第八十六章 残響
- 1 神戸の朝
判決から一週間が経った。神戸の街は表面的には静けさを取り戻したように見えたが、その内側にはまだ波紋が広がり続けていた。新聞は「外資への言及」を大きく報じ、テレビの討論番組は「企業ガバナンスの再設計」を特集していた。
だが、人々の心の底に沈んでいるものは、まだ消えない。遺族たちの胸にあるのは「終わりではない」という思い、企業の幹部たちの胸にあるのは「まだ終わっていない」という不安、そして社会全体に漂うのは「次に備えなければ」という焦燥だった。
- 2 記録室の始動
神戸市郊外に設けられた「歩廊(プロムナード)記録室」は、仮設ながらも開館以来、連日多くの人が訪れていた。大学生のグループや、学校帰りの高校生、さらには近隣の市民たちが足を運び、事故や裁判の記録に触れていた。
展示室の中央には「復元された議事録」のコピーが大きく掲げられ、その周囲には写真や証言が整然と並んでいた。訪れた人々は黙って読み、時折立ち止まり、感想ノートに言葉を残していった。
舟橋はスタッフの一人として、その様子を見守っていた。遺族としての立場を超え、彼は「次の世代へ残す」という責務を強く意識していた。
「この場所が続く限り、事故は“過去”ではなく“現在”として語り継がれる」
そう口にしたとき、彼の目には一瞬だが希望の光が宿っていた。
- 3 検察の思索
一方、西村検事は庁舎の自室に閉じこもっていた。判決を受け入れながらも、彼の心には「残された謎」が重くのしかかっていた。
――二四番の続き。
あの封筒に入っていたUSBの内容は、まだすべてを明らかにしてはいない。そこには「事故対応マニュアル Ver.0.9」と記され、遺族への“共感フレーズ集”という寒々しい文言が残されていた。だが、その文書が作られた会合の出席者、発言者の詳細は記されていない。
「これを表に出せば、裁判は再び揺らぐ。だが……隠しておくこともまた罪だ」
西村は独り言を呟き、机上に置かれた封筒を見つめた。迷宮は終わったかに見えて、その奥にはまだ暗い廊下が続いている。
- 4 弁護人の葛藤
大阪の事務所に戻った弁護人・宮坂は、机の上に積まれた新聞や雑誌を無言でめくっていた。記事の多くは「企業の責任認定」を歓迎する声で埋め尽くされ、弁護側の主張に耳を傾けるものは少なかった。
「法廷での勝敗だけが、すべてではない」
そう言い聞かせながらも、彼の胸には敗北感が重く残っていた。依頼人を守ったはずなのに、世間は彼を「組織の代弁者」として批判する。
夜、帰宅した宮坂を迎えたのは、妻の静かな声だった。
「あなた、ずっと疲れた顔をしているわ」
宮坂は苦笑し、答えた。
「守ったつもりが、守れなかった。真実というものは、いつも勝者と敗者を同時に生む」
- 5 外資の視線
ロンドンのホテルの一室。マクスウェルは静かに新聞を広げていた。記事には「外資の影」と大きく見出しが躍る。
「名前は出なかった。だが、影は認められた」
彼はワイングラスを持ち上げ、淡く笑った。
「合理の仮面。それは私のことではなく、彼ら自身の顔でもある」
窓の外には霧に包まれたシティの高層ビル群が並び、光と影を繰り返していた。マクスウェルにとって、この判決は終わりではなく、むしろ「次の投資環境」の指標に過ぎなかった。
- 6 遺族の歩み
判決の翌週末、遺族たちは記録室で再び集まった。
「刑は軽かった。でも、“隠蔽”が認められたこと、それは私たちの声が届いた証です」
ある遺族の言葉に、会場は静かに頷いた。
舟橋は言った。
「大切なのは、この記録を絶やさないことです。次の世代に手渡すために、私たちが語り続ける」
その声には力があった。悲しみを越えて歩き出そうとする姿は、確かに未来への希望を示していた。
- 7 新たな兆し
その夜、西村の机上に、再び匿名の封筒が届いた。
《二四番の続きは、まだ終わっていない》
中には短いメモと、もう一つのUSBが入っていた。
画面に表示されたファイルには、こう書かれていた。
《会合出席者:社外役員、広報責任者、外資顧問“L.M.”》
西村の胸に、冷たい戦慄が走った。
――やはり、影は名前を持っていた。
- 8 迷宮の残響
神戸の夜景を背に、西村は独り立ち尽くしていた。
裁判は終わった。しかし、迷宮はまだ続いている。出口の先には、次の入口が待っているのだ。
「終着駅は、まだ先かもしれない」
彼は低く呟き、冬の夜風に顔を上げた。
第八十七章 名前の影

- 1 封筒の中身
