西村京太郎を模倣し、『JR福知山線脱線事故』を題材にした小説、「終着駅の迷宮」(ラビリンス)第五十九章・第六十章

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第五十九章 消えた証拠

 冬の冷たい雨が東京地裁の石畳を濡らし、重苦しい空気が裁判所全体を包んでいた。傘を差した記者たちが、被告人や弁護士、証人たちの動きを追って入口に群がる。まるで獲物を狙う獣の群れのように。

 法廷内では、緊張の糸が張りつめていた。

 これまでの審理で、事故を引き起こしたとされる運転士・高村の過失は、状況証拠の積み重ねによって固められてきた。しかし、弁護側は「会社の安全管理の怠慢こそが根本原因だ」と一貫して主張している。

 その攻防に決定的な一撃を与えるはずだったのが、鉄道会社内部のデータサーバに保管されていた「速度制御システムの改竄ログ」だった。検察側が隠していたその存在は、内部告発によって明るみに出、弁護団は証拠提出を強く要求していた。

 だが、開廷直前になって、そのデータが「消失」したことが判明したのである。

 傍聴席にざわめきが広がった。記者たちは一斉にペンを走らせ、カメラマンがシャッターを切る。裁判長が木槌を打ち鳴らしても、騒ぎはすぐには収まらなかった。

 「静粛に!」

 裁判長の鋭い声に、ようやく法廷は沈黙を取り戻した。

 弁護人の佐伯は立ち上がり、声を震わせながら叫んだ。

 「証拠が消えたとはどういうことですか! 検察は本件データの保管責任を負っていたはずです!」

 検察席に座る主任検事・田淵は表情を崩さず、淡々と答えた。

 「当庁で保管していたサーバが不正アクセスを受け、ログが消去されました。現在、復元作業を試みていますが、完全な回復は困難と見られます」

 その説明に、法廷の空気は凍りついた。

 「不正アクセス……だと?」

 佐伯は苦々しく呟き、証人席の端に目をやった。そこには鉄道会社の元技術者・大川の姿があった。内部告発を行った男だ。大川は唇をかみしめ、視線を床に落としている。

 「それでは、真実を闇に葬ろうということですか!」

 佐伯がさらに詰め寄ると、裁判長が制止に入った。

 「弁護人、そのような憶測に基づく発言は慎みなさい。……もっとも、この証拠消失は裁判の行方に重大な影響を及ぼすことは確かである」

 重い沈黙が続く。

 ――しかし、この不可解な消失劇は、誰かの意図的な工作によるものではないのか?

 法廷にいた者の多くが、同じ疑念を胸に抱いた。

 ◇

 休廷後、佐伯は控室で頭を抱えていた。

 「これでは……全てが振り出しに戻る」

 隣に座る調査員の久保が、声を潜めて言った。

 「先生、どうやら検察庁のサーバに侵入したのは、かなり高度な技術を持つ者の仕業らしいです。……単なる偶然ではありません」

 「つまり、誰かが意図的に証拠を消した、ということか」

 久保はうなずき、さらに耳打ちする。

 「実は、鉄道会社の関連企業の中に、大手セキュリティ会社が関与しているという情報を掴みました。しかも、その会社は事故前から、速度制御システムの不具合を把握していた可能性があります」

 「……なんだと?」

 佐伯の瞳が鋭く光った。

 「もしそれが事実なら、事故の責任は運転士個人に押し付けられるべきではない。会社、そしてその背後にある利権構造こそが裁かれるべきだ」

 そのとき、控室のドアが控えめにノックされた。入ってきたのは、証人として出廷していた大川だった。

 「……話があります」

 大川の表情は固く、その眼には決意の色が宿っていた。

 「消されたデータのコピーを……私は持っています」

 その瞬間、室内の空気が一変した。

 「なんだって!?」

 佐伯が立ち上がる。大川は震える手で、小型のUSBメモリを差し出した。

 「保身のために、念のため残しておいたんです。これがなければ、会社の闇は永遠に闇のままだと思って……」

 佐伯はそのメモリを両手で受け取り、深々と頭を下げた。

 「ありがとう、大川さん。これでまだ、戦える」

 ◇

 次の開廷で、佐伯は証拠としてそのデータを提出する意向を表明した。だが、検察は即座に異議を唱えた。

 「証拠の真正性が保証されていない。違法収集証拠として却下されるべきだ!」

 田淵検事の声が響くと、傍聴席は再び騒然となった。

 裁判長は険しい表情で審理を続けた。

 「証拠能力の有無については慎重に判断する必要がある。……次回期日までに、双方は追加の主張・立証を準備するように」

 木槌の音が響き渡り、この日の審理は終了した。

 しかし、すでに裁判は新たな局面へと突入していた。

 会社の責任を裏付ける決定的な証拠。

 その存在が明るみに出ることで、巨大な利権構造が法廷の光にさらされようとしている。

 ――果たして真実は暴かれるのか、それとも再び権力の闇に封じ込められるのか。

 裁判は、最終局面へと加速していった。

第六十章 法廷の暗闘

 冬の雨は夜半に雪へと変わり、翌朝の東京地裁は薄氷を纏ったように冷え込んでいた。重い空模様の下、記者たちの吐く白い息が一斉に立ち昇り、法廷へと続く石畳の上で鋭い緊張を形作っていた。

