

 ――L.M.。

 西村は一歩踏み出し、しかし足を止めた。ソニアの指が袖を摘んでいた。

 「写真を撮られるわ。あなたがここにいる証拠は彼の盾になる」

 男は背を向け、エレベーターへ消えた。

 残ったのは、琥珀色の光と、消えかかった氷の音だけ。

     *

 翌朝。空はさらに低く、霧は細かく研がれた刃のように街を切っていた。

 ソニアは言った。「次は“紙”。英国では“紙が人を刺す”の。公的登記、取締役会の議事要旨、ロビー活動の申告記録……彼が残さないようにしている足跡の“縁”を拾う」

 彼らはシティの奥にある行政記録の閲覧室へ向かった。古い木の匂い。革張りの机。受付で身分証を見せ、端末の番号札を受け取る。

 〈Langley Management LLP〉。検索画面に会社名が浮かぶ。関係会社、関係個人、申告済のロビー活動――。

 西村の視線が止まった。申告リストの片隅に、目に馴染んだ略称がある。

 〈MoT-J〉。

 「日本の省庁への“意見交換”?」

 「形式上は“政策対話”。実態は“市場説明”」とソニア。

 記録の最終行には、短い注記。

 〈会合はオンライン。別添資料は相手側保管〉

 相手側――日本。

 「国内でこそ、鍵が眠っている可能性がある」

 西村は自分の手帳に赤い線を引いた。ロンドンは“影の輪郭”をくれた。ならば、顔は日本にある。

 閲覧室を出ると、通りの向こうに見慣れたスーツの影が立っていた。昨日のラウンジでL.M.と対座していた女だ。こちらを見て、笑わない笑顔を浮かべ、ゆっくりと近づいてくる。

 「ミスター・ニシムラ、ですね」

 「どちら様で」

 「あなたが探しているのは、“名前”かしら、“物語”かしら」

 英語の子音に砂のようなざらつき。PRの人間特有の声の磨き方。

 「忠告に来ました。あなたの国で、あなたの名前を涼しい顔で消せる人たちがいます。ここではなく、そちら側にね」

 西村は応じない。女はハンドバッグから名刺を出し、差し出した。

 〈Rowan & Blake Communications〉

 「質問は受けないの。質問は“物語”を壊すから。良い旅を」

 女は踵を返し、霧の中へ溶けた。靴音すら残さない。

     *

 午後、ソニアは古いパブに西村を案内した。外は灰色、内側だけが蜂蜜色に発光している。

 「ここで会う人は、地味だけど確かよ。公的機関で“紙”を扱ってきた人」

 現れたのは、背の丸い老人だった。鼻の上に眼鏡をちょこんと乗せ、肘にツイードのパッチ。

 「ホプキンスだ」

 彼はビターを一口飲み、椅子に腰を落ち着けると、ぼそぼそと話し出した。

 「ロビー記録の“相手側保管書類”。提出を受けた側は、通常“要旨”を作る。それは簡素で、つまらない、だが――正確だ。議題、参加者の肩書、持ち込まれた資料の通し番号」