夜の検察庁。西村は薄暗い室内で、封筒に入っていた二つ目のUSBを専用端末に差し込んだ。画面に現れたのは、会合の出席者名が書かれたログの断片。そこには確かに「L.M.」のイニシャルが刻まれていた。
《会合出席者:社外役員、広報責任者、外資顧問L.M.》
そして続くメモには、こう記されていた。
《運転士過失を強調する方針を確認。報告書は“合理的な説明”を最優先に》
西村は深く息を吸った。判決で「外資の影」は言及された。しかし、それはあくまで“抽象的な影響”としてだった。だが、ここにあるのは実名に繋がる断片――“顔を持った影”だ。
- 2 報道の波紋
翌朝、検察庁周辺には報道陣が詰めかけていた。どこからか「外資顧問L.M.」という名前が流れ出たのだ。ニュース速報にはこう踊っていた。
《JR事故隠蔽 外資顧問“L.M.”の関与疑惑》
海外の通信社も即座に反応した。
「日本の司法が国際資本の圧力を認定した直後、具体的な名前が浮上した」
その一文は、瞬く間に世界の見出しを飾った。
庁舎を出る西村に、マイクが押し寄せた。
「外資顧問の関与は本当ですか?」
「検察は新たな捜査に着手するのですか?」
彼は口を固く閉じ、ただ一言だけ答えた。
「コメントは差し控えます」
- 3 遺族の動揺
神戸市郊外の記録室。新聞を手にした遺族たちは、互いに顔を見合わせた。
「やっぱり名前があったんだ……」
「誰かが隠してきたのね」
舟橋は静かに頷いた。
「名前が出れば、必ず新しい波が起こる。だが私たちが求めているのは“罰”だけじゃない。“再発防止”だ。名前があろうとなかろうと、根は同じだ」
それでも、遺族の胸に去来するのは「隠してきた相手への怒り」だった。彼らの涙は、決して乾くことはない。
- 4 弁護人の苦悩
大阪の事務所で新聞を見つめた宮坂は、額に手を当てた。
「L.M.……」
判決が下った後、ようやく静けさを取り戻しつつあった法廷に、再び火が点けられた。もしこの存在が証明されれば、会社側の“防波堤”は完全に崩れる。
同僚の弁護士が問う。
「再審になると思いますか?」
宮坂は首を振った。
「分からない。ただ一つ言えるのは――迷宮は終わっていないということだ」
- 5 外資の反応
ロンドン。霧雨に濡れるシティのホテルの一室で、マクスウェルは記事を手に取った。
《外資顧問L.M.、JR事故報告書に影響か》
彼は微かに笑みを浮かべ、窓の外に目をやった。
「名前は記号になる。L.M.――それは私か、それとも別の誰かか」
彼にとって重要なのは、真実ではなく“物語”だった。物語が資本を動かす。物語が国家を揺らす。そのことを、彼は誰よりも知っていた。
- 6 国会での波紋
東京・永田町。衆議院の委員会では「外資顧問の関与」をめぐる追及が始まっていた。
「政府は、この“L.M.”なる人物の存在を把握していたのか!」
「外資ファンドと国土交通省との関係はどうなっているのか!」
答弁に立った官僚は汗を滲ませながら言葉を濁した。
「現時点で把握している情報はございません。ただ、必要な調査は進めております」
その場にいた誰もが、これが新たな政局の火種になることを悟っていた。
- 7 記録室の誓い
夜、記録室に集まった遺族たちは、ホワイトボードに大きく文字を書いた。
《名前が出ても、真実をねじ曲げさせない》
舟橋はその文字を見つめ、深く頷いた。
「迷宮はまた広がるだろう。だが私たちは歩き続ける。たとえ出口が見えなくても」
- 8 西村の決意
庁舎に戻った西村は、机の上のUSBを手に取った。
「これをどう扱うかで、未来は変わる」
検察として公表するか、研究者や記録室へ渡すか、それとも封印するか。
彼は窓の外に広がる神戸の夜景を見ながら、心の中で答えを出した。
「真実は、光に晒さなければならない。迷宮は、出口を作らなければならない」
- 9 迷宮の名
翌朝の新聞一面には、こう記されていた。
《“L.M.”の影、再び司法の俎上に》
市民の声は揺れていた。
「結局、誰も責任を取らないんじゃないか」
「いや、名前が出ただけでも大きな一歩だ」
街のざわめきは、再び社会全体を巻き込む渦となっていた。
- 10 影の声
夜更け、記録室のポストに一通の手紙が投函されていた。
《真実はまだ奥にある。L.M.は入口にすぎない》
舟橋はそれを読み、胸の奥に冷たいものを感じた。
――迷宮は、まだ終わらない。
(第八十八章につづく)
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