 この日の審理は「山場」になると予告されていた。弁護側が提示しようとしている“消えたはずの証拠”が、ついに法廷で扱われるからだ。

 開廷の時刻、傍聴席は記者や遺族、市民で満席となり、立ち見すら出るほどだった。木の長椅子の背板には、緊張に強ばった指先の音が小さく響き、誰もがこの一日の結末を見逃すまいと目を光らせていた。

 裁判長の入廷を告げる声とともに、法廷は一気に静まり返った。

 「それでは、本日の審理を開始する」

 淡々とした裁判長の口調の裏に、重々しい緊張が漂っていた。

 ◇

 弁護人の佐伯は立ち上がり、深く一礼した。

 「裁判長、弁護側は新たに証拠を提出いたします」

 そう言って取り出したのは、一つのUSBメモリだった。

 傍聴席が一斉にざわめく。

 「これは、鉄道会社の内部技術者、大川氏によって保管されていた速度制御システムの改竄ログデータです。事故の直前、会社が安全装置を意図的に無効化していたことを示す記録が含まれております」

 その言葉に、記者たちが一斉にペンを走らせる。カメラのレンズが光を反射し、証拠品の一点に集中した。

 「異議あり!」

 すかさず立ち上がったのは検察側の田淵検事だった。

 「その証拠は弁護側が違法に収集したものです。検察庁の保管データが不正アクセスにより消失した矢先、同一内容を主張するデータが“都合よく”弁護側から提出される。……到底信用に値しません」

 法廷は再びざわついた。裁判長が木槌を打ち鳴らす。

 「静粛に」

 佐伯は一歩も退かず、真っ直ぐに田淵を見据えた。

 「違法ではありません。告発者本人が、自らの身の安全を守るために私的にコピーしていたものです。むしろ、問題は検察が証拠を適切に保管できなかったことにあります」

 その場の空気は一気に検察側へと厳しく傾いた。

 ◇

 証拠調べが開始され、データ解析の専門家が証人席に立った。

 「提出されたログファイルは、会社の制御サーバに記録されていた形式と一致しております。タイムスタンプも事故発生前と符合します」

 その証言が読み上げられるたび、傍聴席の空気はさらに熱を帯びていった。

 「……すなわち、鉄道会社は事故前から速度超過を想定し、安全装置を一時的に無効化していた可能性が高いと考えられます」

 検察席の田淵は汗を拭いながら立ち上がる。

 「異議! その解析は独自の見解に過ぎません。証拠の改竄や捏造の可能性は否定できない!」

 だが、証人は冷静に言葉を続けた。

 「解析の過程をすべて記録してあります。改竄の痕跡は一切ありません」

 会場全体に、確かな説得力が広がった。

 ◇

 休廷時間、佐伯は廊下で記者たちに囲まれた。

 「先生、この証拠で判決は大きく動くのでしょうか?」

 「まだ断定はできません。しかし、このデータが真正である限り、被告人個人の過失だけを問うことは不可能になるでしょう」

 その言葉に、記者たちは一斉にメモを走らせた。

 だが、その背後で、見慣れぬ黒いスーツの男がじっとこちらを見つめているのを、佐伯は見逃さなかった。

 ――会社側か、あるいは政界の関係者か。

 ぞくりとした寒気が背筋を走った。

 ◇

 午後の審理。証人として再び大川が呼ばれた。

 「私は内部技術者として、この改竄の存在を把握していました。上層部は“ダイヤ遅延を最小限に抑えるため”と説明していましたが、実際は乗務員に過度のプレッシャーをかける結果となり、事故の土壌を作ったのです」

 その声は震えていたが、言葉には確固たる重みがあった。

 「あなたは、その事実を会社に進言しなかったのか」

 田淵検事が鋭く問う。

 「しました。しかし、無視され、最後には人事異動で左遷されました」

 傍聴席の遺族から嗚咽が漏れる。

 「私は、運転士ひとりに全責任を押し付けることが許せなかった。……だから、今日ここに立っています」

 その証言は、法廷を揺るがすほどの重さを持って響いた。

 ◇

 だが、審理が終わろうとしたとき、突然、検察側が新たな証拠を提示した。

 「こちらをご覧ください」

 映し出されたのは、事故直前の運転台映像だった。

 「この映像では、被告人である高村が、警告を無視してなお加速している姿が記録されています。たとえ会社に問題があったとしても、最終的に運転を誤ったのは被告人本人です」

 映像がスクリーンに流れると、傍聴席に息を呑む音が広がった。画面には確かに、緊張した面持ちでレバーを操作する高村の姿が映っていた。

 「……これは」

 佐伯は凍りついた。

 「会社の責任を追及しつつも、運転士個人の過失を免れ得ない」

 田淵の声は勝ち誇ったように響いた。

 だが、佐伯の脳裏には、ある疑念が走った。

 ――この映像は、本当に“未編集”なのか?

 次回期日、佐伯は必ずそれを暴かなければならないと固く誓った。

 雪は降り続き、裁判はさらに深い闇と光のせめぎ合いの中へと沈んでいった。


(第六十一章につづく)

※この小説はフィクションであり、実在の人物や団体とは一部の史実を除き関係ありません。西村京太郎風のリアリズムを重視し、架空の登場人物を通じて事件の構造に迫っていく構成になっています。

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