西村京太郎を模倣し、『JR福知山線脱線事故』を題材にした小説、「終着駅の迷宮」(ラビリンス)第六十三章・第六十四章

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第六十三章 揺れる証言の狭間で

 法廷の空気は、かつてないほどに張りつめていた。午前十時を告げる鐘が裁判所の中庭に響き渡った頃、傍聴席には既にぎっしりと人が詰めかけていた。福知山線脱線事故をめぐる裁判は、世間の注目を集め続けてきたが、この日の公判は、証人としてかつてJR西日本で安全管理に携わっていた中堅社員・杉本浩一が出廷することが伝えられていたからである。

 杉本は五十歳を過ぎたばかり、少し痩せた体に深い皺を刻んだ顔立ちが印象的であった。黒いスーツを着こなしながらも、落ち着かぬ様子で法廷に姿を現した瞬間、傍聴席にどよめきが走った。

 裁判長が入廷し、一同が起立した後、検察官が口火を切った。

「杉本さん、あなたは当時、安全管理室の副主任として、現場から上がってくる報告書を確認する立場にあったのですね」

「……はい」

 小さな声で答える杉本。その声は法廷内のマイクを通じて広がったが、震えを隠すことはできなかった。

「事故の一年前、宝塚駅付近のカーブにおける速度超過の危険性について、現場から報告があったのを覚えておられますか」

「……覚えています」

「しかし、その報告は上層部に上がる前に、握り潰された。あなたは、その処理に関与していたのではありませんか」

 法廷に緊張が走る。傍聴席の人々は一斉に息を呑んだ。杉本は口を開きかけ、しばし沈黙した。まるで何かを決意するかのように深呼吸し、彼はようやく言葉を紡いだ。

「……確かに、私は報告書を見ました。しかし、上に上げることはできませんでした。上層部から“問題を大きくするな”と指示があったのです」

 この発言に、傍聴席からざわめきが湧き起こった。裁判長が木槌を叩き、静粛を命じる。

 検察官は間髪入れずに追及した。

「その“上層部”とは誰を指しているのですか」

 杉本は顔を伏せ、躊躇した。だが、裁判官の鋭い視線に促され、やがて意を決したように名を告げた。

「……当時の安全対策部長、そして運行管理本部長です」

 法廷に再びざわめきが広がる。二人とも、この裁判の被告人席にはいない人物であった。すでに退職し、責任の追及を逃れた形となっている上層部の名が、ここで初めて明らかにされたのである。

 弁護人がすぐさま立ち上がり、声を張り上げた。

「異議あり! 証人は、自らの責任を回避するために上層部を悪者にしているだけです。信憑性に欠けます!」

 だが、杉本の表情には、どこか吹っ切れたような陰影があった。彼は淡々と続ける。

「私は、あの日からずっと罪の意識に苛まれてきました。報告書を握り潰すことで、自分の職を守ったつもりでした。しかし……結果として、あの多くの犠牲者を救う機会を見逃した。私がしたことは、消せない罪です」

 彼の声は震えていたが、言葉には確かな重みがあった。

 検察官は頷き、さらに核心に踏み込む。

「つまりあなたは、組織の内部における“沈黙の圧力”が、この事故の遠因となったと証言するのですね」

「はい……。現場が危険を訴えても、数字と効率ばかりを追い求める経営の論理に押し潰されてしまったのです」

 その瞬間、法廷内の空気が一層重く沈んだ。犠牲者遺族の席から、抑えきれぬすすり泣きの声が響く。ある女性は手に握りしめた遺影を胸に抱き、涙を流していた。

 杉本はそれを一瞥し、言葉を詰まらせた。だが、再び視線を上げ、毅然とこう言い切った。

「私はもう、自分の保身のために嘘を重ねることはしません。真実を語ることでしか、亡くなった方々に顔向けできないのです」

 裁判長が静かにうなずき、証言を記録に残すよう書記官に指示を出した。

 しかし、ここで弁護人は逆襲に転じた。

「杉本さん、あなたが本当にそう感じているなら、なぜ事故直後、真実を語らなかったのですか。なぜ十数年も経った今になって証言するのですか」

 鋭い問いに、法廷の視線が再び杉本へと集まる。彼はしばらく沈黙し、そして自嘲気味に微笑んだ。

「……臆病だったのです。家庭を失うのが怖かった。会社を追われるのが怖かった。私は……卑怯者でした」

 その声は震えながらも、どこか救済を求めるような響きを帯びていた。

 裁判長は、その答えを確認すると、証言を打ち切った。

「本日の証言はここまでとする。午後の審理は、改めて検察側と弁護側の意見を聞いた上で進める」

 法廷に退出を命じられた杉本は、ふらつきながらも歩みを進めた。傍聴席の視線が彼を追い、記者たちが一斉にメモを取る。その姿は、まるで十数年の沈黙を破り、ようやく光の下に出た影のようであった。

 その日の夕刊には、「元安全管理職員、衝撃の証言」「隠蔽の構造が明るみに」といった見出しが躍った。だが同時に、被告席に座る現場指揮者たちの責任が、どこまで追及されるのかという新たな疑念も生まれていた。

 裁判の行方は、ますます迷宮のように複雑さを増していった。誰が真の責任を負うべきなのか。組織という巨大な壁に埋もれた真実を、法廷は最後まで掘り当てることができるのか。