 西村は身を乗り出す。

 「では、その“要旨”が日本に」

 「あるだろうな。だが、公開するかどうかは君ら次第」

 老人はイギリス流の微笑というより、口角をわずかに上げるだけの表情をつくった。

 「君は、この街で“影”の輪郭を拾った。えらいぞ。だが、影の本体はいつでも君の後ろに立つ。振り向いた瞬間に消える」

 「それでも追うしかない」

 「なら、ひとつだけ覚えておけ。迷宮は出口のためにある。だが、出口の先にあるのは“外”ではない。別の迷宮だ」

     *

 夜。テムズ沿いの遊歩道。水面が鉛の鱗を震わせ、街灯が小刻みに震えていた。

 ソニアは歩みを緩め、川面を覗き込む。

 「あなたの国のニュース、見たわ。『告発者に脅迫状』。気をつけて」

「覚悟はして来た」

 「覚悟と無謀は似て非なるものよ、検事」

 言葉は冷たいが、声の温度は低くない。

 「明日、もう一度カナリー・ワーフへ。あなたは表に出ない。私は、彼の“影”を撮る。人は影を背負って歩く。足元の線は、本人より雄弁よ」

 西村はうなずいた。

 霧が濃くなり、川の匂いが近づく。どこかでブラスバンドの練習が始まったのか、遠い金管の音が、霧に包まれた鐘のように震えている。

     *

 翌日、午後八時前。再び、地下ラウンジ。

 ソニアは一足先に中へ消え、西村はロビーの脇、観葉植物の陰に立った。時計の秒針が跳ねる音が、玻璃の中で膨らむ。

 エレベーターの扉が開き、二人の男が現れた。その後ろから、赤いカフス。

 L.M.の横顔は、昨日と同じく、彫像のように均整が取れている。

 ソニアが軽く姿勢を変え、指先だけでスマートフォンを滑らせる。フラッシュは焚かない。反射光だけで、影を掬い取る。

 ――その瞬間、ラウンジの入口で小さな騒ぎが起きた。

 スーツ姿の男が一人、倒れ込むように入ってきて、カウンターに手をついた。顔色が紙のように白い。

 「救急を呼べ!」

 係員が走る。人々の視線が一点に吸い寄せられ、空気が乱れる。

 赤いカフスは、ゆっくりと反転し、非常口へ滑るように消えた。

 「おとり……?」

 西村が言い終える前に、背後から低い声がした。

 「検事。あなたは“影”を見る目を持っている。だが、影は光のある場所にしか生まれない。あなたが光だ」

 ロビーの柱にもたれかかるように、昨日の女が立っていた。微笑はやはり、笑っていない。

 「もう一度だけ忠告する。あなたが帰国したとき、あなたの机の上の書類は、一枚残らず“置き換えられて”いるかもしれない。見たことのない印、聞いたことのない通達。物語は、紙を選ぶ」

 西村は女の目を見据えた。

 「紙は残る。あなたの物語も、誰かの物語も」

 「ええ、だから危険なのよ」

 女は肩をすくめ、霧の匂いを纏って去った。

     *

 翌朝。ソニアのオフィスで、昨夜撮れた“影”の画像を確認する。

 「正面は撮れなかったけれど、歩幅、姿勢、カフスの反射で、同一人物の連続が取れた。時刻も合わせられる」

 ソニアは画像のタイムスタンプを指先でなぞる。

 「そして、ここ」

 画面を拡大すると、L.M.の掌に覗くチラシの端に、見慣れた漢字が印刷されていた。

 〈安全投資〉

 「……日本語」

 「この街で日本語のチラシを手にする機会はそう多くない。近くの和食レストランで配っていたものか、誰かが手渡したか」

 西村は、無意識に拳を握っていた。掌に汗が浮かぶ。

 ――繋がっている。霧の外からも、内からも。

 立ち上がると、ソニアが封筒を差し出した。

 「あなた宛て。フロントに届いていたわ」

 差出人はない。開封すると、薄い便箋に短い英文だけ。

 〈You’re close. The rest is at your home.〉

 ――近い。残りは“あなたの家”にある。

 「何のことだ」

 西村は独り言のように呟いた。

 家――日本。

 “相手側保管”。

 ロンドンで拾った輪郭は、すでに帰路を指し示している。出口は、また入口だった。

     *

 帰国前夜。テムズの風はさらに冷たく、霧は細かい針のように肌を刺した。

 ソニアが言う。「あなたは帰る。私はここで続ける。L.M.の“習慣”は記録された。もし彼が動けば、風上が変わる。知らせるわ」

 「頼む」

 「そして、あなたの国の“紙”を信じなさい。英国の迷宮は暗いけれど、紙の迷宮は必ず出口へ通じている。誰かが、どこかで、必ず下書きを残すものよ」

 握手は短く、固かった。

 空港行きのタクシーを拾うと、運転手がラジオの音を少し上げた。

 《日本からの検事がロンドンを訪問――》

 ニュースは、淡々と事実だけを並べる。だが事実の列は、やがて物語のレールになる。西村は目を閉じ、低く息を吐いた。

 機内でシートベルトを締め、窓の外を見れば、霧の膜の向こうに、空港灯火が点の集落のように瞬いている。

 ――帰る。

 “相手側保管”。

 “要旨”。

 ロンドンで得たのは、影の輪郭と、鍵穴の場所だ。鍵は日本にある。

 終着駅の迷宮。出口は見えない。それでも、レールは伸びている。足元に、確かに。

 機体が滑走路を走り出す。鉄と風が擦れて生じる低音が、身体の奥で震えた。

 翼が霧を切り裂き、街の光が白いカーテンの向こうへ薄れていく。

 西村は胸ポケットから手帳を取り出し、最後の行に一文だけ、書き足した。

 ――真実は、紙に宿る。

(第九十三章につづく)

※この小説はフィクションであり、実在の人物や団体とは一部の史実を除き関係ありません。西村京太郎風のリアリズムを重視し、架空の登場人物を通じて事件の構造に迫っていく構成になっています。

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