 午後の開廷を前に、法廷の外には再び長蛇の列ができていた。人々は真実を渇望し、その行方を見届けようとしていた。

第六十四章 対立する声の奔流

 午後の開廷を告げるベルが、法廷の奥に低く響いた。午前の証人・杉本浩一の証言は、法廷の空気を根底から揺るがした。その影響は裁判所の外にも及び、昼のニュースでは「隠蔽の構造」「組織の沈黙」といった見出しが並んでいた。記者たちは興奮気味に記事を打ち込み、被害者遺族は胸を掻きむしられるような思いでテレビ画面を見つめていた。

 午後一時。再び法廷が開かれる。傍聴席はさらに人で溢れ、立ち見が出るほどである。裁判長の入廷とともに、厳かな空気が再び場を支配した。

「それでは審理を再開する」

 裁判長の短い言葉に続き、検察官が立ち上がった。彼の手には分厚い資料の束が握られている。

「午前の証言に関連し、新たな証拠を提示いたします」

 スクリーンに投影されたのは、十数年前の内部会議の議事録であった。そこには、カーブの危険性を指摘した現場報告が正式に議題に上っていたこと、しかし「利用者への不安を煽る」との理由で調査を打ち切るよう指示があったことが記されていた。

 傍聴席がざわめく。

 検察官は声を強めた。

「これは、先ほどの証人の証言を裏付けるものです。つまり、現場が危険を訴えていた事実は、会社の中枢で意図的に黙殺されたのです!」

 犠牲者遺族の席から、思わず嗚咽が漏れた。ある老婦人がハンカチで目を押さえながら呟く。

「やっぱり……隠してたのね……」

 裁判長が木槌を打ち、静粛を促す。しかし、その重苦しい感情の奔流は容易に収まらなかった。

 弁護側が立ち上がる。

「異議あり! この議事録は確かに存在します。しかし、そこに被告人たちの名はありません。責任の所在が不明確なまま、この証拠を被告人の罪状に直結させるのは論理の飛躍です!」

 弁護人の声は鋭く、しかしどこか焦燥を帯びていた。被告席に座る元運行管理者たちは、顔を青ざめさせたままうつむき、時折小さく咳払いをしていた。

 検察官は譲らなかった。

「確かに名指しはされていません。しかし、組織の中で黙殺の決定が下された事実は明らかです。そして被告人たちは、その決定を現場へ伝える立場にあった。結果として、安全よりも効率を優先する圧力を強め、事故を引き起こしたのです!」

 裁判長は書記官に議事録の写しを提示させ、慎重に確認した。

「……確かに、この文面は重い。しかし、責任の連鎖をどこで区切るのか、慎重な検討を要する」

 弁護人はここで逆襲に出た。

「検察は、組織全体を悪者に仕立て、責任を拡大解釈しているに過ぎません。本件は現場での判断ミス、すなわち運転士の速度超過が直接の原因です。安全を守るべきだったのは、彼自身なのです!」

 その言葉に、遺族席から憤怒の声が上がった。

「彼一人のせいにする気か!」

「組織が追い詰めたんだろう!」

 裁判長は再び木槌を打ち、声を荒げた。

「静粛に! 感情の表出は理解するが、ここは法廷である!」

 しかし、法廷内の空気はもはや制御不能に近かった。検察と弁護が互いに譲らず、犠牲者遺族の感情も渦を巻き、法廷は嵐の中にあるかのようだった。

 やがて、裁判長は深くため息をつき、言葉を発した。

「本件の審理は、もはや単なる刑事責任の追及にとどまらぬ。組織的な問題をどこまで掘り下げるかが問われている。次回は、当時の経営幹部の証人喚問を検討する」

 この発言に、傍聴席から再びざわめきが走った。いよいよ、長く影に隠れていた“上層部”が法廷に引きずり出される可能性が出てきたのである。

 その日の公判終了後、裁判所の外は記者たちで埋め尽くされた。マイクやカメラが一斉に向けられ、遺族の代表が声を震わせながら語った。

「私たちは、真実を知りたいだけです。誰が悪いかを決めたいのではなく、二度と同じ悲劇を繰り返さないために」

 彼女の言葉は、冬空の下で深い響きを残した。

 一方で、弁護団の一人は記者の問いに答えながら、苦渋の表情を浮かべていた。

「この裁判は、刑事事件の枠を超えた“社会の裁き”になりつつあります。しかし、それは果たして法律に適った判断と言えるのか……」

 その呟きは、誰に聞かせるでもなく、冷たい風にかき消されていった。

 夜。ニュース番組では一日中、この公判の模様が報じられた。識者のコメントが飛び交い、コメンテーターは「組織の病理」と口にした。だが、その病理を誰が治療できるのか、明確な答えを出す者はいなかった。

 裁判は新たな局面に突入した。次回、経営幹部が証人として立つのか、それとも再び壁に阻まれるのか。

 ――迷宮の核心が、いよいよ姿を現そうとしていた。

(第六十五章につづく)

※この小説はフィクションであり、実在の人物や団体とは一部の史実を除き関係ありません。西村京太郎風のリアリズムを重視し、架空の登場人物を通じて事件の構造に迫っていく構成になっています。

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